第48話 パシェドゥの失敗
「もう、うっとおしいわね。あの子は大丈夫だから、いつまでもウジウジしなさんな」
入り口にカニを彫った看板がつり下がっている飯屋のカウンター席で、華やかな男はオネエ言葉で隣のアジア人男を慰めていた。
二人の前にはよく焼かれたパンと、エビを煮込んだ赤いスープが二人分置かれている。
アジア人の男は自分の前のスープにパンを浸しながら、ため息をついた。
「芸人が望まん夜伽を避ける術が上手いのは俺もよく知ってるが。相手はシャルマだ。男だとばれた時、逃げ切れるのかが心配なんだよ」
エイベルがシャルマの土産に、とテティーシェリを買ったのは、あくまで女として認識したからである。男性である事で逆上した軍司令官相手に、テティーシェリに勝機があるのかアーデスは不安だった。
こいつ、芸人に逃げれた事があるのか……。と同情を覚えつつ、パシェドゥは、何度もスープに浸され一向に引き上げられないパンの端がとうとう崩れ始めたのを眺めながら「平気、平気」と笑う。
「あの子なら性別がバレる前に、バッチリ潰すだろうから」
そう言って、腰に吊ってあった巾着をテーブルの上に置いた。
「んだそれ?」
ぞんざいな口調で訊ねて来た仲間に、調薬に長けた忍の頭領はにんまりと笑う。
「あたしの特性睡眠薬。これ飲んだら象だって一晩ぐっすりよ」
忍びの頭領はねっとりとした口調で恐ろしい事を口にした。
アーデスが顔をしかめて身を引く。
「んなもん人間に飲ませたら永眠しちまうぞ」
「一回や二回じゃ問題ないわよ」
タ・ウィの団員達は皆これをお守り代わりに持っており、今回、王子たちに持たせたものもこれと同じものだとパシェドゥは説明した。
ちなみにこれを薄めたものを、パシェドゥは初見の際にラムセス二世に渡している。
「あのちっこい爺さんも持ってんのか?」
眉毛と髭で殆ど人相が分らない空想上の生き物の様なギルを思い浮かべたアーデスは、素朴な疑問を口にした。
「確かに“おかわり” を頼まれたことはないけど。そこは言わないであげて」
抜群のトランペットの腕と見事な軽業で、芸人として高い人気を誇るものの色事には縁のない仲間を、パシェドゥは座長として真剣に庇う。
とにかく――
と、パシェドゥは話を元に戻した。
「この薬を持ってるんだから、テティーシェリは心配ないの!見てみなさいよ。最近大盤振る舞いしたもんだから、こんなに減っちゃっ――」
巾着の中身を出しながら嘆いたパシェドゥだったが、その中身をテーブルの上に出した途端、言葉を失った彼は、やがて「あれ?」と美貌をひきつらせた。
数が合わない。という。
「――は?」スープに浸し過ぎてぐずぐずになったパンを口に運びかけていたアーデスは手を止めると、手前に散乱する小袋を数えながら冷や汗をかいている忍の頭領を顧みた。
やっぱり一個多い。
パシェドゥの呟きの直後、アーデスの手からふやけたパンの端がボトリと落ちる。
「多いってどういうことだ!」
残りのパンを放り投げて掴みかからんばかりの勢いで距離を詰めて来たアーデスを、両掌で『どうどう』と押し返したパシェドゥは、その淡褐色の瞳を泳がせた。
「確かに渡したのは渡したのよ!だからね、つまり――」
誰かが一人、別の薬を持ってるってことよね。
にこり。と微笑んだ端正な顔は、らしくないほど強張っていた。
「別の薬って何の薬か分かんのか?」
「多分、下剤あたりかと。袋が似てるから間違えるとしたらそれね」
「どうすんだよお前」
「どうするもこうするも……。宿で待機してる可愛い弟ちゃん達が持ってるなら問題ないってことで」
城に潜入したメンバーが別の薬を持っているとしたら一大事である。
アーデスは机に突っ伏すと頭を抱えた。
そこに、何者かかが二人の背中に飛びかかってきた。
