第62話 統治者の孤独
カエムワセトがアンナの離れの扉を叩くと、ミリアムが戸を開けて出迎えた。だがその顔には、戸惑っているような何とも言えない表情を浮かべている。
「殿下。実は、その――」
上目づかいにカエムワセトとライラを見たミリアムは、説明より先に扉を開いた。
「よう」と一足早くアンナの部屋に来ていた人物が、カエムワセトに手を上げる。
「父上」「陛下」
カエムワセトとライラが同時に目を丸くした。
昨夜、カエムワセトがアンナと茶を酌み交わしたテーブルで、ラムセス二世とアーデスが同じく茶をすすっていた。
「サシバにそっくりな鷹がここで見つかったと聞いたんでな。こんなこったろうと思って先に来てたんだよ」
そう言うと、ラムセスは湯気の立つ薬草茶をごくりと飲んだ。「うえ」と苦薬を飲んだ子供の様な顔を作る。
事情を把握している割には呑気だった。しかし、報告の手間が省けたと考えたカエムワセトはラムセス二世に、兄からの要請によりリビアに発つ旨を伝えた。
ラムセス二世は薬草茶が入ったカップを置くと、腕と脚を同時に組んで大きく頷く。
「行っても良いぞ。勿論行って来い。ただし、条件がある」
そして間をおかず、眼光を鋭くした彼は「魔術師を殺すと約束しろ」と要求した。
「何故です」
カエムワセトは愕然と返す。
カエムワセトの反応を見たアーデスが、小さくため息をついた。
「戦争だからだ」
ラムセスが答えた。
「戦争だからと最初から殺すつもりで挑んでは、救える命も救えません!」
『戦争』の二文字で片付けようとするラムセス二世に、カエムワセトは語気荒く言い返す。
救世主気取りはやめろ、とラムセス二世が言った。
「確かにお前はよくやった。味方から死者を出さずダプールを奪還した手腕は見事なもんだ。けどな、それがどうした?」
顎を上げ、すっと目を細めたラムセス二世は、睥睨するように青ざめた息子を見る。
「お仲間あっての手柄なんだろうが。てめえ一人がリビアに行って何が出来る」
カエムワセトは俯いた。
それは、ラムセス二世の言うとおりである。ダプール奪還は、優秀な人材が自分の元に集い志を同じくしてくれたからこそ、成し得た業績である。
それは、カエムワセトも忘れてはいない。むしろ自分の不徳は、痛いほど痛感しているつもりだった。
しかし父王は、更に厳しい言葉で叱責した。
「お前の魔力なんざ、神官に毛が生えた程度のもんだろうが。剣すらまともに使えねえヘタレが、夢見るガキみたいな状態で行って魔術師相手にどうする気だ」
「魔術師を説得します!リラなら必ず私の呼びかけに応えてくれるはず」
「説得に応じる相手なら応援なんぞ求めて来ねえ!いい気になってんじゃねえぞ!」
魔術師とエジプト軍の両方を救おうとしているカエムワセトにラムセス二世は、そもそも目的が既に違うのだ、と息子の間違った認識を指摘した。
「お前あの二人舐めてんのか。あいつらは指揮官としてお前よりずっと優秀だ。あいつらがお前を欲しがる理由は、戦力強化に過ぎん。不得意分野を補う為だ。それが着いた途端対話だの駆け引きだのぬかされてみろ。現場が混乱して邪魔になるだけだぜ」
ここでやっと、カエムワセトは自分に求められている役割を理解した。
カエムワセトは、兄達から『魔術師を止める手助けをしろ』と求められているのだと勝手に思いこんでいた。
しかし実際は、『敵軍を潰す戦力となれ』と言われているのだ。その『敵軍』には、当然魔術師も含まれている。
考えてみれば当然だった。エジプト軍にしてみれば、魔術師も敵の一人に過ぎない。敵の魔術師は敵軍を撤退させるもしくは鎮圧する上で、自分達の前に立ちはだかる壁なのである。しかも一師団を全滅させられた今、その魔術師を救おうなどとは思えないだろう。
