第50話 傀儡の執政官
執政は寝室で、アラビア人の新顔が来るのを今や遅しと待っていた。
テーブルの椅子に座って暫く指でテーブルを叩き、それに飽きるとベッドに腰を下ろした。それにも飽きて、寝室を歩きまわる。そして、それにも飽きた頃。アミールはようやくやってきた。
腕に壺のようなものを抱えながら扉の隙間から身体を滑らせるように入って来た小姓の青年に、執政は開口一番「遅かったではないか」と責めた。
「すみません。オサケをさがしていました」
扉を閉めたアミールはさらりと謝罪すると、上品な所作で持参してきたカップ二つと酒壺をテーブルに置いた。
一本目の壺の蓋を開けながら、「すこしメシアガリマセンカ」とにこやかに誘う。
その柔らかな笑顔に吸い寄せられるようにテーブルに歩み寄った執政は、アミールからカップを受け取り椅子に座った。
手の中のカップにとくとくと注がれる蒸留酒の香りに眉をひそめた執政は、物言いたげな目で自分の体に合わない酒を持ってきた小姓を見た。しかし「オサケのツヨイひとがすきなんです」と艶やかな笑顔を返された初老の男は、つい若者からの尊敬を欲してしまい、口髭の下で「む」と唸るのみで一杯目の酒と共に文句を飲み込んだ。
執政の前の椅子に座り、向かい酒を始めたアミールは、深い溜息と共に空になった執政のカップに「おいしいですね」と二杯目を注いだ。
そして自分のカップにも二杯目をなみなみと注いだアミールは、そのまま一息で飲み干す。やがて顎を上げたままカップを口から離すと、はあ、と満足そうな吐息を吐いた彼は人差し指と親指で下唇をきゅっと拭いた。
この一連の動作はライラを真似たものである。
エジプト軍兵士の心を鷲掴みにしてやまない親衛隊隊長の色っぽい酒の飲み方は、ダプールの執政官の目も釘づけにした。
「好きなだけ飲め」
小姓の酒を飲む姿の虜になった好色漢は、同じ姿をもう一度見ようと小姓のカップに自ら酒を注いでやる。
小姓は礼を言うと、「いっしょにノンデください」と執政がカップに口を付けるのを待った。アラックが苦手な初老の男は、仕方ないとばかりに二杯目を飲み干す。執政が二杯目を空にしたのを見届け、アミールも自分の分を飲み干した。
執政が飲み干すのを待ち、アミールもカップを空にする。それを幾度か繰り返す。
二本目の酒壺が開けられ、執政はその一杯目に口をつけようとしたが、眩暈を感じた彼はテーブルの上にカップを置いた。このまま飲み続けては眠ってしまう、と限界を感じ、ふらふらと立ち上がると、柔和でありながらも妖しげな微笑みを浮かべている小姓に歩み寄り、手を伸ばす。
「もういいだろう。そろそろ」
肩に手を置き寝台に誘おうとしたその時。アミールが自分の肩に伸ばされかけた男の手を自らの手の甲で止めた。
そして彼は、手の甲で押しとどめている相手ではなく正面を見据えたまま、一口酒を飲む。こくりと喉をならして酒を胃に送りこんだ小姓は、やはり正面を向いたまま口を開いた。
「……ずっと考えていたのです。貴公がエジプトに反旗を翻すに至った決定的要因は何なのか……」
アラビア訛だったアッカド語が突然流暢になり、自分を『貴公』と呼んできた小姓の変貌ぶりに、執政は目を瞬いた。
また酒を一口飲んだ小姓は、淡々と続ける。
「鉄製品の分配。安全保障の確約。貿易路の拡大。幾つか思い当たりましたが、どれもエジプトを裏切るには決め手に欠けるものだった。しかし、貴公の姫を見てようやく合点がいきました」
結婚適齢期のアンナ。市内では魔女として忌み嫌われており、彼女には婿となる候補はいないとカエムワセトは先程のアンナとの会話で見抜いていた。
また一口飲む。そして小姓の皮を完全に剥がしたカエムワセトは、自分の肩に手を伸ばした姿のまま狼狽顕わに自分を見おろす初老の酔っぱらいにようやく顔を向けた。その容貌には、小姓アミールの持ち味である世渡り上手な愛嬌や魅惑の妖しさは欠片も無かった。代わりに面に出て来たのは、知性と慈悲を併せ持った一指揮官の顔である。
「王族との縁談を持ちかけられましたね。お相手はウルヒ・テシュプ――ですか?」
ゲリラ部隊の指揮官が静かに問い掛けた途端、執政の豊かな口髭の上にある両眼が見開かれ、皺が刻まれ始めた手がピクリと震えた。
正解を確信したカエムワセトは、「やはりそうでしたか」と言いながらまた酒を一口飲んだ。そしてまた、独り言同然の会話を続ける。
「しかし姫は虚弱体質だ。あのお体ではお子を望むのは難しいでしょう。側室であろうと妃であろうと、子を成せない妻とその家族への王家の対応は冷淡だ。それが分らぬ貴公でも無いはず。よって、姫の腰入れだけではまだぬるい」
