第60話 束の間の休息

 太陽が中天にさしかかったというのに、熱くない。


 エジプトの攻撃的な太陽光しか知らないカエムワセトは、肌を撫でて来るような柔らかな熱を奇妙に思いながら、ダプール城の中庭を独り歩いていた。

 散策、といってもいいのかもしれないが、疲労で頭はぼやけているし、景色を楽しむと言うよりはどこかゆっくり腰をおちつけられる場所を探しているだけなので、やはり歩く、で正解なのだろうと、どうでもいい事を考えながら中庭を進む。


 中庭と言っても庭師一人の手でなんとかなる程度の規模だったので、難なく中央にテーブル付きの椅子を見つけることができた。


 腰かけると、日光で温められた石の座面が温かかく心地よかった。上手い具合にテーブルもあるし、ここに突っ伏して少し眠ろうかと考える。鏡面の如く磨き上げられたテーブルの表面に触れると、生き物のような程良い温もりを掌に感じた。


 カエムワセトは久しぶりに穏やかな気持ちになっていた。

「後は俺に任せて休め」と父王は事後処理を買って出てくれた。投獄した執政やダプール軍司令官および副官、そしてエイベルの処遇をラムセス二世に一任し、特にやることがなくなったゲリラ部隊の指揮官は、ようやく本国とは異なった土地の気候を感じ、楽しむ余裕が出て来たのである。

 熱くも寒くも思わなかったダプールの空気を今はぬるく感じ、ただ袖を通していただけだった着慣れない長袖の衣服を落ち着かなく思ったカエムワセトは、袖を折ってめくり上げた。

 湿った土と濃い草木の香りが当たり前に溢れている土地を目の当たりにし、ずいぶん遠くまで来たのだと実感する。


「殿下。ここにいらっしゃいましたか」


 石壁に四角く縁取られた青空をぼんやり眺めていると、声がかかった。

 腹に銅製のボウルを抱えたライラが、庭を抜けてやって来る。

 戦いを前に切り取ったのか、地面に引きずるほど長かったスカートの裾がいつの間にか膝くらいまで短くなっている事にも、ようやく気付いた。が、いつもは腿の上までの短いチュニックが通常のライラは、これでも足をさばきにくそうに草を避けて歩いている。


「傷の手当てをいたしましょう。包帯も随分汚れてしまいましたし」


 ようやく草の無い中央スペースに辿り着いたライラは、石テーブルの上に綺麗な水を張ったボウルと布。そして新しい包帯を置いた。


 言われて右手を見ると、白かった包帯は血や泥や汗ですっかり変色していた。

 よく見ているんだな。と素直な感想を口にすると、ライラは照れ笑いを浮かべてから「当然ですとも!」と胸を張った。


 指示されるままに掌を上に向けて右手を差し出すと、地面に両膝をついたライラは慣れた手つきで包帯の結び目を解きだす。


「すまない。皆頑張ってくれたのに、無血開城は叶わなかった」


 気が緩んだせいか、弱音の様な謝罪が口から滑り落ちた。

 味方に死者は出さなかったが、シャルマとヒッタイト兵8名が命を落とした。目標にしていたものの難しさを、カエムワセトは改めて痛感した。


「何を仰います。味方を失わなかった戦など、私は初めてですよ!」


 吊り目でちらりとカエムワセトを上目づかいに見たライラは、汚れた包帯を丸めながらそう返した。

 傷が顕わになった掌を確かめ、血は止まったようですね。と安堵した表情を見せる。


「今はお辛いでしょうが、段々落ち着きます。忘れる事はできませんが、日にち薬ですから」


 穏やかに言いながら、ボウルの水に浸した清潔な布を絞り、血と汗で汚れた掌を拭いてゆく。

 カエムワセトは、これくらいなら自分が。と布を受け取り、自分で掌の汚れを拭った。


「いつか慣れるんだろうか」


 拭いながら、ぽつりともらす。


「慣れないかもしれません」


 汚れが落ちて行く主人の掌を眺めながら、ライラが間をおかずに静かに答えた。


「私も最初は慣れるんだろうと思っていました。そのうち麻痺してくるんだろうと。上官も平気な顔をしていましたし。実際、麻痺したと言う同僚も大勢います。でも私は、一人になると、ふと頭によぎるんです。眠る前には大体、殺した相手の死に顔が浮かびます」


