第43話 蛇の目の男
暫くすると、身なりのいい男が門の中から出て来た。中年の文官風である。
商人頭のアーデスと、その妻のライラ、小姓のカエムワセト改めアミールは、揃ってその男を迎えた。
三人は礼をしつつ、視線だけを上げてその文官風の男を観察する。彼が執政を支える三本柱の一人であるとしたら、文官は一人しか該当しない。懐刀の書記官である。
「エイベル様。こちらです」
大当たりだった。ラムセス二世から聞き及んでいた三本柱の一人の名を聞いたカエムワセトとアーデスは思わず口角を上げた。
検問人がご丁寧に文官風の男の正体を明かしてくれたお陰で、こちらから探りを入れる必要もなくなった。
「エジプト人奴隷を連れて来たというのはお前達か」
黒い長髪を後ろで束ね、たっぷりと髭を蓄えた執政の懐刀は、蛇のような目つきで奴隷商頭のアーデスを探った。
重ね着した衣服の上からでも商人らしからぬ屈強な肉体が見て取れる奴隷商頭を舐めるように見ると、疑いを込めた眼差しでじろりと睨む。
「商人の割には随分と鍛えているようだな」
流石に鋭い。
カエムワセトとアーデスは笑顔の下で肝を冷やした。
「あらお目が高ぁ~い」
返答するアーデスの声が裏返った。
なんか俺パシェドゥみたいだな、と己の振る舞いに変態座長と似たものを感じながら、アーデスは続ける。
「実はワタシ、この仕事する前は用心棒なんかやっとりましてね。随分痩せたと思ってたんですが、まだまだイケそうですかねぇ」
即席の虚言でヘラヘラと笑う。
エイベルは「ほお」と下瞼を持ち上げ、値踏みするように元用心棒の商人を見やると、暫くアーデスの反応を待つように黙りこんだ。
アーデスは内心で悲鳴を上げながら、必死に貼りつかせた営業スマイルを崩すまいと顔面筋に力を込める。
睨み合いとも言えない奇妙な我慢比べを放棄したのは、エイベルだった。エイベルは蛇の視線を下に落とすと、小さく息を吐いた。
「よかろう」と許可を下す。
「あざざす!」
アーデスは思わず声高に礼を言った。
エイベルが驚いて、その蛇眼を丸くする。だがすぐに元の喰えない表情に戻った彼は、「執政は今お忙しい。私が対応する」と代理を表明した。
「はいはい。結構でございますよ~」
揉み手で答えたアーデスは、幕を持ち上げ、「お前達、出てこい」と中の奴隷達を馬車の外に出し、お客の前に整列させた。
緊張した面持ちで並ぶ奴隷達を前に、「どうです?上等でしょ?」と早速売り込みを開始する。
「そうだな……」
エイベルはゆっくり歩みを進めながら、一人ひとり値踏みしてゆく。
そして、ある奴隷の前で足を止めた。
「こいつはなかなか美形じゃないか」
赤毛の少年の顎を掴むと、ぐいと面を上げさせる。
「触るな!」
ネベンカルが首を振ってエイベルの手を顎から離させた。
「こん、バッカやろ!」
ぎょっとしたアーデスが不覚にも素で罵倒しかける。慌ててライラがアーデスの口を手で塞いで止めさせた。
「どうした」
「あいや、すみませんねぇ。そいつはちょいと扱いが難しいんですわ~」
振り返って来たエイベルに、アーデスは必至に揉み手でごまかそうとする。
「執政は従順が好みだ。知っておろう」
エイベルがアーデスを睨みつけた。
「ですよねぇ~。でも顔がよかったもんで~、ど、どうっかな~?な~んて」
しどろもどろになりながら、アーデスは無意識に後ずさりかけた。
すっかり蛇に気圧されている不甲斐ない夫の背中を後ろから支えたライラは、「ごめんなさい!あとでキツ~く叱っておきますので!」と笑顔で対応する。
「hal tastatie shirayiy(私を買ってもらえませんか)」
穏やかな声が割って入った。
奴隷の最後尾から進み出て来た一人の青年が、エイベルに微笑む。商人の服装に少し華を足した出で立ちのその青年に、エイベルは「何と言った?」と眉を寄せた。
「アラビア語ですよ。自分を買ってくれ、と申しておりますね」
ほっとしたアーデスは打ち合わせ通り、売り込みを開始する。
「こいつは片親がアラビア人でしてね。アラビア語と、多少アラビア訛ですが
エイベルは「ほお」と片眉を上げると、小姓に歩み寄り、顎に手を添えた。小姓の顔を上下左右に動かし、続けて全身を値踏みするように見ると、「悪くない」と言った。
「名は?」と訊ねたエイベルに、柔らかく微笑んだ小姓は「Amir」と唇を動かす。
エイベルは満足げに頷いた。
歳はいっているが、執政好みだ。
その呟きを、アーデスとカエムワセトは聞き逃さなかった。お互いに目配せすると、小さく頷き合う。
