第58話 大地を揺るがした祈り

 報告を受けるなり、カエムワセトはバルコニーから即座に退場し、城の最上階にある見張り台への階段を一目散に駆け上がった。


 最上階に到達したカエムワセトは、見張りについていた捕虜の一人に迎えられ、「こっちです!」と案内される。

 北西を臨む一角にカエムワセトを導いた捕虜の兵士は、「あそこに」と指し示した。

 彼の指先の向こうには、砂丘のように緩やかな稜線を延ばす広大な丘が広がっていた。ナザレの丘である。その中腹。木々の緑に混じるようにして、確かに軍勢だと判別できる集団が、どろりとした液体が垂れるような動きでこちらに向かって下って来ていた。その数はざっと見ても千騎近い。


 遠すぎて軍旗の目視まではできないが、ヒッタイトの本軍である事はまず間違いなかった。

 

 ヒッタイト軍とファラオ軍が互いの存在に気付く前に策を講じなければ、ダプールの前で本軍同士の衝突が起きる。

 行軍を止めさせねばならない。だが、どちらもすぐそこまで来ている。

 どうする。急いでヒッタイト軍に使者を送るか。ファラオ軍にサシバを飛ばし、進軍を止めるよう働きかけるか。

 カエムワセトは必死に考えた。


「駄目だ。ファラオ軍が近すぎる。もう間に合わない!」


 結局、最悪の結末だけが導き出され、打ちひしがれたカエムワセトは首を垂れて手すりを握り締めるしかなかった。



 正門を開き、なだれこんだ民衆とともに広場からバルコニーの様子を見上げていたパシェドゥは、階上の異変に気付き、螺旋階段を駆け上がった。

 上がりきった所で最初に見つけたアーデスに、「今度は何!?」と詰問した。


 アーデスは後頭部を掻きながら、南と北西を順々に指差しながら説明する。


「あっち、ファラオ軍。そっち、ヒッタイト軍。同時にお出ましだ」


 途端にパシェドゥの顔が蒼くなる。


「なにそれ最悪じゃないの」


 ああ。とアーデスが相槌を打った。


「最低最悪のタイミングだ」


 お手上げだ。とはその場の誰も口にしなかった。しかし、同じようにバルコニーに出て、戦車の形すら確認できるほどに距離を縮めたファラオ軍と、おそらくカエムワセトがそこにいるのであろう見張り塔の頂上に、交互に目を向けたゲリラ部隊の仲間達は、一様に絶望的な表情を浮かべた。


「全部、無駄になっちゃうんスかね……」


 カカルが悲しげにぽつりと漏らした。



★ 


 カエムワセトは身をひるがえすと、南側の平原を監視する一角に急ぎ、ファラオ軍の位置を確認した。


 ファラオ軍は砂埃を上げ、やや視力の弱いカエムワセトにも軍旗の印が判別できる距離にまで近づいてきている。このまま山を登り、ダプールに真っ直ぐ来るのだろうと思われた。

 だがその時。ファラオ軍の進軍の速度が緩まり、やがてぴたりと止まった。


「止まり、ました、ね……」


 カエムワセトの隣で捕虜の兵士が目を丸くした。


「一つ、聞きたいんだが」


 どことなく震えて聞こえた問いかけに、捕虜の兵士は「はい?」とカエムワセトに振り向いた。その苦渋に満ちた表情を目の当たりにし、息をのんだ。

 戸惑う兵士に、カエムワセトの口から最悪の可能性が示唆される。


「今、ファラオ軍から丘のヒッタイト軍は見えていると思うか?」


 見張り塔からファラオ軍とヒッタイト軍双方を実見できている捕虜の兵士は、ごくりと唾を飲み込んだ。やはり静止したまま動かないファラオ軍の位置を確認してから、ファラオ軍の間逆から少しずれた方位を進軍してきているヒッタイト軍を顧みた彼は、戦々恐々答える。


「あの位置ですと……もしかしたら」

「私もそう思う」


 カエムワセトは唇を噛み締めると再び身をひるがえし、北西側に走った。ヒッタイト軍の動きを確認する。

 動きを止めて相手の出方を伺いだしたファラオ軍に対し、ヒッタイト軍はまだ進軍を続けていた。ファラオ軍に気付いていないのか、気付いた上で進んでいるのか。


「ヒッタイトの旗印は見えるか?」


 カエムワセトはまた、隣に立った捕虜兵士に訊ねた。

 捕虜兵士は「ええ。かすかに、ではありますが」と答える。


 ならば、あちらからもダプール城に掲げられたエジプト軍旗は確認できているはずである。つまり、ダプールがエジプトに奪い返されていると承知した上で進軍を続けている事になる。そこにファラオ軍が現れたらどうなるか――。