無防備だった二人の男は仲良く机に突っ伏した。パシェドゥの手が椀に辺り、危うくスープをこぼしかける。
「よお、お二人さん」
「じゃーん。みっけたっスよ!」
ジェトとカカルがご機嫌に男二人の両側から肩を組む。
「あったぜ。南側の中腹に、洞穴ひとつ。城の一階の穀物庫と、二階の客間の床に繋がってた」
アーデスと肩を組んだジェトが耳打ちした。カカルはパシェドゥの前にあるエビのスープを見つけて目を輝かせ、パシェドゥの了解を得ないまま早速ぱくつきはじめる。
「やるじゃねえか!」「良い仕事するわねぇ」
大手柄を成し遂げた元盗賊の少年二人の頭を、アーデスとパシェドゥがそれぞれ掻き回した。
「ほれれ、いふいひまふ?(それで、いつ行きます?)」
パシェドゥのパンを頬張りながらカカルが訊ねた。
カウンターのオヤジに水を二人分頼んだアーデスが、まだギルからの報告がないと答える。
ジェトは「そっか……」と口元に手を当てると、出るなら今のうちなんだけどな。と呟いた。
どういう事か聞いてきたアーデスとパシェドゥに、ジェトは出された水を飲みながら、検問所に人の気配が無かった事と、今なら壁を伝い下りずに街の外に出られる旨を伝えた。
正規ルートで街に入った奴隷商頭役のアーデスと旅芸人一座の座長パシェドゥは、同時に眉をひそめた。検問所が閉まるには早すぎる。
その時、ギルが店の入り口に姿を表した。滑るようにパシェドゥの前に走り出て来た小さな老人は、「布飾りが解かれました」と策戦が動き出した旨を告げる。
「丁度いいぜ」ジェトが口角を上げた。
アーデスも「ついでに検問所の様子も見て来るか」と腰を上げる。
パシェドゥは席に座ったまま「御武運を」と手をひらひらさせた。
「お前は行かねえのかよ」
目を丸くするアーデスに、テーブルに頬杖をついたパシェドゥは妖しく微笑んだ。
「あたしにはもう一つ大事なお仕事があんの」
そして、その仕事は自分ひとりで何となるから他のタ・ウィのメンバーは連れて行って構わない、と言う。
「ワセトからの指示なのか?」
訝るアーデスに、パシェドゥは「もちろん」と気取った調子で頷いた。
「城を落としても民衆が反発したら元も子もないでしょ。ダプール奪還には、民意の獲得も含まれてるのよ」
エジプト駐屯兵の遺体が市民の反発を抑える為に城門にさらされている、という報告の元、カエムワセトは返信で、ダプール奪還後に民衆が混乱し反対運動が起きないように、あらかじめ民意をエジプト側に固めておくようパシェドゥに指示を出していた。
「あたしの演説力が試されるってワケよ」
指示を受けた一座の座長は、誇らしげに顎を上げてみせた。
興行の度の呼び込みで客寄せと人心掌握のスキルを日々磨いている旅芸人には、まさに適材適所と言える仕事である。
そういえば返信のサシバを飛ばす際に、そんな事を言っていた気がする。とアーデスは愛鳥の足に指示書を括りつけながらカエムワセトが口にしていた内容を思い出した。
しかし、民意の操作といったら大仕事である。
「一人でホントに大丈夫かよ」
「大丈夫だってば。こういうのは周りから抱え込むより一カ所ボンと爆発させて、波紋状に広げるのがいいんだから」
よく分らない例えだったが、ここで訊き返せば馬鹿扱いされるかもしれないと思ったアーデスは「そうだな!」と力強く頷いた。そして食事代をパシェドゥの横に置くと、海戦スープの最後の一滴をあおっているカカルの首根っこをひっつかみ、ジェトとギルとともに仲間が待機している宿屋へと急ぐ。
民意の操作を任された敏腕座長は、笑顔で手を振りながら仲間を見送った。
しかしパシェドゥはこの後、タ・ウィの仲間を城へやってしまった事を酷く後悔する事になる。
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