第61話 魔術師リラとの思い出
カエムワセトがリラと出会ったのは二年近く前。オアシスの中だった。知恵の神トトが書いたとされる魔法書 “トトの書”探索の旅の終板での事である。
カエムワセトがヤシの木の根元でアーデスとライラと自分の三人分の昼食を焚いていたところに、リラはふらりと現れた。
『いいにおい。それ何?』
背にしていたヤシの木の奥から、鼻をひくひくさせながら声をかけて来た少女に、カエムワセトは驚いた。
まさかこのオアシスに自分達以外の人間がいるとは思っていなかった。
カエムワセトは、躊躇いがちに『干し肉を水で戻しただけのスープだけど……』と答えた。
そこは砂漠にぽつぽつと点在する小さなオアシスの一つで、人の気配がないのは既に確認済みだった。一体どこから来たのかと不審に思う。
『君は一人?』
カエムワセトの問いに、全身薄汚れたリラは泥だらけの顔を前にこくん、と倒した。
臭いは無いが、全身を見るに何日も身体を洗っていない事が伺えた。孤児の浮浪者なのだろうか、と思った。それとも、実はどこかに仲間がいるのか。
『それおいしい?』
警戒するカエムワセトに、リラは薄い笑みを湛えたどことなくぼんやりとした顔で訊ねて来た。
『えっと……どうだろう』
オアシスで適当に拾った木の棒でスープをかき回しながら、カエムワセトはたどたどしい返事とともに首を捻った。
正直、料理の腕にはそれほど自信が無かった。アーデスもライラもカエムワセト自身も “飯は腹を下さなければ合格” という人種だったからだ。ちなみにその時のスープは、壺に干し肉と水と塩を適当にぶちこんで、煮込んでいるだけだった。
アーデスとライラが食べられそうな草を探しに行ってはいるが、収穫が無ければ塩味の肉汁が完成する予定だ。
『味見、してみる?』
リラはヤシの木の影から出てきて、ふわふわと湯気を上げる壺の真上に顔を持ってきていた。
目を細めながらスープから漂う湯気を小さな鼻腔に吸い込んでいるリラを見て、腹を空かしているのだろうと判断したカエムワセトは、食器用の袋から椀を一つ取りだすと、直接スープをすくってリラに差し出した。
細かい干し肉がゴミのように浮かんだ透明なスープは、正直ただしょっぱいだけの湯だろうとは思ったが、何も無いよりはマシだろうと考えた。
薄い笑顔に嬉しそうな色を浮かべたリラは、熱いスープが入った椀を両手で受け取ると、吹き冷ましもせずにごくりと一口飲んだ。
『あっ――!』
湯気が出ているのを見ているはずだから当然冷ましてから口にするだろうと思っていたカエムワセトは、火傷を心配して慌てた。
しかしリラは何も言わず、口から椀を下げた。その表情からは、熱いもマズイも美味いも、何の感想も読みとれなかった。
試しに『おいしい?』と聞いてみた。
小さな舌を出して唇をぺろりと一周舐めたリラは、『あんまり』と答えた。やはり美味しくなかったか、とカエムワセトは肩を落とした。
しかし、再び椀を持ち上げたリラは、美味しくないスープの残りをごくごくと豪快に飲み始めた。
最後の一滴まで残さぬよう念入りに何度も椀をあおったリラは、すっかり空になった椀を下ろした。
『お腹があったかくなった。ありがとう』
そう言うと、初めてそれと判別できる微笑みを浮かべた。
どういたしまして……。
リラの豪快な呷りっぷりに感心しながら、カエムワセトは返された椀を受け取った。
『もし今度会えたらお返しをするね。今は何も持って無いんだ』
そう言ってその場を立ち去りかけたリラを、カエムワセトは『ちょっと待って』と留めた。そのオアシス一帯は、四方どこへ行っても砂漠が続く極限の乾燥地帯だったからである。一番近くの村までは何十キロも離れていた。
『どこに行くんだ?この周りは砂漠ばかりだから、一人だと危ないよ』
これから村に向かう予定だから一緒に行こうと言ったカエムワセトに、リラは小首を傾げて『平気だよ。トカゲもサソリもヘビもいるもん』と返した。
だから?