そして、その瞳に侮蔑の色を滲ませたカエムワセトは、酔いが醒めて来たターゲットに核心をつく質問を投げかけた。
「縁組を土台に、ヒッタイトで相応の地位を約束されましたか?執政官殿」
再び大きく目を開き、数歩後ろに退いた執政は、「いや、ワシはただ……」と声を震わせた。
弁明は結構です。と、手を上げたカエムワセトは執政の言葉を遮った。
「貴公が野心家であることは父から聞き及んでおりました」
「お前、エジプトの王子か!」
ようやく言葉らしい言葉を口から出せたダプールの執政に、エジプトの王子は「どうもお邪魔しております」と丁寧に礼をした。
そしてまた、訊問の様な会話に戻る。
「執政の職を捨て、娘と共にヒッタイトに赴く気であられたのは分りました。しかしいくら考えても、一つ解せない事があるのです。
最後の下りで語調を強めたカエムワセトは素直な疑問に眉を寄せ、狼狽する執政を見詰めた。
見詰めながら執政からの答えを待ったが、返って来た返事は「何故、とは?」と全く答えを成さないものだった。カエムワセトは更に眉を寄せ、言葉を変えて質問し直す。
「国を弱体化させるほどの後継者争いが起こっている中で、ウルヒ・テシュプにつく理由は何です?」
「後継者争いだと!?エイベルはそのようなこと一言も言っておらんかったぞ!」
叫んだ執政に、カエムワセトが目を見張り、「ああ~……」と納得する。
「なるほど。黒幕が居たのですね。分りました」
そう言うと、またカップを持ち上げ、アラックを一口飲む。
「まさかエイベルが私を裏切ったなど……」
執政は茫然となりながら、最後の一口を喉に送るカエムワセトの前で呟いた。
カエムワセトは青ざめる執政に一瞥を送ると、手酌で次を注いだ。
「裏切られたのか、最初から利用されていただけなのかは私にも分りませんが。心中お察しいたします」
カップをたっぷりと満たした無色透明の酒を、再び口に運ぶ。
まるで水を飲むように涼しい顔で酒を消費してゆく見事な飲みっぷりに、懐刀に裏切られた男は、しばしショックを忘れて目の前の青年が酒を呷る様子に見入った。
「しかしそなた、よく飲むな。水も混ぜずに」
「執政殿も原液でよく頑張られましたね」
「酒が好きなのか」
「喉が乾いた時に目の前にあれば飲む程度ですが。今は空腹を満たしているだけです」
空きっ腹で蒸留酒を原液で飲んでいると聞かされた執政は、思わず顔をしかめた。
「父親もケタ違いなら息子もケタ違いか」
ワインを壺ごと呷っているラムセス二世を見た事がある執政は、その息子の酒豪ぶりに遺伝手的要因を感じ、嫌悪感を顕わにした。
私の体質はさておき。と、酒豪の青年は原液の蒸留酒で腹を満たしながらすっかり化けの皮を剥がされた老獪に忠言する。
「ヒッタイトの高官になられるのでしたら、もう少し洞察力を鍛えられた方が良いかと」
腹を立てるかと思っていたが、老獪は嘆息しただけだった。
「お主、ファラオの何番目だ」
意外にも冷静に訊ねて来た。カエムワセトは対話交渉の可能性も考えながら、遅れた自己紹介をする。
「失礼しました。第四王子カエムワセトと申します」
ああ、あの。と小さく答えた執政は、今度は大きく息を吐き、元々なで肩ぎみであった両肩を更に落とした。どことなく、全体に一回り小さくなったように見える。
「神と並ぶ力を持った魔物と闘った王子の噂は、ダプールにも届いておる。賢者と名高い貴殿の前では、私も膝を折るしかありませんな」
口調を丁寧なものに改めた執政は、少し唸り、何やら考えるそぶりを見せると、敵国の領地に飛び込んできた大胆な王子に媚びるような笑みを見せた。
「如何でしょうか。我が娘を貴殿の妻に――いや、側室でも結構。魔術をたしなむ者同士、心も通じやすいかと」
腹の前で組まれた両手は、殆ど揉み手である。
掌を返すが如く、裏切った従属国の王子相手に縁組を打診するというくわせ者の厚顔ぶりに、カエムワセトは自分の甘さを痛感した。同時に、視野に入れ始めていた対話交渉を即刻棄却する。
「悪いがお断りする」
その穏やかな眦を鋭くしたカエムワセトは、はっきりとした口調で断った。
「私は自国を売る様なペテン師と縁を結びたいとは思わない」
調子の良い老獪も、流石にこの罵りには眉尻を痙攣させた。しかし、歳の甲を発揮した老獪は、眉を痙攣させながらも笑顔を作り、自分への軽蔑を隠そうとしない敵国の王子を懐柔しにかかる。
「ペテン師とは心外ですな。ダプールをお返しする上に大事な娘までやろうと申し上げておるというのに」
その打診は、まさに無血開城である。
しかし、落胆を顕わにした王子は、目の前の男に厳しい現実をつきつけた。
