第45話 ダプールの魔女

 陽の当らない薄暗い部屋で、その女は横たわっていた。

 人形のように細い手足は寝台の端から力なく垂れさがり、ぼんやりと開けている目は虚ろで生気が無い。髪で半分以上が隠されたその顔は若い女のものではあるものの、滲み出る雰囲気は世の理を知らない幼女のようでもあり、また、疲れ切った老婆のようでもあった。彼女を唯一輝かせているのは、柔らかく波打った豊かな髪だけである。

 

 その女は、暗がりに浮かび上がる部屋の扉を、ただぼんやりと見つめ続けた。

 

 やがて、その扉が軋んだ音を立ててゆっくりと開く。

 そこから顔を出したのは、目の大きな少女だった。身体の大きさは十やそこらであるが、緩く三つ編みをした栗毛の横にある面ざしは、その体躯が示す年齢より大人びて見える。


「ミリアム!」と人形のように横たわっていた女が身体を起こした。

 生気の無かった顔にいくらか人間らしさが蘇る。


「こんな時に外に出るなんて、何かあったらどうするつもり!?」


 丸二日姿を見せなかった侍女に女はおぼつかない足取りで走り寄ると、ミリアムと呼んだ少女の両肩を強く掴んだ。


 ミリアムは顔が半分髪で隠れているその女に屈託のない笑顔を返すと、はきはきとした声で答える。


「何かあったらアンナ様がちゃんと見つけてくださるじゃないですか」


 その言葉にアンナは眉を寄せると、少女の肩から手を放し、近くの椅子に座りこんだ。


「何かあってからでは遅いのよ。お願いだからあまり心配させないでちょうだい」


 重いため息をつきながら力なく言う。


 ミリアムは「すみません」と肩をすくめて謝ると、背中の籠を下ろして、薄明かりが差しこんでいる窓へと向かった。

 彼女はこの部屋のどこに何があるかきちんと把握しているようで、暗がりでも難なく足元の障害物をまたぎ、窓際に辿り着く。


「どうせ私がいない間、ずっとこんな感じだったんでしょ。ちゃんとお日様浴びなきゃ駄目ですよ」


 母親のような口調で不健康な主人を諌めたミリアムが、窓を覆っていたカーテンをさっと開ける。


 薄暗かった部屋を日光が照らすと同時に、アンナにも陽光が射した。アンナは眩しげに青白い顔の右半分をしかめると、不快感顕わに顔をそむける。


 陽の光が射した部屋は、書物で溢れかえっていた。四方の壁一面に設置された書棚からは巻物や一枚紙が溢れ返り、そこにも納まりきれなかったものは床に置かれた木箱に積み上げられている。人が使うはずのテーブル、敷物の上にさえ、読み物が占領していた。奥に置かれたベッドがなければ、ここはただの書物倉庫である。


「身体がだるくて、陽に当たろうなんて気にはなれなかったわ」


 書物倉庫の主は、陽射しに照らされふわふわと舞い漂う埃の中でぼやいた。


 陽に当たらないからだるいのでは?とミリアムは思ったが、引き篭もり同然の主人にそれを指摘したところで素直に認めるわけがないと考え、別の質問をする。


「お体の具合はどうです?熱は下がりました?何か召し上がりますか?」


 滑る様な口調で三連続に訊ねてきた侍女のせわしなさに、アンナは眉間に皺寄せた。


 熱は今朝がた下がったが、食事は要らないと伝える。


 アンナは元々食が細かったが、体調不良で更に食欲をなくしていた。

 以前、食欲が無いというアンナに無理やり食べさせて嘔吐させてしまった経験があるミリアムは、腰に手を当ててため息をつくと、「では、せめて入浴だけでも」と清潔の維持を申し出た。アンナが身にまとっている衣裳は、二日前にミリアムが着せたものと同じである。