この好機を逃すまいと、アーデスは前に進み出た。焦りが表に出ないよう注意しながら、エイベルの購買意欲をそそる文句を並べ立てる。
「ワタシが言うのもなんですが、アミールは語学が堪能な上、行儀がいいってんで人気でしてね。しかも昼も夜も優秀なもんで、貸し出し用に使ってたんですよ。コイツは売るつもりなかったんですがねぇ。野心家な奴だからそちらに乗り変えようって腹なんでしょう。あ~、どうしやしょうかねぇ……」
リボンを付けてくれてやりたい本心を抑えつつ、わざとらしく腕組をして惜しそうに唸る。
「多少値は張っても構わん。売ってくれ」
アーデスの策略に嵌ったのか、それほどに小姓を気に入ったのかは定かではないが、エイベルは即決した。
商人頭と小姓は心の内で拳を握った。
ライラは両手で顔を覆い、覚悟の時を迎えた絶望に肩を震わせた。
再び「どうした」と訊いてきたエイベルに、アーデスはひきつった笑い声を上げながらライラの尻をひっぱたいた。
「アミールはこいつのお気に入りだったもんで。いやもう、どうぞお気づかいなく!」
奴隷商頭は別れを惜しんで嗚咽を漏らす妻の頭を掴んでぐりぐり回しながら、反対の手で『どうぞどうぞ』とお買い上げを促した。
幸いにもライラが見せたアミールへの執着が、エイベルの購買意欲を更に後押しする。
「悪いな。奥方」
エイベルは無表情にではあったが、寵人との別れを嘆く女に気遣いを見せた。そして、再び優秀な小姓に目をやると、「語学が堪能なら、私が欲しいくらいだ」と口元に笑みを作る。
「ashkuruk」
アミールが胸に片手を当てて礼をした。
再び耳慣れない単語に眉をひそめたエイベルに、奴隷商頭が「ありがとう、ですってよ」と説明する。
エイベルはアーデスに頷くと、アミールに命令する。
「アラビア語は分らん。アッカド語で話せ」
「かしこまりました」
アラビア訛のアッカド語で、小姓は再度頭を下げた。
アミールの隣に一人の人物が寄り添うように立った。その人物は小姓の腕に自分の両腕をからめると、ぴたりと身を寄せ、小姓の買い手に物言いたげな眼差しを向けた。
テティーシェリである。
エイベルの後ろでアーデスが「あっ!」と阻止しようとしたが、横面をライラにはたかれ止められる。
「この女は?」
後方で売り手が夫婦喧嘩を始めたので、エイベルは目の前のアミールに訊ねた。
「え、っと」
アミールは返答に困ったが、特に説明の必要はないと気付くと自分の買い手に爽やかな笑顔を向ける。
「このヒトもカっていただけませんか?ウタやオドリがじょうずです」
小姓から絶対に離れないと言わんばかりに更に身を寄せた女奴隷の様子を見たエイベルは、嘆息して「城ではほどほどにしておけ」と女泣かせの小姓に忠言した。
「いいだろう。シャルマ殿の土産にする」
その言葉に、後方の奴隷商頭が泣き崩れた。
これで買いものは終わったかと思われたその時、先程エイベルの手から反抗的な態度で逃れた赤毛の少年が、一歩前に進み出た。
「僕は腕が立つ。少年趣味の執政は御免だが、用心棒に最適だ」
そこにいる全員が言葉を失う。
エジプト語に多少通じていたエイベルは、買い手を選んできた傲慢な奴隷に蔑みの目を向けた。
「言ったはずだ。従順でない者は要らん」
しかし、ネベンカルは強気な態度を崩さず食い下がる。
「軍人に買わせろ。使えないと判断したらハゲワシの餌にでもしたらいい」
その言葉を聞いた瞬間、蛇の目が軽く細められ、髭に囲まれた口の両端が微かに上がった。
「面白い」
と、エイベルは蛇の目を更に細めた。
「腕試しに、宴会の余興でライオンと闘わせてやる。餌になる時はハゲワシでなく、そのままライオンの胃袋に納まる事になると思え」
厳しい条件に顔色を変えた小姓が何か言いかけたが、その前にネベンカルが「それでいい」と承諾した。
頷いたエイベルは、「奴隷商」と後ろを振り返る。
「三人買ってやる。荷物をまとめたら城に来い。その時に代金を払おう」
それだけ伝えると、エイベルは門の中に入って行った。
「あ、ありがとう、ごぜえやす……!」
大成功の売上に小躍りしてもいいはずが、奴隷商頭は心底悔しげに奥歯を噛みしめ、その妻は男妾らしき小姓を失った悲しみに肩を落としている。
「ホントに売る気あるのか?お前ら」
アーデスの訊問をした検問人は、奴隷販売の一部始終を見て呆れていた。
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