 戦争、と呼ばれる場に出陣したのはこれが初めてだが、ライラはこれまで何度も国内で起こった小競り合いや暴動の鎮圧などにかりだされている。仲間が殺される場面も見たし、自分も人を殺した。


「辛くて一度、アーデスに相談した事があります。そんなものだ、と言われました」


 戦歴豊富な傭兵は目に隈を浮かべているライラに、とことんまで疲れたら勝手に寝られるから心配すんな、とも言ったらしい。


 カエムワセトが「アーデスらしいな」と苦笑うと、ライラも「そうですね」と新しい包帯を手に取りながら応じた。しかしそれから、

 ただ一つだけ、助言をくれたのだ、と明かす。


「殺した相手の顔が頭から離れない時は、好きな物を思い浮かべろと」


 単純ですよね。とライラは笑った。

 でも、それが案外効くんです。とも。


「花でも食べ物でも景色でもなんでもいいんです。死に顔を消せるものならなんでも」


 説明しながら、真っ白な布でくるくると切り傷を覆ってゆく。


「殿下でしたら……そうですね。これまで修復された遺跡などを思い出してみては如何でしょう。いつも夢中になっておられますし」


 主人の懐古趣味をよく知り、遺跡の修復にも護衛としていつも同行するライラは、灼熱の砂も照りつける太陽もものともせず、時には水を飲むのも忘れて古代の王の墓や神殿の測量や発掘に勤しんでいるカエムワセトの横顔を思い出し、目を細めた。


「遺跡……」


 カエムワセトは呟いて考え込んだ。

 確かに遺跡は好きで趣味でもあるが、あれを思い出すと、どうしても日射病寸前の頭痛や吐き気の辛さもオマケに蘇ってくる。

 もう少し穏やかな好物はないものか。


「ライラは何を思い出す?」


 参考程度に訊いてみた。


「私ですか?」


 意外な質問だったのか、包帯の終わりを結んだライラは、目を丸くしてカエムワセトを見上げた。


 私……私は……。


 ごにょごにょと口ごもりながら質問者と目を合わせていたライラだったが、やがて口を結ぶとそれを波立たせ、横を向いてしまう。


「さあ~。なんでしょうねぇ」


 と声を上ずらせて頭を掻いた。


「そ、それにしても!ここは別世界ですね。風も陽射しも全然違うし!」


 そして、勢いよく立ち上がったと思ったら、あからさまに話題を変えた。


 あまり触れてはいけない内容だったのかと考えたカエムワセトは、変更された話題に応じる事にする。


「ここが気に入った?」


「そうですね。確かに過ごしやすくはありますが……」


 腕を組み、顎を指先でトントンと叩きながら、ライラは答えを思案する。


「でもやっぱり、エジプトの方が好きですね。私、熱さには強い方ですし、ナイルの水のほうが体に合いますし、砂の匂いも嫌いじゃないんです」


 そして一瞬間を置き、こう続ける。


「それに何より、殿下がいらしゃる国ですもの!」


 力強く頷いたライラは、鼻息荒く宣言すると同時にカエムワセトを見た。頬が赤くなっている。


 会話の最後に乗っけるが如く一世一代の告白を頂戴したカエムワセトは、しばし呆然とライラを見返した。


 穏やかな中庭で時間を止めた様な沈黙が続く。


 息が止まりそうな沈黙に段々と耐えられなくなったライラは、レモンを噛った時の様な顔を作ると、この難局を打開しようと無理に先を続けた。


「し、親衛隊はいかなるときも主と運命を共にするのが役目ですので!殿下がおわすところには付き従うのが当然ですので!例えそこがエジプトだろうがシリアろうがヒッタイトだろうが私たちはどこへでも――」「ライラライラライラ。ちょっとちょっと一旦待って」