リラの正体をまだ魔術師だと知らず、ただの風変わりな孤児だと思っていたカエムワセトは、何とも言えない表情で心の内で質問を返した。
リラがにこりと笑った。
あ、笑った。
とカエムワセトは思った。やっと、笑顔らしい笑顔を見た気がした。
『わたしリラ。あんたは――』
自己紹介をし、カエムワセトの名前を求めかけたリラだったが、何かの気配を察知したようにふと顎を上げると、耳を澄ますように顔を傾け、目を細めた。やがて両の口角をきゅっと上げると、カエムワセトの愛称を見事言い当てた。
『ワセトだね』
そこで初めてカエムワセトはリラの異質さに気付いた。立ち去ろうとするリラを慌てて引きとめようとしたところ、遠くからアーデスが自分を呼ぶ声が聞こえた。そちらに気を取られた一瞬のうちに、リラは消えていた。
再会したのは、三日後である。
“トトの書”のありかであるネフェルカプタハの墓をつきとめ、ネフェルカプタハのミイラの手の内から“トトの書”を奪った直後だった。
ネフェルカプタハの凄まじい魔術の応戦に遭い、ぼろぼろになりながら墓から這い出て来た三人の前に、リラは幻影が形を帯びた様な佇まいで立っていた。
『リラ?』
起き上がる力すら残っておらず、仰向けに寝転んだまま見上げたカエムワセトに、リラは感情の見えない薄い微笑みで言った。
『早くそれを戻しておいで』
自分の右手に持っているものを指しているのだというのは分った。
四年もの歳月を費やし、たった今、正に死ぬ思いで手に入れた伝説の魔法書 “トトの書”。
カエムワセトはゆっくり首を左右に振った。
『私はこれで、兄上を生き返らせたいんだ』
邪魔をしないでくれ。
と、まだ整わない息でリラの忠告を退けた。
リラがすっと目を細め、微笑みか侮蔑か判別に困る表情でカエムワセトを見下ろした。
『邪魔をしに来たんじゃないよ』
囁く様な声で受け答えたリラは、ゆっくり腰をかがめると、その白面をカエムワセトに近づけた。
カエムワセトの顔面に当たっていた眩しいくらいの太陽光が、リラの顔とその両側から落ちて来た金色の髪に遮られ、影を作った。
あんたを助けに来たんだよ、ワセト。
頭の芯に響く様な囁き声と、どこか人を超越したその微笑は、カエムワセトから抗う気力を完全に失わせた。
カエムワセトは魔術師リラの忠告通り“トトの書”を広げる事もなく、ネフェルカプタハの墓に戻した。
それからリラは、暫くカエムワセト達と行動を共にし、ぺル・ラムセスまでの復路をその独特の浮遊感と常識離れした行動で仲間を驚かせ、楽しませた。
リラは人の社会の食べ物を気に入ったようだった。特に蜂蜜とバターを練り込んだパンや、ドライフルーツを混ぜたケーキを口にした時には、目を輝かせていた。他の食べ物には目もくれずそればかり食べるので、栄養面を気にしたライラは、しょっちゅうリラの食事の世話を焼いていた。
リラの魔力は強大だった。カエムワセトをはるかに凌いでいた。時にリラは、その強大な魔術を用いて旅の助力となってくれた。ネフェルカプタハとの戦いですっかり魔術恐怖症に陥ったライラには苦行だったようだが、それでもライラはリラに姉のように接していた。
そして、一年ぶりに再会した『守護する者』との戦い。リラは危険を顧みず、カエムワセトに警告を与え、共闘してくれた。
いつもふらりと現れては、目を離した一瞬のうちに消えてしまう。
リラの詳しい交友関係をカエムワセトは知らない。
しかしリラは確かにカエムワセトの仲間であり、戦友であり、恩人でもあった。
夢が気になる。夢の中で、リラは怪我を負っていた。事故か。それとも怪我を負わされたのか。
陸路や船は到着まで何日も要す。敵方がリラを囲っているのなら、移動している間にエジプト軍は確実に全滅させられる。
ならば方法は一つしかない。
「殿下!どちらに行かれるのです!?」
中庭から横にぴったり付いてきているライラが、早足にどこかへ向かうカエムワセトに質問した。
カエムワセトはミリアムに案内された道順を思い出しながら、廊下の角を曲る。
カエムワセトが急に曲ったので、そのまま真っ直ぐ行きかけたライラは慌てて方向転換してカエムワセトを追いかけた。
再び横に並んだライラに、カエムワセトは説明する。
「ドゥアイトは、アンナ殿の部屋から発見された。きっと、リビアから神官に送られてきたんだよ」
ラメセスとアメンヘルケプシェフは、近隣の神殿から魔力の高い腕利きの神官を招集していた。彼らならば、鷹一羽くらいなら魔物戦の時のように長距離を結ぶ“道”を作る事が出来るはずだ。
「ドゥアイトが通った道があるはずなんだ。それを探す」
ドゥアイトが通った道がまだ残っていれば、それを利用してリビアに移動する事も可能だと考えたカエムワセトは、ドゥアイトが発見されたという、アンナが住む西側の離れに向かっていた。
早足から小走りになりつつあるカエムワセトの隣で、ライラが表情を曇らせる。
「私は信じられません。あの子が敵に回ったなんて」
「私も信じられないよ」
カエムワセトはライラに同意する。
しかし、手紙に書いてあった。『セト師団全滅』と。
リラなら一個師団を殲滅するのはたやすい。
「他の魔術師の可能性はないのですか?」
「ないわけじゃないが――ごめん!こっちだった」
再び角を曲ったが間違いだったと気付き、慌てて元の廊下に引き返す。ライラはつんのめりながら方向転換をして、カエムワセトについてきた。
「金髪、小柄、女。元々個体数が少ない魔術師の中でこの条件に該当する人物がどれだけいるか……」
カエムワセトが苦々しく言った厳しい現実に、ライラがきゅっと口を結ぶ。
「とにかく、行って確かめなければ」
どちらにせよ、今すぐリビアへ発たねばならない状況は変わらない。兄達を戦死の危機から救い、相手方の魔術師を止めなければならない。魔術師がリラなら、取り戻さねばならない。
『第四王子の救援求む』
エジプト軍最高司令と皇太子。まさかの両兄からの要請である。もはやカエムワセトには、一刻の猶予も無かった。
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