「確か、今夜は晩餐会の予定でしたよね」


 晩餐会、と聞いたアンナの表情がこれでもかというほど暗くなった。


「気分が悪いから欠席するわ」


 陰気に更に磨きをかけて執政の娘の務めを放棄しようとしてきた主人に、ミリアムは慣れた調子で「今日は仮病はやめておいたほうがいいですよ」と返した。


「出ておいた方がいいです。多分、アンナ様が言ってらした人が現れますから」


 風呂の準備をするために袖をめくりながら、2日分の仕事と主の心痛と引き換えに、得て来た情報を口にする。


 アンナはやにわにその白面を上げた。その形相は、ミリアムが連れて来た情報が必ずしも朗報、とは言えない事を物語っていた。


「エジプトの王子に会って来たの!?」


 椅子から立ち上がったアンナは、なんて無茶な事をするの!と、有り余るほどの行動力を持つ侍女を叱った。


「だって実際見てみない事には災いか救いかなんて分らないじゃないですか」


 ミリアムは悪びれずに言い返した。そして強気な侍女は、自分の身元は割れていないから心配はない、と主張する。


「アンナ様には心配かけちゃいましたが、色々収穫はあったんです。後で話しますね」


 朗らかに言って微笑むと、ミリアムは言葉を失っているアンナを部屋に残し、井戸に水を汲みに行った。


 侍女が扉を閉める音を聞きながら、アンナは再び椅子に落ちるように座った。

 本で塗れた寝室の向こう側にある、別室に顔を向ける。

 その部屋の中央には、彼女の術具が置かれていた。

 亡き母親から受け継いだ唯一の魔術道具。水盤であった。



「なんかちょっと……締まらない人達でしたよ」


 爽やかな薬草の香りと湯気が充満する浴室で、保湿と鎮静作用のある薬草を浮かべた湯に浸かる主人の髪を梳かしながら、ミリアムは言った。


 天井から垂れた雫が、あばらの浮いた白い胸の前にぽちゃりと音を立てて落ちた。アンナは自分の胸の前にできた小さな波紋を見つめながら、黙って侍女の話を聞いた。


「アンナ様が奴隷商の姿でやって来るって仰ってたから、あの人達で間違いないと思うんですけど」


 唸りながら、ミリアムは自分を助けた奴隷商夫婦の様子を思い出す。


 検問所とボヤ騒ぎが起きた広場を通り過ぎ、ミリアムは人通りの少ない脇道で馬車から下ろされた。


『ありがとうございます。もし次にお会いできたら、きっと何かお礼をしますので』


 頭を下げたミリアムに、赤毛の奴隷商夫人が明るく笑って手を振った。


『いいのよ~。このヒトはねぇ、若くて気の強い女の子がだ~いすきだから』


 どことなく棘のある言い方だなと思い顔を上げると、隣で髭面の奴隷商頭が冷や汗をかいていた。


『諸々の借金は全てが終わったらまとめてお返ししますのでここはぐっと我慢でお願いします』


 奴隷商頭は妻に向かって、ぼそぼそした声で早口に言った。

 夫婦間で借金とは珍しい関係だなと、その時のミリアムは首を傾げた。


「そもそも夫婦じゃ……なかった、とか?」


 聡い少女は主人の髪を梳かしながら、奴隷商の姿をした歳の差夫婦の真実を見破った。


「ミリアム」


 アンナが湯船から手を出し、洗髪を終えた自分の髪を整えている侍女の手を掴んだ。掴まれた侍女の左手の甲には、古い切り傷があった。


「もう、危ない事はしないでちょうだい」


 アンナの手首は、手を掴んだ相手と同じくらい細かった。その細腕が、小刻みに震えていた。


 思っていた以上に主人に心配をかけていた事に気付いたミリアムは、申し訳なさそうな表情で微笑むと、「これは私の御恩返しなんです」と主の後頭部に語りかけた。


「アンナ様に拾って頂けなかったら私、賊に捨てられたまま道端で死んでいました。左手も切らずに済みましたし」


 遊牧民だった自分達家族を襲い誘拐したというのに、膿みだした傷口から感染症にかかり敗血症になりかけた途端、賊は商品であるミリアムをあっさり捨てた。


 幸運だったのは、ミリアムが捨てられた場所がダボル山のすぐ手前だったということである。ミリアムは薬草採取に出てきていたアンナに拾われ、治療を受け一命を取り留めた。

 それからは、ただ一人の侍女としてアンナに仕えている。


「私は、アンナ様に幸せになって頂きたいのです。こんな陽あたりの少ない離れなんかじゃなく、宮の一番きれいな部屋で寝起きして。街の人達にも魔女だなんて蔑まれる事無く、アンナ様の素晴らしさに気付いてもらって。お顔を上げて堂々と街を歩いてほしいのです」


