第57話 南 そして 北西
「ふざけんじゃねえぞ!」
大広間に、アーデスの怒号が響き渡った。
そこには、ミリアムと共にアンナを自室に休ませに行ったヘレナを除いたゲリラ部隊員が集結していた。
そこに集まった殆どが、一段高くなった舞台部分の段差に座ったカエムワセトを囲むように寄り合っている。ちなみに夕刻に行われていた晩餐会では、この壇上が執政達の宴席になっていた。
市民を暴徒化させたオルビア及び海軍兵数名および捕虜たちは、その責任を負うべく、お家へ帰る市民の牧羊犬係として今も市街地で働いている。
怪我の手当てを受けている王子たちがアーデスの大声に驚いてびくりと身体を震わせたので、アーデスは若干声量を落として再度、耳を疑う様な発言をしたゲリラ部隊の指揮官を罵倒する。
「どこの国に指揮官自ら交渉人に化けて行くアホがいるんだ!」
ここにいる。というお決まりの返し文句がその場の幾人かの頭によぎったが、全員、アーデスの剣幕に圧されて口に出すのを止めた。
エイベルに宣言した通り、ヒッタイト本軍への使者および戦争調停人役として自ら出向く意向を仲間に伝えた結果、先程の怒号を頂戴したカエムワセトは「私には小姓よりも交渉人のほうが性に合ってるよ」とやや的外れな応答をして更に忠臣の怒りを増幅させた。
「性に合ってる合ってないの問題じゃねえわ!!」
再び大音量の怒声が、仲間達の耳をつんざく。
「ちょっと煩いわよ!あたしヘレナに振られそうで崖っぷちなんだから静かに考えさせなさいよね!」
部屋の隅で小さく蹲っていたパシェドゥが、アーデスに苦情を言った。
一命を取り留めたエイベルを拘束し、ダプール軍の指揮官と副官と一緒に牢屋に放り込んだパシェドゥは、直後ヘレナから娘が見つかったと報告を受け、ミリアムを紹介された。
ヘレナはかねてから、娘が見つかったら一座を抜けて
「知るかさっさと今すぐ振られてこい!」
激昂しているアーデスはカエムワセトへの怒りの勢いそのままに、今の今まで部屋の隅でぐずぐずブツブツ呟いていた往生際の悪い男を、無情な言葉で怒鳴りつけた。
「あんたこそとっとと振られてきなさいよ!言っちゃあなんだけどね!あの子は年下好みなんだからね!30過ぎのオッサンなんて、相手になんかしてくれないわよーだ!」
すっくと立ち上がったパシェドゥが指差しながらアーデスに言い返した。
二人の間で、幼稚な口喧嘩が始まる。
「うっせえな、部屋の外でやれよ」
腕を組んだジェトがフクロウに似た三白眼をぐるりと回して、ため息をついた。
「あっちの二人より、お前らの方が高等だよ」
策戦遂行の中で絆を育み、不仲を解消して二匹仲良く自分の足元で餌を頬張っている猿のキイと鷹のサシバに、ティームールがじみじみと声をかけた。
「勝手にやらせとけ」
我関せずとイネブが言う。
皆が、オッサン二人が始めた口喧嘩に呆れている中、ライラが「殿下」と呼びかけた。
「私もアーデスと同じ意見です。交渉中に、もし正体がばれれば、その場で即刻首をはねられます。思いとどまって頂けませんか」
バルコニーから飛び降りたカエムワセトをアーデスと共に引き上げたライラは、まだ震えが治まらない手を握り締めながら、嘆願した。
「確かに無茶苦茶なアイデアかもしれない」
カエムワセトは床に視線を落としながら、静かに答える。
「けれど、ダプールを戦場にするわけにはいかない。これ以外、良案が思いつかないんだ」
「ですが、やはり敵陣のど真ん中にお一人で行かれるというのは……」
言葉を濁しながらではあるが、ライラは食い下がった。
パシェドゥとアーデスの口論をバックに、重い沈黙が落ちる。
「少し、休憩にしようか」
カエムワセトが顔を上げて提案した。
奪還まではまだ課題が残っているとはいえ、ダプールを制圧できたのは確かである。シャロン平原の塔を落としてからずっと気が休まらない常態が続いていた仲間達に、カエムワセトは一度心身を休めて再び話し合う案を持ちかけた。
「夜明けにまたここに集まろう。それまで皆、仮眠を取るなり食事をするなりしてくれ」
そう言うとカエムワセトは、仲間達が見送る中、一番に広間を出て行った。
★
正門前のバルコニーは静まり返っていた。つい先程までエイベルと争い、階下には暴徒化した市民が押し寄せていたはずなのだが。今はその気配すら残っていない。
眼下に見える街明かりだけが、興奮さめやらぬといった様子で、そこら中でゆらゆらと輝いている。今夜、この灯りが全て消える事はないだろう。
カエムワセトはバルコニーにゆっくりと歩み出ると、手すりに寄りかかった。