 そのライラの様子に、無茶苦茶に水を掻いて水泳の訓練をしていた昔の自分を重ね合わせてしまい、高鳴っていた心臓が急激に落ち着くのを感じたカエムワセトは、慌てて忠臣の方向転換を止めさせた。


「私は、ライラがいてくれたら大丈夫な気がするよ」


 そして、いつか言おうと思っていた言葉を口にする。


「だからその……ライラが嫌でなければ、私とけっ」「サシバが二羽いるのぉ!!」


 口にしようとしたのだが、肝心なところで邪魔が入った。カエムワセトは首を垂れる。


「パシェドゥあんた、なに訳わかんないことを」

 

 両脇に茶色い物体を抱え、意味不明な悲鳴と共に乱入してきた華やかな男を、ライラはウジ虫でも見る様な顔で迎えた。


 ライラを見るや否やパシェドゥが相好を崩し、「あらライラ~。いつ見てもライオンちゃんみたいで可愛いわねぇ」と褒め称える。しかしすぐさま正気に戻った彼は、「いやそうじゃなくてね!」とかぶりを振った。


 船旅の中でヘレナとダリアから、『パシェドゥがあんたに構うのは動物を愛でているのと大して変わらないからあまり気にするな』との忠告を受けていたライラは、自分をタテガミを生やした珍しい雌ライオンとしか認識していない男からの嬉しくない讃辞に、嘆息するだけでとどめておく。


「さっさと要件を言いなさい」


 だが、先を促した言葉に苛立ちが混ざるのは止められなかった。


 だから、同じ鷹が二羽いるんだってば!


 パシェドゥはじれったそうに上体を左右に回旋させると、両脇に抱えている茶色いものを持ち上げて見せた。

 それらは、双子の如くそっくりな鷹だった。


「ホラ!二羽!サシバどっち!?もしかしてどっちも!?」


 そこに、ヘレナが息を切らせて走って来た。パシェドゥの傍まで走り寄るなり、


「座長落ち着いてください!どっちもサシバなわけがないじゃないですか」


 と言って、深呼吸を促す。

 そしてヘレナは、この鷹がアンナの占い部屋の隅で蹲っているのを先程見つけて保護したのだとカエムワセトに説明した。

 ヘレナもこの鷹がサシバだと思って疑わず、とりあえずパシェドゥの元に連れて行ったのだが、サシバはパシェドゥの肩の上でキイの訓練を眺めていたのだという。


「で、見分けがつかず慌てた座長はどっちも抱えて殿下を探しに行った、というわけです」


 そう言って、ヘレナは説明を終えた。


 パシェドゥが抱えている鷹に顔を寄せ、交互にじっくり観察したカエムワセトは「こっちがサシバ」とパシェドゥの右側にいる鷹を指差した。続けて、左側を指差し、「こっちはドゥアイトだ」と初めて聞く名前を口にする。


 誰それ?


 パシェドゥとヘレナからの無言の質問に、カエムワセトは「サシバの父親だよ」と明かした。


「でも、ドゥアイトは兄上がリビアに連れて行くと言っていたはずだ。どうしてここに?」


 カエムワセトはパシェドゥの左腕から疲れてぐったりしている鷹を引き抜いた。そして、左足に結ばれている封書筒に気が付く。


「ライラ!」


 自分は両手がふさがっているため、隣のライラに筒を開けるよう頼んだ。

 ライラは頷くと、ドゥアイトの脚から筒を外し、蓋を開けた。掌に向かって何度か振ると、中から小さく丸まったパピルス片が滑り落ちて来た。


 ライラはカエムワセトにそのパピルス片を渡し、代わりにドゥアイトを受け取る。


 カエムワセトがパピルス片を広げる。

 顔色が変わった。


「殿下?大丈夫ですか?」

「ちょっと。何て書いてあったの?」


 ライラとパシェドゥがカエムワセトを覗きこむ。

 カエムワセトは動揺した様子で顔を上げると、


「リラが敵にまわった……」


 と告げた。

 カエムワセトの手の中の手紙にはこう記されていた。


『セト師団全滅。敵に女魔術師の姿あり。金色の長髪。小柄。至急、第四王子の救援求む』


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る