第49話 ロータスの痣

 アーデスとパシェドゥが海鮮料理の美味い酒場で睡眠薬の数を数えている頃。水盤占いの魔女に本名を名乗った小姓姿の指揮官は、自分の正体を魔術で知り得た相手に黙秘は無駄だと判断し、ダプール奪還作戦の全貌を打ち明けた。


「そう。今夜、ここを落とすのね」


 カエムワセトからこの後の計画を聞いたアンナは、ミリアムが淹れた薬草茶を飲みながら、その長い睫毛を伏せた。


「どうか、我々の邪魔はなさらないでください。あなたは弟の恩人です。傷つけたくはありません」


 カエムワセトは自分の前に置かれた薬草茶から立ち昇る湯気に視線を落としながら、ネベンカルをライオンから救ってくれた恩人に頼み込んだ。

 真摯な態度で黙認を願って来たカエムワセトに、アンナは小さく微笑むと、「邪魔立てしようと思って呼んだのではありません」と答えた。次に、「お仲間はもう動いているの?」と問いかける。

 カエムワセトはこくりと頷いた。


 アンナとカエムワセトのちょうど真ん中に椅子を置いて座ったミリアムは、自分の分のお茶をすすりながら、二人のやり取りを交互に眺めた。

 一向に手を付けられない来訪者用のお茶を見て、少し不満げに眉を寄せる。


「どうぞ飲んで。鎮静作用のある薬草茶よ。毒は入っていないわ」


 侍女の不満げな顔に気付いたアンナが、カエムワセトに薬草茶を勧めた。

 瞳を覗いてくる様な視線を向けてから茶を口にしたカエムワセトに、アンナは自分もまた一口飲みながら、「特に美味しくも不味くも無いでしょ」と言う。


「ひどい!」茶を淹れたミリアムが頬を膨らませ抗議した。


 アンナは小動物の様な顔で怒る侍女を少し笑った後、カエムワセトに向き直る。


「ところであなた、お酒は強い?」


 と、熱い薬草茶を音を立てず上品に飲む来客に訊ねた。


 迷う事無くすぐに頷いて返してきたその様子から、カエムワセトが相当の酒豪だと判断したアンナは、ミリアムに「頼んだものを持って来て頂戴」と命じる。

 ミリアムは頷くと一度台所に戻り、酒壺を二本抱えて出て来た。


「アラックを飲んだ事はあるかしら?」


 アラックとは、ナツメヤシを原料とした蒸留酒である。発祥はシリアもしくはエジプトと言われており、その香りは酒臭さが無くフルーティーである。水を混ぜると白濁するのが特徴だった。


 すっきりとした味わいの酒を好むカエムワセトは、時々飲みます。と答えた。


 それはよかった、とアンナは侍女から酒壺を受け取ると、そのか細い腕で一本ずつテーブルに置いた。


「父はお酒が好きだけれど、沢山は飲めないの。特にこれは合わないみたいですぐに眠ってしまうわ」


 酔っ払った時の父親を思い出しているのか、アンナは穏やかな顔でそう言った。そして、アラックが入った未開封の酒壺二本を、カエムワセトの方に両手で少し押しやる。


「これで足りるでしょう。持って行ってちょうだい」


「手助けして下さると?」


 父親を泥酔させてその隙に城を落とせと言っている執政の娘に、カエムワセトは目を丸くする。


 敵国に値する王子からの問い掛けに瞼を伏せたアンナは、悲しげな微笑みを浮かべた。


「父は政治家としては秀でていますが、王者の器ではありません。いずれこうなるとは思っていました」


 従属国を裏切った父への制裁をその従属国の王子に託した娘は、顔を上げて懇願する。


「けれどお願いです。命はとらないでおいてあげて。見せしめが必要なら私がなります」


 薄気味悪い痣持ちが死ねば、民衆も喜ぶでしょう。


 彼女は自嘲ぎみに笑うと、そう言い足した。


 その言葉と表情から、アンナがこれまで受けて来た無情な扱いを感じ取ったカエムワセトは、目の前の虚弱な女性が味わって来た苦労を思い、眉を下げる。父親と、己を虐げて来た市民の為に自ら命を差し出そうとしてきた女性の自己犠牲に頭を垂れた。


「見せしめなどに頼ってしまえば、私はお終いです」


 無血でダプール奪還を企てるその若き指揮官は低く呟くと、膝の上で両手の拳を握った。瞳に力を込めると顔を上げ、再びアンナを見つめる。


「私は誰の命もとるつもりはありません。でなければ、こんな格好をしてここにはいない」


 外道や奇策を繰り返し、ようやくここまで来たゲリラ部隊の指揮官は、己の胸の内を吐露する。


「私は国では甘いと呆れられるほど不抜けた人間です。しかし不抜けなりにも王子である以上、戦となれば剣を取らねばならない。ならば私は私のやりかたで、仲間を守り、最後、全てが終わった時に己を許せる戦いをするしかないと考えています。