そこで初めて、このバルコニーの手すりが従来のものに比べて低めに設定されている事に気が付く。目下に集まった市民達に、バルコニーに立つ人間の顔がよく見えるよう図られたのだろうと思われるが、この手すりがもう少し高ければ、アンナが壁を蹴ったところでエイベルともども落下する事にはならなかったかもしれない。そんな考えがふとよぎったが、否、違うな。とカエムワセトは己の頭に浮かんだ誤った認識を正した。
低いと分っていたからこそ、アンナは壁を蹴ったのだ。早々に決着を付ける為に。
カエムワセトは右掌を見た。巻かれた白い包帯にはいつの間にかまた血が滲んでいた。
シャルマを葬った時に切り傷を負い、次に、落下したアンナを支え、壁を掴んだ際に更に開いた傷口は、非力な自分を責め立てるようにじくじくと痛んでいる。
『あなたに忠誠を』
バルコニーから落ちる前、アンナが口にした言葉が脳裏に蘇り、心に重くのしかかった。
果たして自分に、アンナが忠誠を誓うだけの価値があるのか。これほどに大勢の力を借りても都市一つ、満足に取り戻せていないというのに。
「駄目だ。疲れてる。私も休まないと」
思考が無駄に悪い方向へ流れ始めているのを感じたカエムワセトは、ため息をついて独りごちた。
「対話の場所を別に設ければいいんじゃないのか?」
後ろから声がかかり、ネベンカルがカエムワセトの隣に並んだ。
ネベンカルはいつものどこか拗ねた様な顔で、先程カエムワセトがしていたように街の灯りを眺める。
「指揮官同士、一対一でなくてもいい。テントでも張って、人数を指定してその中で話し合おう。そう手紙に記して使者に届けさせたらいいだろ。あっちも賊じゃないんだから、対話の機会を無下にはしないはずだ」
街を眺めながら、ネベンカルは静かに言った。
そうだその手があった、とカエムワセトは目から鱗が落ちた気分だった。なにも交渉人に化けるという事をせずとも、指揮官同士、話し合いの場を設ければよかったのである。ずっと奇策と外道ばかりを繰り返してきたため、王道を見失っていたようだと反省した。
「使者なら僕でも、あの盗賊でも、芸人でも、誰でもやれる」
ネベンカルはそう続けると、兄に顔を向けた。それを見たカエムワセトの目が、驚きに見開かれる。
「今のあんたになら、誰も断りませんよ。堂々と命じたらいい」
兄を認める言葉と共に浮かんだ弟の笑顔は、嘲笑でも威嚇でも無く、信頼と尊敬の念が込められたものだった。
★
稜線の向こうが白みだした頃。パシェドゥは二階のバルコニーに続く螺旋階段の一段目に座り、独り悲しみに暮れていた。
「ヘレナったら酷い。このまま娘と一緒にダプールに残るなんて……」
蜘蛛の巣が張った壁にぐったりともたれかかり、魂が抜けたようにぼんやりとしながら、パシェドゥは涙声で呟いた。
これまで再三言ってきたように自分がミリアムの父親になるから一緒にエジプトに帰ろう。と申し出たパシェドゥに、ヘレナはミリアムと共にアンナに仕える意志を伝えた。
アンナがミリアムを手放すのを嫌がり、また、ミリアムもアンナの傍に居続ける事を望んだが故である。
「タ・ウィ解散してあたしもここに残ろうかしら」
ヘレナが聞いたら全身全霊で嫌がり、上官であるラメセス最高司令が知れば雷を落とされ、タ・ウィのメンバーが聞けば『我も我も』と面白がってついてくる愚案を、パシェドゥは本気で考えはじめた。
その時、正門横の通用口から男達が数名、ふらふらと入って来るのを目撃する。
「やっと終わった~」
「眠たい疲れた腹減った……」
「もうやだ俺船に帰りたいよぉ」
「俺は砦に帰りたい……」
それぞれ泣きごとを言いながら門を潜りぬけた男達は、力尽きたように地面に膝をつき、その場に転がった。
オルビアの部下と砦の捕虜たちである。
パシェドゥは立ち上がると、興奮したダプール市民を落ち着けてきちんとお家に返すべく夜中じゅう奮闘していた海軍兵達と捕虜達に「おかえり。遅かったわね」と声をかけた。
「ところで、あのアホはどこにいんの?」
ついでのように、オルビアの所在を訊ねる。
疲れ切った兵士たちは、自分達の隊長がアホ呼ばわりされた事も構わず「後ろっス」「多分、もうすぐ来るでしょ」と自分達が歩いてきた方向を指差す。
パシェドゥは通用口から顔を出して外を見た。
市街地から城に続く坂道を疲れた様子のオルビアがのそのそと登って来るのが見えた。
次に、その更に向こう。坂の下にあるものを目にしたパシェドゥは、口をあんぐりと開ける。
「よお。おはようさ~ん」
オルビアが敏腕座長の姿に気付き、手を振って来た。疲労困憊の兵士と違って多少余裕がみてとれるのは、流石小隊長、といったところか。
しかし。
パシェドゥは戻って来た牧羊犬達を『お疲れ様』と労ってやる事も、『よくできました』と褒めてやる気にもなれなかった。代わりに
