第46話 ライオンと魔女の讃美歌

 城の宴会場では、中央に大きな檻が設置されており、そこに一人の少年奴隷と1頭の雄ライオンが投げ込まれた。

 少年奴隷ネベンカルは足を鎖で繋がれ、与えられた武器は小型の剣が一振り。雄ライオンは明らかに腹を空かせており、唾液を垂らしながら目の前の奴隷に唸り声を上げている。


 ネベンカルはふと足元を見た。板床に、いくつもの黒い染みがある。すぐに血だと分った。

 この檻の中では、こういった余興が何度も行われているらしい。

 ネベンカルは高官達の悪趣味に舌打ちすると「反吐が出るな」と、自分と同じように足を鎖で繋がれている目の前のライオンに睨みをきかせた。


 ネベンカルと同じく城の門前で代金と交換されたアミールとテティーシェリは、檻の中の仲間を心配げに見やりながら、ワイン壺を手に高官達の杯をまわり、中を満たしてゆく。


「さて、今日はどれくらいもつかな」


「相当腹が空いているようですから。すぐに終わるでしょう」


「顔が良いだけに、少し勿体ない気もするが」


 執政とエイベルが杯片手にのんびりと会話する中、アミールがワインを注ぎに来た。

 見慣れない給仕に気付いた執政が、「新顔か」と面を上げる。エイベルが、今朝奴隷商から買ったばかりだと伝え、「執政のお好きなタイプかと」と会釈した。


 執政は白髪交じりの口髭を持ち上げると、「気が効くな」と自分の好みを良く知る懐刀に頷いて目を細めた。その様子は好々爺然としており、あっさりと従属国を裏切る狡いこす人間にも、好色漢にも見えない。続けざまに「今夜私の部屋に来い」とアミールに命じた口調も、まるで荷物を取りに来いと言う様な軽い調子で、いやらしさは微塵も無かった。

 ラムセス二世はダプールの執政を『老獪ろうかい』と罵っていたが、こうした振る舞いと中身とのギャップが、父王が彼を警戒する要因となっていたのかもしれない、と小姓に扮した王子は考えた。


 突如、会場がどよめいた。

 お互い睨みあいを続けていた奴隷とライオンが、動いたのである。

 飛びかかったのはライオンだった。

 ネベンカルは横に転がりながら、身軽にライオンの前足から逃れた。

 同じように二度、三度。奴隷はライオンの攻撃をかわす。


「ただの高慢ではなかったか」


 エイベルが奴隷らしからぬ不遜な態度で自ら売り込んできた少年を、その蛇の目で蔑むように見やる。そして彼は、執政と反対側の隣に座る高級軍人らしき男に話しかけた。


「こいつがライオンに勝ったら、お前の部下にしてくれと言っていた」


 蔑みながらも実力は高く評価したエイベルは、ネベンカルとの約束を果たすため自分と同じく執政を支える男の一人に相談を持ちかけた。


 ダプールの軍司令官は、ライオンと奴隷との戦いに興味は見せず目の前の食事を消化する事に精を出していたが、執政の右腕からの要望を聞くと、骨付き肉を噛りながら「ほお」と相槌をうった。そして、ライオンに剣を向けた少年奴隷に注目する。

 更にその隣では、彼の副官らしい男が上官と同じように、ライオンに前足をかすらせもしない身体能力を持つ少年の闘いぶりを見て、感嘆していた。


「エジプト人の戦士など要らん」


 執政の隣。エイベルの反対側に座っていた男が、吐き捨てるように言った。

 

 シリアの民に比べやや北方寄りの毛色をしたその男は、ダプールの軍司令官とはまた違った軍人のいでたちをしていた。ヒッタイトの司令官、シャルマである。


 シャルマは杯片手に席から立ち上がると、ライオンと奴隷が睨み合う檻に歩みを進めた。そして少年奴隷の横に来た彼は、おもむろに杯を掲ると、その中身を奴隷の顔めがけてぶちまけた。


 シャルマの行動に、会場中が絶句する。


 突然顔にワインをかけられ、目の前が真っ赤になったネベンカルは、思わず顔を伏せた。目の中にワインが入り、痛みで瞼を開けられない。


 この機を逃すまいとライオンが飛びかかる。


「ネベンカル!」


 アミールは思わず弟の名を叫び、身を乗り出した。

 魔術を使おうと手を上げかけたその時、ライオンの後ろ足に鎖が絡みつき、そのいかめしい脚を後ろへと引っ張った。予期せぬ牽引力が加わった事で、ライオンは四肢を滑らせ板床に倒れる。すると脚を引いた鎖は意志を持ったように大きくうねり、今度は首と胴体に巻きついた。そのまま柵へとその巨体を引きずり、縛りつける。


 アミールは目の前の様子に驚き、上げかけた左手を見る。自分はまだ何もしていない。


「アンナ」


 執政が末席に座っている娘の名を咎めるように呼んだ。


 席に座ったままのアンナは、慟哭を上げながら鎖の中で身をよじるライオンを視線で縛りつけるように注視しながら、父に切願する。


「今日は血を見たくありません。お願いします」


 普段滅多に自己主張をしない娘の要求に、執政はため息をつくと、檻の傍でひかえている兵士に「出してやれ」と令した。


 兵士は檻に縛り付けられているライオンに慄きながら、まだ目の開けられないネベンカルの腕を掴んで檻の外へ引きずりだした。


 ネベンカルが無事檻の外に出され、檻の鍵が再び閉められたのを確認すると、アンナはほう、と息を吐いてライオンを縛っていた視線を外した。同時に、ライオンの身体にくい込んでいた鎖がじゃらじゃらと音を立てて床になだれ落ち、ライオンの身体が自由になる。拘束から逃れられたものの餌にありつけなかった空腹のライオンは、悔しそうに唸りながら檻の中を回った。


「興醒めだな」


 エジプト人奴隷の排除に失敗したシャルマが、横やりを入れたアンナに一瞥をくれながら席に戻る。


 すっかり白けてしまった会場で、執政はシャルマの機嫌を取ろうと次の余興を提案した。だが今夜に限って楽士も呼んでおらず、困った執政は懐刀の男に顔を寄せて「何かないか」と助太刀を願った。

 

 エイベルは頷くと、給仕に就いていたテティーシェリに声をかける。


「お前。確か踊れると言っていたな。出ろ」


 人差し指で指示されたテティーシェリは「はい」と頷き、宴席の前に出た。


「音楽はどうするんだ」


 ダプールの軍司令官が隣のエイベルに訊ねる。エイベルは『なんでもかんでも自分に聞くな』といった面持ちで嘆息した後、後方に立っていたアミールに顔を上げて、その温度の無い目で一言「お前が歌え」と命じた。


「え。わたし……ですか?」


 突然の事に、アミールはワイン壺を抱えたまま狼狽する。


「どうした。歌くらい知っておろう」


 執政が目を丸くして新顔を見た。


「駄目だ!」


 突如、部屋の隅まで引きずられていたネベンカルが、大声で止めに入った。


「そいつは物凄く音痴なんだ!歌わせるな!」


 その慌てた様子と止めに入った理由に、会場中で笑いが起こる。


 音痴呼ばわりされたアミールは、苦虫を噛み潰したような顔で俯いた。


「面白いじゃないか。ほれ、そこで歌ってみろ」


 悪乗りしたダプールの軍司令官が、テティーシェリの横を指差し、音痴の小姓に指図する。


「その・・ホントウに、おキカセできるようなものではないので・・・」


 アミールは必死に愛相笑いを浮かべながら、何とか独唱から逃れようと頑張る。


「なんだ、恥ずかしいのか?」


 執政がまた目を丸くして訊ねた。

 正に背水の陣であったその時、末席で一人の人間が立ち上がった。


「父上、わたくしが」


 そのか細い身体を真っ直ぐに立てたアンナが、静かな声で名乗りを上げた。


 執政は目立つ事を何よりも嫌う娘がまさか歌役に立候補したとは思わず、「どうした?また具合が悪くなってきたのか?」と身体の心配をした。


 アンナは「いいえ」と首を横に振ると、髪に隠れていない右目で宴席の面々を見渡した。


「先程のお詫びです。一曲歌わせて下さい」


 再度、歌うたいの役を願い出た。

 今度は失笑が起こる。


「魔女は呪文でも唱えていればいいものを」


 シャルマが皮肉を口にした。顔を向けて来たアンナと視線が強く交わる。

 病人の様な血の気の無い顔色をした嫌われ者の女は、戦わずして都市を手にした大国の指揮官に対し、瞳だけは抗おうと目に力を込めた。


「わたくしが怖いですか」


 ヒッタイトの司令官をその瞳にしっかりと捕えながら、一言一句に威嚇を込めた。

 シャルマはそれを鼻で笑うと、「いいえ。全く」と答え、掌で『どうぞ』と踊り子が控えている宴席前にアンナを促す。


 アンナは黙ってテティーシェリの横に移動すると、心配げに見つめて来る踊り子に「ニッカルの讃美歌(シュメール神話の女神ニッカルを讃えた歌)は知っている?」と訊ねた。


 テティーシェリが頷く。


 では――。と、背筋を伸ばしたアンナは、大きく息を吸うと歌い始めた。


 ニッカルの讃美歌はフルリ人(北メソポタミアとその東西に居住した人々)の曲である。それは200年近く前の古歌であったが、アンナの澄んだ声は讃歌特有の清らかな旋律と調和しており、声量は小さいながらも耳に心地よかった。


 清んだ声が奏でる平明な曲調に合わせ、踊り子がその伸びやかな四肢で自由に曲線を描く様を、その場に居る者全てが穏やかな面様で眺める。


 だが、曲も半ばでアンナはその透明な声を途切れさせると、痩身を揺らめかせた。床に倒れる寸前で、手を伸ばしたテティーシェリが貧血を起こしたアンナを抱える。


 娘の異変に驚いた執政が、思わず腰を浮かせた。


 アンナは額に冷や汗を滲ませながら「大丈夫です」と父に手を上げ、着席を求めた。

 父が再び座った事を確認すると、アンナは自分を支えてくれている踊り子に「ごめんなさい」と、踊りを中断させてしまった事を詫びてから、「やっぱりご飯を食べないと駄目ね」と弱々しく微笑む。


 テティーシェリはアンナに微笑み返すと、驚くほど軽い身体を支えながら末席まで付き添った。


 アミールが椅子を引き、アンナがその前に立つのを見届けると椅子を前に押し出し、自分の代わりに歌ってくれたダプールの魔女の着席を助ける。そして、そのまま椅子の背もたれに手を添えた彼は、アンナの左側に軽く身体を倒し、緩く波打つ髪に隠された耳元で「ありがとうございました」と礼を述べた。


 アンナは蒼白の面に笑みを浮かべると、アラビア人の小姓に扮したエジプトの王子に手の内を見せる決意をする。


「分るわ。言霊は厄介だものね」

 

 魔術を使う者同士でしか分り合えない表現を使い、アンナは自分がアミールの正体を知っている旨を打ち明けた。

 そして、歌えなかった理由を言い当てられたエジプトの王子が息を呑んだ気配を感じながら、こう続ける。


「父の元へ行く前に私の部屋に寄ってください。話があります」

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