「退いてくれ」


 カエムワセトの口から、言葉が一つ、落とされた。

 歩みを進め迫って来るヒッタイト軍をじっと見つめながら、カエムワセトは悲壮な面持ちで祈りの様な言葉を紡ぎ出す。


「退け。頼む。退いてくれ」


「あんた……」


 捕虜の兵士は、必死に祈る指揮官の姿を茫然と見やった。 

 祈りで戦争を回避しようなど、貿易船に扮して瞬く間に砦を乗っ取り、奴隷商に化けて城に潜入して本丸を落としたこの男のする事ではない。自分達を奇怪な魔術と巧みな心理術で恐怖に陥れ、まんまと情報を仕入れた賢者のする事ではない。

 シャロン平原の砦でカエムワセト達が乗る貿易船をうっかり迎え入れてしまったヒッタイト兵の男は、自分が信じようとした男の情けない姿に苛立ちを覚えた。


「そんな祈り、相手に届くはずが――」

「退けー!!」


 届くはずがないだろう、と言った兵士の声を消し去るほどの叫びを、カエムワセトは渾身の力で絞り出した。

 勿論、その叫び声は、旗印が辛うじて見えるほど遠方にいるヒッタイト軍にも、背後にいるファラオ軍にも届く事はなかった。

 しかし、バルコニーから見守る仲間、門前の広場に集まる市民には、確かに聞こえたのである。


 カエムワセトの渾身の叫びを仲間達と共に聞いたパシェドゥは、一筋の光明を見出した。

 そうだった。自分は未だ、与えられた役割を果たしていない。注目を集め、ムードを高めるのは自分の得意分野ではないか、と。

 

 パシェドゥはバルコニーの正面まで進み出ると、見張り塔に向かって腕を広げ、高らかに叫んだ。


「カエムワセト万歳!エジプトに栄光あれ!砂漠の賢者、ここに来たれり!」


 屈指の実力を誇る旅芸人一座タ・ウィの座長パシェドゥは、観客を虜にする自慢の美声で、歌いあげるように何度もエジプトの第四王子を讃えた。


 やがて、大地が轟く。


 正門を潜り広場を埋め尽くした市民が。広場に納まりきらず、正門の外から坂に溢れた人々が。坂を上がる事さえできず、その下の広場に集まっている住人が。ダプール中の人間が、パシェドゥの賛美をきっかけに、若き賢者とその男の母国であるエジプトを大声で讃え上げた。


 『エジプト』という言葉だけがかろうじて聞き取れる騒音に近いその歓声は、ファラオ軍、そしてウルヒ・テシュプ率いるヒッタイト軍にも届いた。


 カエムワセトは足元を揺るがす程の大歓声の中で、ヒッタイト軍の動きが止まるのを見た。

 束の間の静止の後、先頭がくるりと方向を変える。そして次々と、後方の兵士もダプールに背を向け、元来た道を戻りはじめる。


「撤退、している」


 ヒッタイト軍が遠ざかってゆく様子を見ながら呟くと、カエムワセトはその場にへたり込んだ。


 元ヒッタイト兵の男は、自分の目の前で腰を抜かしたように座っているエジプトの王子のあまりに頼りなげな様子に思わず笑った。


「確かにあなたは、賢者を自称するにはまだ小さいですね」


 訊問室で『賢者でも魔術師でも無い』と語っていた指揮官の姿が、実はかなり無理をした演技だったのだと、彼はようやく知った。


 カエムワセトは元ヒッタイト兵の捕虜を仰ぎ見た。

 闘いを終え、普通の青年に戻ったエジプトの王子の素顔は呆れるほど素朴だった。しかしその面ざしに、凡庸さは感じられなかった。


「でもまあ、そのうちきっと、本物になるんじゃないですか」


 元ヒッタイト兵の彼には、戦争捕虜としてエジプトに連行され、処刑か強制労働か傭兵としての入隊かの選択が迫られる未来が待っている。


「どうせ国にはもう帰れねえんだから、近くでじっくり見届けさせてもらいますわ」


 彼は、傭兵としての人生を選ぶことにした。

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