「あんたたち……一晩中何やってたわけ?」
口角を引きつらせ、地面に死体のように横たわっている駄犬どもに問いかける。
『はあ?』という顔をした駄犬たちは、四つ這いで通用口まで来ると、壁を支えに立ちあがり、めいめいが外を見た。目の前の光景に、全員がショックで固まる。
「隊長、う、後ろ」
兵士の一人が、涙目でオルビアの後方を指差した。
「あ?あー……ああ!?」
気が動転している部下達に眉をひそめたオルビアは、後ろを振り返った。目の前のその光景に、『またか』といった面相で前を向いたが、彼は物凄い形相を作ると再び後ろを二度見した。
パシェドゥやオルビアの視線の先。市街地から城へ通じる下り坂の先には、ダプール市民が集まっていた。その数は、昨夜の二倍―― 否、三倍以上。暴徒化した群衆を、優に超す多さだった。
★
「市民がまた門前に集まってますぜ!」
大広間に再び集まり、昨夜のネベンカルの助言通り使者を選抜していたカエムワセト達の前に、扉を勢いよく開けてオルビアが飛び込んできた。その後ろから、彼の部下達がなだれ込むように入って来る。
ただごとではないその様子に、大広間に居た全員が弾かれたように振り返った。
「また暴動か!?」
「いえ。そうではなく ――」
アーデスからの問いかけに、兵士の一人が首を横に振りながら答える。
「エジプトの賢者を、一目拝みたいと」
「え?」
仲間達からの視線を一斉に浴びたカエムワセトは、これから自分の身に起こるであろう事態を想像し、その顔から血の気を引かせた。
カエムワセトの予想通り、仲間達は指揮官の手を引き、背中を押し、むしろ担ぐ勢いでわっしょいわっしょいとバルコニーに運んだ。
「ほらほら、昨晩は派手に制圧宣言してたでしょ。ちょっと顔出しゃいいだけじゃないすか!」
「昨夜と今じゃ状況が全然違うんだよ!」
「とにかく一度お姿を見せましょう。でないと騒ぎが収まりません」
ジェトとライラが嫌がって足をつっぱるカエムワセトの両手を引っ張り、バルコニーの入口まで連れてゆく。
最後に背中をネベンカルにドンと押されたカエムワセトは、つんのめりながらバルコニーに出た。途端、全身が朝陽に照らされ、その眩しさに手をかざして顔を背ける。
足元から震える様な歓声が湧いた。
光に目が慣れゆっくりと手を下ろしたカエムワセトは、バルコニー下に広がる光景に言葉を失う。
開かれた正門を潜り、バルコニー下の広間に集まったダプール市民。その広間に入り切らない者たちは門外の坂道に溢れ、その坂道にも到達できない者たちは坂の下の広場に集まり。ダプールの住民全てがそこに集まったのではないかという数の人々が、そこにいた。
「応えてやれよ。指揮官殿」
ただ茫然と立ち尽くし、歓声を上げている市民を眺め続けているだけの賢者の肩を叩いたアーデスが、温かい声で促した。
カエムワセトは回転の悪い車輪の様なぎこちない動きでアーデスに真っ青な顔を向けた。
「いや、私はこういうのはちょっと。ちょっとじゃなく本当に苦手で」
すまないが勘弁してくれと踵を返して逃げ出そうとしたところで、視界の隅に映ったものに足を止める。
市街地を囲む外壁の更に向こう。広がる平野の中に、ゴマを集めた様な黒い塊。ところどころ朝陽に輝くものを携え、それはこちらに向かって来ているように見えた。
「アーデス!あれは――」
忠臣の腕を引いたカエムワセトが、平野を突っ切り真っ直ぐにこちらにやってくる集団を指差す。
アーデスはカエムワセトが指し示したものを
いや、違うな。
と口角を持ち上げ、眉間に皺を寄せた。喜びと困惑。その二つが、アーデスの表情からは見て取れた。
その集団を率いる人物をよく知る傭兵は、自分よりも目が弱く、まだ軍旗の判別に困っている主に、その集団の正体を明かす。
「ありゃお前のおやっさんだぜ」
左右をハゲワシに守られた太陽神ラーの紋章。
ラムセス二世率いるエジプトの本軍が、ダプール前の平原に到達していた。
「え、もう!?」
予想よりも数日早い本軍の到着に、カエムワセトは驚きを隠せない。
そして、事態は更に急展開を迎える。
「殿下!大変です!」
血相を変えたテティーシェリがバルコニーに飛び出してきた。
「ヒッタイト軍が来ました!北西。丘の上!」
エジプト軍とほぼ間逆。ナザレの丘の方向を指差し、テティーシェリが叫ぶ。
ダプールを挟み、南の平野からエジプト軍。北西の丘からヒッタイト軍。両者の本軍が、今まさに、ダプールに足を踏み入れようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます