第51話 暴徒化したダプール市民

 さて、自信満々に仲間を見送ったパシェドゥが何をしていたか。それは、少し時間を遡る。

 カエムワセトが執政と酒を酌み交わしていたその頃。民意の操作を任されていたパシェドゥも、そろそろ動きだそうとしていた。


 酒場の陽気な空気を背中に感じながら、パシェドゥはカウンターで、茹で蟹を剥いている店の主らしき男に営業スマイルを向けた。


「ねえ、オジサン。最近ここ、ヒッタイト領になったんだって?」


 不自然にならない程度の少し大きめの声を意識して、無知な旅行者を装う。


「兄ちゃん、しーっ!」


 パシェドゥの後方に広がる客席の空気が一気にぴりついた事を感じた店主は、カニを剥く手を止め、空っぽな笑顔で禁句を口にした華やかな男に黙るよう人差し指を自分の口に当てた。


「あんた確か、先日ここに来た旅芸人だろ。裏道で袋叩きにあいたくなきゃ、その話はやめときな」


 わざとらしく瞬きをしたパシェドゥは、「あらどうして?」と首を傾げる。

 店主はパシェドゥの後ろの客席をさっと見渡した後、声を落として、よそ者の旅芸人に事情を説明する。


「あんたも城門に吊らくられてる死体見ただろ。ヒッタイトの将校がここに来てから、近隣のエジプト兵はみんな殺されちまった。街中でもエジプトに味方しようって奴は酷い目に遭わされたんだよ。ヒッタイト兵の監視の目はキツくなる一方で、毎日みんな胃をキリキリさせてんだ」


 店主の話によると、シャルマの目と耳がいたるところに存在し、反乱の兆しが少しでも見えようものなら、手当たり次第問答無用で手荒な手段で潰されるのだという。故に、ダプールの住民はエジプトの話題どころかヒッタイトの名さえ口にするのを恐れていた。


やだ、こわぁ~い。


 指先を立てた手で口を隠し、驚きを表現したパシェドゥは後ろを振り返ると、怯えた表情で自分と店主の会話に耳をそばだてている客達を見渡した。


「そうなのぉー。それじゃあ――」


 言いながら、再びカニを剥きだした店主に向き直る。

 仕掛けを打つには最適な場所で理想的な空気が出来上がったと判断したパシェドゥは、頬杖をつくとにこりと微笑み、着火の準備をした。


「エジプトの王子がここを取り戻す為に動いてる、って聞いたらどうする?」


 エジプト軍の到来を火種に着火させた途端、店主の手からカニがぼとりと落ち、客席がざわめいた。店の端の方では、明らかに他とは違った緊張感も発生する。


「・・・・ここが、戦場になるってのかい」


 店主は落としたカニを拾う余裕も無く、爆弾発言をしたよそ者を凝視する。

 他の客達も、怯えた目でパシェドゥの答えを待っていた。


「もうなってるかもねえ」


 店内を恐怖に陥れた工作員は、己に痛いほどの視線が集まる中、そう言いながら優雅に水を飲んだ。


「動いてるって言っても秘密裏だからね。弓や槍が飛んでくる戦争とは違うのよ。だから善良な市民の皆さんにはいつもの夜と同じってわけ」


 そこのお兄さん二人には、市民の皆さんとはちょっと事情が違うみたいだけど。


 角の席でゆっくりと立ち上がりかけたシャルマの目と耳の男二人に、パシェドゥは威嚇の視線を送った。


 たたでさえ緊張している店内の空気がパシェドゥの一言で殺気立つ。シャルマの手先の二人は自分達に向けられた店中からの殺気に気圧され、怪しい男を店外に引きずり出すのを諦めて再び席に座った。


 大人しくなったシャルマの手先二人に勝ち誇った笑みを浮かべたパシェドゥは、「でも明日の朝までにはきっと、城のてっぺんの旗は変わるわね」とエジプトの勝利を宣言した。


「あんた、何ものだ?」


 客席の男が戸惑いながら問いかけてきた。

 パシェドゥはその男に微笑む。


「この際あたしが誰か、なんてどうでもいいじゃないの。大事なのはここダプールで今何が起こってるか、でしょ」


 店内はすっかり静まり返っていた。緊張と戸惑いが混じり合った空気だけが、そこにいる者達を押し潰すほどに重く満ちている。

 その中で笑顔でいるのは、この空気を作りだした元凶のパシェドゥだけだった。パシェドゥはカウンターに両肘をおいてもたれかかると、組んだ脚をぶらぶらさせながら客席に座る聴衆勢に語りかける。


「エジプトの第四王子の噂は訊いた事あるかしら?賢者とか言われてる坊やよ」


「カエムワセトとかいう王子か」


 客の一人が名前を言い当てた。パシェドゥはその男に二コリと笑顔を向けて「そう正解」と人差し指をさす。


「あの子はなかなかキレ者よぉ?市民の意向を無視してエジプトに反旗を翻す執政とも、見せしめを使って恐怖政治をしようってヒッタイト将校とも違う。流血を最小限に抑えようと、自分の身を削っているわ」


 たった今もね。と、パシェドゥは謙虚な姿勢で忍の自分から戦う術を学ぼうと必死だった若き指揮官の姿を思い出しながら言った。そして、店の出入口に目をやった彼は夜道を行き交う人々を眺めながら続ける。