しかし――
「魔術師は戦場を嫌います。戦争に加担するのは何か理由があるはず。リラは私の恩人です。殺す事などできません」
「そう言うと思ったから俺はお前をダプールにやったんだ」
ラムセス二世からの返答に、カエムワセトは弾かれたように顔を上げた。
知っていたんですか。と声を震わせる。
「魔術師が誰かまでは特定しとらんがな」
特定していたところでこの人の判断は変わらなかったはずだ、とカエムワセトは確信した。
だからこそ、自分をリビアではなくダプールに出兵させたのだ。情に流され現場を混乱させない為に。
それは、全軍を統べる者として、国を守る者として正しい決断だとはカエムワセトも理解できた。理解はできたが、心が反発した。
「あいつらに協力して魔術師を殺すと約束しろ。できねえようじゃ、行かせられん」
ラムセス二世がカエムワセトに答えを求めた。恐らくこれが最後のチャンスなのだろうと思いながら、カエムワセトは小さく首を横に振った。
「約束は……できません」
隣でライラが息をのむ気配を感じた。
「ならしゃあねえな」
ラムセス二世が組んだ脚を戻し、立ち上がる。
「お前ら。こいつを拘束しろ。どっか適当なとこにぶちこんどけ」
険しい表情で成り行きを見守っていたアーデスと、カエムワセトの隣で身を固くしているライラに命じた。
おもむろにアーデスが立ち上がる。
アーデスの表情を見たカエムワセトは、彼も父の意見に同意していると察した。抵抗しようかと思ったが、抗った所で、武術指南役のアーデスに自分が敵うわけがない。
もはや拘束は逃れられないと絶望的な思いを抱きながら、カエムワセトは最後の一あがきをした。
「しかし父上。このままでは兄上達の軍は全滅します!エジプトは皇太子と最高司令官を失い、ぺル・ラムセスまで取られる事になりかねない!」
「もしそうなったらお前が皇太子だ。最高司令にはモントゥヘルケプシェフかネベンカルを立てる。都はいずれまた奪い返す」
ラムセス二世からの返答に、カエムワセトは耳を疑った。
兄二人の戦死を甘んじて受け入れ、自分が皇太子に上がるなど。そんな未来、あってたまるものかと奥歯を噛む。
「正気ですか」
「今のお前よりは正気だ」
激しい怒気を
「気持ちは分るがな、ワセト。一回頭冷やせ」
言い聞かせるように言葉をかけながら、手にロープを持ったアーデスがカエムワセトの両腕を取った。恐らく、こうなることを予想してロープを用意してきたのだろう。父王も準備の良い事だ、と怒りでまとまらない頭で考えながら、カエムワセトは手首が拘束されるのを待つ。
「おいライラ」
自分が手首を抑えておくから縛れとライラにロープを渡したアーデスだったが、ロープを握ったまま一向に動こうとしないライラに、渋面を作った。
「分った。お前はいい。貸せ」
諦めたアーデスは、ライラの手から一度渡したロープをふんだくった。
ライラはロープを取られた姿勢で固まったまま、手首を縛られるカエムワセトをただ見つめた。
アーデスがカエムワセトを連れて部屋から出て行くと、ラムセス二世がアンナに顔を向けた。
「失礼した。騒がせたな」
まともな話もできたのか。
一部始終を黙って見ていたアンナは、意外な面持ちでラムセス二世を見上げた。
初見の際は部下になじられながらふざけてばかりだったエジプトのファラオの別の一面を垣間見たアンナは、初めてまともな顔を向けて来たラムセス二世に対し、真面目にしていれば見ていて気持ちの良い美丈夫だ、と感想を抱く。
無表情に自分の顔をじっと見つめてから「かまいません」と短く返答してきたアンナの反応に、ラムセス二世は気分を害させたと勘違いし「すまんかった」と謝った。
そして謝罪ついでに、もしカエムワセトが縄を解いてここに来たり、カエムワセトの仲間が手助けを求めに来ても応じないよう頼む。