 正直、このやり方で望ましい結末を迎えられるか自信はありませんが……。敵にも私を支えてくれる仲間にも血を流させずこの都市を取り戻す。それだけが望みです」

 

 アンナはカエムワセトの悲願の実現がいかに難しいかを感じながらも、そう。と静かに相槌を打った。

 苦しみ迷いながらも部隊を率いてここまできた一人の青年を前に、橙色の炎と敵国の王子を映した瞳が濡れて揺らぐ。


「私の力が及ぶ限り、流血は最小限に抑えます。ご助力は、ありがたく頂戴します」


 酒壺に手を添え、立ち上がったカエムワセトは礼をした。本来ならそこで、壺を抱え早々に立ち去ってもよいはずなのだが、酒壺に手を添えた王子は動きを止めて白面の女性を見つめ続けた。

 その表情に何かしらの迷いを感じたアンナは、首を傾げて退室を促す。


「私の話はこれで終わりよ。どうぞ行って頂戴」


「いえ、その」


 カエムワセトはどことなく痒そうに口角を波立たせると、自分を見上げているアンナに向かって、躊躇いがちに語り始めた。


「私の友にフクロウのような目をした者がいます。私は彼の目が好きですが、彼は三白眼だと言って嫌っています」


 そこで言葉を切ったカエムワセトに、アンナは再び首を傾げた。『それで?』という意志表示である。

 先を促されたカエムワセトは更に痒そうな表情を作ると、核心となる言葉を口にする。


「つまり、あなたのその痣も見る者によっては……大きなロータスの一部に映るのではないかと」


 その言葉を聞いた途端、酒壺を渡してからは二人のやり取りをずっと微動だにせず見守っていたミリアムが、両手で口を覆って歓喜に頬を染めた。


 アンナはロータスの花弁に似た痣に浸食された目を見開いてカエムワセトをたっぷり見つめた。が、やがて大きく吹き出した。

 アンナが笑いだした瞬間、ミリアムががっかりとした顔で肩を落とし、お近づきのチャンスを自ら捨てた主人を恨めしそうに見やる。


「気取り屋はあなたには似合わないわね」


 ひとしきり笑ったアンナは、目尻に溜まった涙を指先で拭いつつ、キザな文句で自分を励ましてきた青年に微笑んだ。


「すみません。私もそう思います」


 カエムワセトも苦々しい笑いを浮かべてアンナに同意すると、不器用な賛辞を送った事を詫びた。


「あなたに左側をさらしてよかったわ。これは、私からの敬意だと思ってね」


 迷い迷った末に自ら招いた客人に左側をさらす決心をしたアンナは、自分の判断が間違いでなかった事に安堵すると、指先で赤黒い左側に触れて清々しい面持ちでカエムワセトを見上げる。

 カエムワセトの面ざしは、一指揮官から本来の素朴な青年に戻っていた。

 久しぶりに涙が出るほどに笑ったアンナは、ようやく一人の人間同士として話せるようになった相手を送り出す事を名残惜しく思いながら、最後の会話のつもりで語りかけた。


「ダプールが再びエジプトの手に渡ったら、ここの書物は全部さしあげるわね。あなたも書物が好きなんでしょ?」


 部屋の扉を開けた瞬間、カエムワセトの視線が書物の山に釘づけになった事を見逃していなかったアンナは、同じく書豚の癖を持つ異国の同志に餞別のつもりで書物の山を贈る意志を伝えた。

 部屋にある書物は全て魔術に関して記載された専門書ばかりであり、魔力がもたらす弊害に悩む魔術使いにはきっと助けになるだろう、という旨も説明する。


「それは有難いのですが。本当に宜しいのですか?」


 これだけの専門書を集めるには、金も労力も相当要ったはずである。戸惑うカエムワセトに、アンナは「いいのよ。必要な個所は殆ど覚えているから」と微笑んだ。


 思いもよらぬ場所で助力と餞別を受け取ったカエムワセトは、部屋の主とその侍女に丁寧に礼を述べると、酒壺を手に出口の扉に向かった。

 その背中に、アンナが何かを思い出したように「あ、ねえ」と呼びかける。


「ところであなた、本当に音痴なの?」


 書豚仲間から投げかけられた素朴な疑問に、カエムワセトはひとまず苦笑で答えた。そして、かつて王宮の宴で歌わされた一件を思い出し、こう答えた。


「父や兄には、私の歌は二度と聞きたくないと言われました」


と。

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