「まだお分りでないようだから言わせてもらいます。もはや貴公はダプールでは何の権限も持たない。執政とは名ばかりの、ヒッタイトの傀儡同然だ」
執政から笑顔が消えた。驚愕から、徐々に憤怒の形相に変わり始める。
カエムワセトは語気を強め、地位も尊厳も失った事を悟った裏切り者を更に追いつめた。
「エジプト、ヒッタイトの両国に挟まれる貴公の苦しい立場は理解しよう。しかし、我欲の為に市民や娘を裏切る行為は遺憾でしかない。姫はあなたの政治家としての手腕は認めておられたが、かいかぶりだったようだ」
「黙って聞いておれば」震える声で、執政が腰帯の剣に手を伸ばした。鞘から刀身を抜き、その切っ先を、自分を陥れにやって来たエジプトの王子に向ける。
「この、魔術かぶれの青二才が!」
体当たりするように突っ込んできた執政の剣を、身を低くかわしたカエムワセトは、そのまま剣を握る相手の手を下から握りこみ、背負い投げた。
元々酷く酔っぱらっていた執政は、背中をしたたかに打ちつけると気を失った。
気を失った男の手から剣を奪い、続けて腰帯から鞘を引き抜いて刀身を収めたカエムワセトは、冷たい石天井を見上げると「やっと一人……」と大きく息を吐いた。
執政の衣裳箱から腰帯を三本持ち出したカエムワセトは、その持ち主をベッド下まで引きづり、彼の両手を後ろに回してベッドの脚に縛りつけた。残り二本でさるぐつわをし、足首を縛った。これで目覚めても身動きできず、兵を呼ばれる心配はない。
一仕事終えたカエムワセトは、テーブルに戻り、カップにまた蒸留酒を注ぐと一気に飲み干した。
ため息と共に空のカップをコトリと置く。
「やっぱり喉が焼けるだけで、何杯飲んでも水同然だな」
カエムワセトはザルだった。
執政の剣を拝借し、部屋を出たカエムワセトに、「よかった。御無事でしたか」と懐かしい声がかかる。
「ライラ!」カエムワセトは弓を担ぎ、豊かな赤毛をひるがえし走って来た忠臣の両手を取って迎えた。
「よかった。無事に入り込めたんだな」
ほっとした様子の指揮官に、ライラは「ジェトとカカルのお手柄にて難なく」と間道の発見を報告した。
「弟達は?」
「軍旗を持って後ろから。ジェトとカカルがついていますのでご心配なく」
そこに、ライラに続いてアーデスが廊下の曲がり角から現れた。
「ライラお前、先々行くんじゃねえよ!」
後ろを何度か振り返りながら小走りで来たアーデスは、小声でライラを叱るとカエムワセトに顔を向け、「うっ!」と鼻を摘む。
「さけくせっ!お前どんだけ飲んだんだよ」
鼻をつまんだまま身を引き、反対の手をパタパタ煽いで襲い来る酒気から逃げようとする仲間に、カエムワセトは「ごめん。ちょっと必要に迫られて」と軽く嘘をついた。
そこに、テティーシェリとネベンカルが連れ立ってやって来る。
「殿下。シャルマおよび軍司令官、副司令官の動きは封じられました。城内の見張りはイネブとティムールが片付けに回っています」
駆け寄ったテティーシェリが、ターゲット三名の捕縛完了と味方の動きを報告した。
続けて、入軍祝いの杯に睡眠薬を交ぜて軍人二人を一度に落としたネベンカルがテティーシェリの後ろについてくる形でカエムワセトに走り寄る。しかし彼も、近くに寄るなり「うげっ!酒くさっ!」と腕で鼻を覆った。
弟にまで鼻をつままれたザルの兄は、酔わない体質なのをいい事に調子に乗って飲み過ぎた事を反省した。
「すまない。暫く我慢してくれ」
謝罪してから、集まった仲間達に、執政が懐刀に踊らされていた事を明かす。
「エイベルを探してくれないか。奴がヒッタイトを招き入れた張本人だ」
エイベルの捕獲なくして制圧が完了しない旨を伝えた指揮官に、仲間達は頷いた。
エイベルを確保し、旗を替えて執政とシャルマを全兵の前に引っ立て、制圧を宣言して武装解除させればダプール奪還は終了である。市民はパシェドゥが上手く先導してくれているはずだとカエムワセトは説明した。
「あと少しだ。みんな、頼む」
カエムワセトのかけ声でその場の面々が動き出そうとしたその時、慌てた様子のダリアとヘレナが走って来た。
「殿下大変だよ!ダプールの市民が暴動を起こしてこっちに向かって来てる!」
「はあ!?」とアーデスが目をむいた。
「自信満々に言っといて、何やってんだあいつ」
呆れて声を上げた次の瞬間、遠くから大勢の叫び声が聞こえた。先頭が、城の門前まで辿り着いたらしい。
「派手な事になったわね。座長は何やってるのかしら」
暴動の声を聞きながら、ヘレナがその凛々しい顔をしかめて窓の外に目をやった。
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