アンナは首を傾げた。
「さあ。それは了承しかねます。私は第四王子に忠誠を誓った身ですので」
そう答えると、昨夜のエイベルとの争いの中、民衆の前ではっきりとカエムワセトに忠誠の宣言をしたと説明した。
「そんな事言うなよぉ」
途端、ラムセス二世の凛々しかった相好がガタガタと崩れ、出された言葉に見合った情けない顔になる。あっという間におフザケに戻ったファラオに、アンナはくすりと笑った。
「統率者とは、孤独なものですね」
ラムセス二世の去り際、扉を閉めるその背中に、アンナはぽつりと小さな言葉を投げかけた。
アンナの部屋には、ライラが残っていた。
カエムワセトがアーデスに連れて行かれ、ファラオが退出しても、ライラはそこから動く事が出来なかった。
後ろの本棚にもたれかかると、そのままずるずると床まで滑り落ちる。
「何やってるんだろう私。陛下の命令に従わず、殿下をお守りする事もできなかった」
ぺたりと座りこんだライラは、茫然と言った。
ミリアムが蒼白になっているライラを心配そうに見やる。
「何故どちらもできなかったのです?」
独り言だとは分っていたが、アンナは痛々しい様子のライラに声をかけた。
ライラは悪事の理由を聞かれた子供の様な顔をアンナに向けると、ゆっくりと説明する。
「親衛隊員として殿下の御心に従いたい気持ちはあったけれど、陛下の御言葉が正しいと感じました。それで、身動きが取れず」
「ならそれはあなたが取る行動としては間違っていなかったのかもしれませんね」
自分の行動を否定しなかったアンナの言葉に、薄く開いていたライラの口がぴくりと動いた。何か言いたげに両の唇を上下させたが、結局何の言葉も出されないまま口が閉じられる。
「お茶でも飲む?」
アンナはミリアムに気分が落ち着く薬草茶を淹れるよう言いつけた。ミリアムは頷くと、パタパタと台所へ走っていった。
ライラに椅子に座るよう促すと、ライラはのろのろとした動作ではあったが、言われた通りアンナの前の椅子に腰をかけた。
その行動からライラが素直な性格の持ち主だと判断したアンナは、ライラに見合った解決法を考え、口にする。
「あなたの体はあなたの心に従って動かなかっただけでしょう。立場に左右される必要はないのでは?」
解決法というよりも、ただの心構えでしかなかった。
だがライラは、教師から教えを説かれている生徒のような眼差しでアンナを見返した。
そんなに意外な助言だったかしら。
内心首を傾げながら、アンナは一つ、ラムセス二世とカエムワセトのやり取りの間、ずっと気になっていた事柄をライラに訊ねる事にした。
「一つお聞きしますが。殿下に魔術師と同等の力があれば、先程の問答は解決するのですか?」
え?とライラが顔を上げる。
アンナも、え?と返した。もしかして、本人も気付いていないのか。
「私の見た所、殿下のお力は神官に毛の生えたレベルではありませんよ。魔術師と名乗っても恥ずかしくないくらい強い力をお持ちです」
アンナの言葉に、ライラは困惑した表情を見せた。
「いえ。殿下の魔力は魔術師よりもずっと劣るはずです。しかも先の戦いで、魔力は一度底を尽きてしまいましたし。まだ回復途中だと言っておられました」
「回復途中……」
アンナは復唱しながら考えた。読み漁って来た文献の知識から現在のカエムワセトに適合する記述を探り出す。
そして、ある可能性に辿り着いた。
「少し、その先の戦いとやらの内容を聞かせて頂けますか?そこにヒントがあるようなので」
アンナの予想では、今のカエムワセトの状態は非常に珍しい事例となるはずだった。
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