 感謝と慈愛に満ちた声を後ろから聞いたアンナは、目を潤ませた。だが、すぐにその榛色の瞳を暗くした彼女は顔の左側を隠していた明るい茶色の髪を指ですくい、耳にかけた。すくい上げた髪の下から、赤黒い染みの様な痣が現れた。その痣は、アンナの左側頭部から目を覆うように伸びていた。


「こんな顔、誰にも見せられない」

 

 ぽつり、とアンナが呟いた。

 その呟きを聞いたアンナは、カッと目を見開く。


「顔の痣が何ですか!アンナ様はお綺麗ですよ!」

 

 気弱な主人を叱咤した少女は、続けて興奮気味にまくしたてる。


「髪をちゃんと整えて、陽に当たって健康的になって、もう少しお体にお肉をつければ、あなたは殿方が放っておけないくらいの美女になれるんです!」


 つまり言葉をひっくり返すと、今のアンナはボサボサ頭の青白い肌をした病人同然の身体で、痩せこけたつるっぺただと言っていた。


 アンナは複雑な心境で、唯一己の味方である少女に「ありがとう」ととりあえず礼を言う。


 主人の心を少なからずえぐったとはつゆとも知らず、ミリアムはブツブツと独り言を言い始めた。


「痣を理由に人を恐れるなんて、馬鹿げてますよ。アンナ様は魔術で何度もダプールを救っているのに。痣があるってだけで魔女呼ばわりなんて」


 そして「ーーうん!」と力強く頷いた幼い侍女は、主人の髪から手を放すと浴槽の横に移動し、アンナの顔を覗きこんだ。

 決意を固めた瞳で、理不尽な扱いを受ける主人に断言する。


「やっぱりダプールにはアンナ様の旦那様になれる方はいませんね!外に目を向けましょう!そうしましょう!」


 鼻息荒く外国人の婿探しを勧めて来た侍女に、アンナは苦笑いながら「夫は必要ないわ」と婚活を断った。


「駄目ですよ!」と間髪入れず大声を張り上げた幼い侍女は、浴槽の中の主人をびくりと驚かせる。


「アンナ様には、もっと味方が必要なんです!私のような力のない侍女じゃなくて、権力にも知力にも人格にも長けた男性が。その人を夫にしちゃえば一石二鳥なんです。分ります?」


 人差し指を立てて、10歳そこそこの侍女は成人済みの主人に力説した。そして、今朝方自分を助けた小姓を思い出す。


 アンナは水盤占いで、エジプトの第四王子が奴隷商隊に扮してダプールに潜入する未来を見た、と言っていた。アンナが占った通りだとすると、あの小姓がエジプトの第四王子ということになる。


「あの小姓、ちょっと掴みどころがない感じでしたが。雰囲気は悪くなかったです」


 交わした言葉は少なかったが、ミリアムに被せた毛布をはがし、「もう外に出ていいですよ」と微笑んできたその物腰は柔らかく、知的で誠実そうだった。


 アンナはエジプトの第四王子がダプールの災いにも救世主にも成り得る二つの未来を持つと恐れているが、ミリアムには彼が、災いを連れて来たようには見えなかった。


 よって、早熟な侍女はこう結論付ける。


「アンナ様より年下みたいでしたけど、あの人ならいいお婿さんになってくれそうですよ」


 記憶の中の小姓を値踏みして突飛な発想を出してきたミリアムに、アンナは「ええ?」と目を丸くした。


 当事者の意見を置いてけぼりにして、ミリアムは大真面目に頷きながら画策する。


「この際、エジプトの第四王子にはダプールの救世主になってもらって、ついでにアンナ様の味方二号になって頂きましょうか」


 勿論、一号は自分である。唯一侍女のミリアムとしては、そこは譲れないところであった。


 そして奸計をめぐらせた唯一侍女は、その幼顔をにやりとした笑いに歪めた。


「そうと決まれば今宵の支度には気合を入れなければいけませんよ。ダプール奪還を目論んで忍びこんできたエジプトの王子をアンナ様が懐柔するのです!そして、あの薄気味悪いヒッタイトの将校を追い出しエジプトの王子と二人でダプールを治めましょう!」

 

 ミリアムはこれ以上ない名案だと信じて疑わなった。口には出さなかったが、エジプトの王子とアンナの子供の乳母になる計画まで立てていた。 


 声高に立ち上がり拳を握った侍女の横で、アンナがくしゃみをした。


 いつの間にか、湯はすっかり冷めていた。

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