「静かな夜よねぇ。でも今のこの静けさは、カエムワセト王子の努力の賜物なのよ」


「どこの誰か分らんよそ者の話を信じろってのかい?」


 店主が不信感顕わにじろりと睨んだ。パシェドゥは店を演説場にされてしまった気の毒な店主を振り返ると、「信用してもしなくても、朝になれば分る事でしょ」と答えた。


 そしてまた、聴衆勢に向き直ったパシェドゥは「さてここで、あたしから皆さんに質問でーす」と声高に呼びかける。


「城の旗がエジプトの軍旗に代わったその時、あんたたちはどっちの味方につくか選択を迫られるかもしれないわよね。門前に死体を吊らくって、あんたたちを怯えさせるヒッタイトか。それとも、戦嫌いの賢者率いるエジプトか・・・」


 じりっ・・・と重い空気が漂った。


 再び角の席の男二人が立ち上がった。もう我慢ならん、といった面相で、パシェドゥに近づいてくる。

パシェドゥは片腕を伸ばしその男二人を掌で制しながら、「考えなさい!」と声を張り上げた。

 客席をゆっくり見回し、挑戦的な笑みを浮かべながら、もう一度言う。


「静かな今の内に考えときなさい。その時、あなた達ならどちらを選ぶか」


 店内が再び静まり返る。シャルマの手先は掌で制されたまま、動くべきか戻るべきか迷っていた。


 暫くして、若い男が「俺は・・・・」と口を開きかける。


 その時、店の前を大勢の市民が足早に通り過ぎて行った。口々に「城へ!」「門を開けさせろ!」などと叫んでいる。

 パシェドゥを含めた客達は、外で起きた異変に思わず顔を向けた。


 群衆の中から走り出て来た一人の男が、店内に飛び込み呼びかける。


「エジプト軍が城で戦ってるらしい!味方する奴はついて来い!」


 パシェドゥは思わず「へえ!?」と素っ頓狂な声を上げた。


 よそ者の講釈よりも同じ市民の呼びかけに大きく反応した店の客達は、お互いに頷き合うと「俺も!」「わたしも!」「ワシも!」と老若男女問わず店を出て行く。


 やがて、店内には店主とパシェドゥ、シャルマの手先の男二人だけが残った。


「静かな夜、ねえ・・・」


 横目で見て来た店主に、パシェドゥは「違うあたしじゃない!」と黄土色の髪をふりながら、自分は騒動の首謀者ではないと主張した。


 群衆がある程度通り過ぎた頃、一人最後尾をゆったり歩いてきた男に目を留めたパシェドゥは、「オルビア!」と叫ぶ。

 仲間を見つけて「おうっ」と手を上げて来た海軍の小隊長に突っ込むように走り寄ったパシェドゥは、掴みかからん勢いで詰問した。


「ちょっとこれ、あんたの仕業!?」


 松明を手に城へとなだれてゆく群衆を指差す。


「いや、俺は砦の連中を連れて来ただけなんだけどな」


 オルビアはのんびりとした口調で頭をかきながら、これまでの経緯をパシェドゥに説明した。


 カエムワセト達が奴隷商の姿で砦を出て暫くしてから、捕虜たちの間でカエムワセトを支持する声が上がり始めた。

 砦制圧に死傷者を一人も出さず捕虜である自分たちにも十分な食事と温かい寝床を提供する等、紳士的な対応をみせたエジプトの指揮官に味方するべきというムーブメントが起こったのである。そして捕虜たちは、ダプール奪還の助けになりたいとオルビアに嘆願してきた。

 たった20名足らずの軍勢ではあったが、オルビアはカエムワセトがパシェドゥに世論を操作させると言っていた事を思い出し、それならば丁度よかろう、と数名の部下とともに、捕虜たちをここまで率いて来たのである。


 ちなみに検問所で人の気配が無かったのは、捕虜たちが検問所を襲って検問人達を縛り上げたからだった。検問人達は今も床下の倉庫で手足を縛られ転がっているらしい。

 そして、市民に参戦を募った捕虜たちは、群衆を率いて今まさに城を目指し、門を破らんとしていると。


「ちょっと大騒ぎになっちまったけど、まあ別に構わねえよな」


 説明を終えヘラヘラと笑った海軍小隊長に、肩をわななかせたパシェドゥは「バッカ野郎!!」と叫んだ。


 店の親父もびくりと身を震わせる大声で怒鳴られたオルビアは、耳を塞ぎながら「なんで怒んだよ。殿下は市民が味方につくよう、あんたに声かけさせるって言ってたんだから、これでいいんじゃねえのかい」と言い返した。


「暴徒化させたいとは言ってなかったろうが!」


 再び大声でオルビアを叱りつけたパシェドゥは、城への坂道を松明片手に登ってゆく暴徒化した市民達の列を見て頭を抱えた。


「あ~どうすんだよ!俺一人じゃこんなの止められねえ!タ・ウィ何人か置いといてもらえば良かったぁ~!」


 アーデス相手に格好つけてタ・ウィ全員をくれてやった事を、心底後悔する。

 そして、もはや自分の力ではどうしようもないと悟った彼は、余計な事をしてくれた海軍小隊長の顔面を、振り向きざまに殴った。


 一見優男ではあるが、軍人顔負けの腕力を誇るパシェドゥから渾身の一撃をお見舞いされたオルビアは、倒れて動かなくなる。


「せっかく俺が美しく穏便に事を進めようとしてたってのに!全部おじゃんじゃねえか!これで俺の給与減らされたらお前のからふんだくってやるからなアホボケカス!!」


 足元で失神したオルビアに捲し立てるパシェドゥの後方。酒場のオヤジはつい先度までオネエ言葉で優雅に演説していた二枚目の男に、冷静に指摘した。


「一人称変わってるぞ、兄ちゃん」

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