第56話 あなたに忠誠を
「投降するのはそちらの方ではないかな」
目下の市民と兵士に呼びかけたカエムワセトの後ろで、男の硬い声がした。
「ムルシリ三世率いる本軍はもうそこまで来ている。これしきの兵で城を落としたところで何になるというのだ!?明日には本軍に取り返され、貴様の遺体は城門に吊るされる事になるだろう!」
男は声を張り上げながら、人質にとった腕の中のアンナの首に剣をむけつつ、カエムワセトの横に進み出て来た。
「エイベル。貴様!」
執政が両腕を抱えられながらも自分を裏切った男へ身を乗り出した。
エイベルは冷たい笑みを浮かべると、自分を信頼していた傀儡に、その娘を腕に抱いたまま恭しく礼をした。
「執政殿。このような無頼漢どもを懐に入れてしまったのは私の不徳の致す所。この償いは事が落ち着いたら必ず致します故、お許しください」
この期に及んでまだへりくだった態度をとるエイベルに、馬鹿にされた様な心地になった執政は、心底悔しげに歯噛みする。
「この裏切り者がよくもぬけぬけと!」
おや。とエイベルは目を丸くした。
「裏切り者とは心外な。私は誰も裏切ってはおりませんよ。私がお仕えする方は、後にも先にもウルヒ・テシュプただお一人ですから」
やはり執政は最初から利用されていただけであった。
エイベルに首元を締めつけられるように抱えられていたアンナが、悲しげなため息を漏らす。
「さあダプールの民よ!」
エイベルは目下に集まったダプール市民に向かって高らかに命じた。
「明日には我らが主、ムルシリ三世ことウルヒ・テシュプ陛下がこの地においでになる!お前達は我らが王に固く忠誠を誓い、陛下が確固たる地位を築く
エジプトか。ヒッタイトか。市民達は対立する強国の代表が覇権を争う様を前に選択を迫られ、狼狽する。
ライラ達が、ミリアムを連れて二階のバルコニーに辿り着いた。アンナを腕に抱き抱え首筋に剣を突きつけているエイベルを目の当たりにしたライラは、すかさず弓を構え、エイベルを狙った。
「待てライラ!」
矢を放つ直前で、カエムワセトが制した。
「ヒッタイトの本軍には交渉人を送り、対話の機会を設けるつもりだ。ムルシリ三世がこのダプールの門を潜る事は無い!」
負けじと対抗策を打ち出してきた若き指揮官に、エイベルはその温度の無い眼を開いて大声で笑った。
「笑止!交渉人など務まる者がどこにいる!」
外道なやり口で遊撃戦を仕掛けて来るような少数兵しか持ち得ない隊に、そのような人材がいるはずがない。と嘲ろうとしたところで、目の前の若き指揮官の姿を両目が捕えた。
「まさか、貴様が自ら?」
冷たい眼にほんの少し、驚愕の色が浮かんだ。
カエムワセトは「そうだ」と答えた。
「だから私の顔を知るお前を逃がすわけにはいかない」
そう続けて一歩進み出て来たカエムワセトに、エイベルは「ならばここで貴様に膝を折らせるしかあるまい!」と叫ぶと、アンナの首元を絞めている腕に力を込め、剣を更に近づけた。アンナが苦しげな声を出す。
カエムワセトは踏みだしかけていた足を止めた。
エイベルはにやりと笑った。カエムワセトが人質の危機に強く反応した事で、賢しいヒッタイトの蛇は、奇策で攻め入って来た若き指揮官の真の思惑に気付いた。
「貴様がこのような奇策ばかりを講ずるのは、他者の命を惜しんでいる故であろう」
この言葉で、カエムワセトの表情が険しくなる。
望み通りの反応を見せてきた相手に、エイベルは下瞼を持ち上げると、勝ち誇った様な表情を作った。
この場でカエムワセトに膝を折らせる事が無理でも、最悪自分が逃げられれば良い。そうすれば、ウルヒ・テシュプの本軍に合流し、ダプール内のエジプト軍にはヒッタイト本軍に対抗する力が無い旨と、将であるカエムワセトの特徴を伝える事が出来る。そうすれば、勝ったも同然だった。
エイベルは剣先でアンナの細い首筋に触れると、バルコニーから下へ通じる階段へジリジリと後退した。
やがて小さな塔の中を螺旋階段が下るその壁に背中を到達させたエイベルは、他者の命を切り捨てられない指揮官に対し、選択枝の無い問い掛けをする
「では執政の娘の命と引き換えに手を引けと言ったら貴様はどうするかな」
カエムワセトの顔が悔しげな表情に歪んだその時。アンナがエイベルの腕の中で、苦しげながらもはっきりとした声で宣誓する。
「ダプールの市民に告ぎます!エジプト、ヒッタイト。我らが今ここで、どちらについても同じことです!強国に囲まれる土地に住まう者は常に大国の脅威にさらされ、生き伸びる為には刃を付きつけられる度に従属先を変えるしかありません。ここでエジプトに
それを聞いた市民は、アンナが自分の命惜しさにヒッタイトに味方せよ、と訴えているのだと思った。市民だけでなく、執政も、その両腕を抱えるネベンカルとアーデスも。ミリアムと共にアンナを追って来たライラ達三人も。アンナを拘束しているエイベルでさえ、エジプトへの従属を拒否しているのだと思いこむ。
対して、五年もの歳月をアンナと共に過ごしてきたミリアムと、アンナの気高さを知ったカエムワセトは別であった。
ヒッタイトへの服従を推奨しているわけではないと理解はしつつも、二人はアンナの言わんとしている事をまだ察せず、戸惑う。
市民からの軽蔑、エジプト軍からの落胆、エイベルからの嘲りの視線を浴びながら、アンナは続けた。
「それでも我々は非力ながらも、この地に住まい生き続けなければならない。闘う気概も誇りも持たぬまま、我々はこれからも戦のたびに藩属先を変えねばならぬでしょう。ならば私は国ではなく、一人の人間として、人に忠誠を誓います!」
そう言うとアンナは、ほんのひと時心を交わしたエジプトの王子に向かい、穏やかな微笑みを向けた。ロータスの
その瞬間、カエムワセトはアンナが何をしようとしているのか、ようやく悟った。
「カエムワセト王子。あなたに忠誠を」
ダプールの魔女は、その両脚を振り上げると力の限り壁を蹴った。
「アンナ様!」
ミリアムが叫び声を上げ、裏切り者ともどもバルコニーから落下する主に向かって駆けだす。
アンナが壁を蹴るよりも先に飛び出したカエムワセトが手を伸ばし、アンナを追うようにバルコニーの下に消えた。
「殿下!」「ワセト!」
血相を変えたライラとアーデスも駆け付けた。
下で見守っていた民衆から、歓声が湧きあがった。
カエムワセトは左腕にアンナを抱え、右手でバルコニーの手すりを掴んでいた。
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