第41話 私は必ず敵将を落とす

 鮮血が飛び散った。次の瞬間、戦車らしきものが目の前を駆け抜け、矢が身体の横を幾度もかすめる。赤黒い血液が付着した槍が足元に刺さった。阿鼻叫喚。突如振り下ろされる剣。ぶつかり合う盾の音。馬の嘶き。ざらざらとした視界は砂嵐の中にいるようである。敵の判別どころか自分がどこにいるのかさえ分らない。

 耳を塞ぎたくなるような音ばかりが混ざり合う不明瞭な視界の中で、雷が瞬くように唐突に現れる攻撃の瞬間。

 その映像に重なり合うように石の壁が現れた。高くそびえたつ壁の内で、民衆が天に向かって両手を広げ、何かを叫んでいる。歓声なのか慟哭なのか分らない。

 

 エジプト。

 

 ただそれだけ聞きとれた。

 民衆の中に、金色の髪の少女の後ろ姿が見えた。彼女は最後に別れた時と同じ薄緑色の服を身に纏っているが、それは酷く汚れ、ところどころ赤い染みが見える。更に、金糸の髪が絡みついているその細腕にも赤い線が見えた。切り傷だと気付く。それは彼女の痩身をいくつもいくつも横切っていた。

 

 リラ。怪我をしているのか?今どこにいる?

 

 混乱する視界の中、何度も視界をかすめるように現れるその少女の横顔に問いかけたが、彼女は虚ろな目でどこか遠くを見ている。 

 全身が痛い。今日もこのまま目覚めてしまうのか。

 そう思った。だが、リラがこちらに振り向いた。緑色の瞳と視線が合った。その目からは、涙が幾筋も流れていた。


―― ワセト


 リラの唇が小さく動き、掠れた呼び声が届いた。



「――リラ!」


 飛び起きた瞬間、ゴン!という鈍い音と同時に目の前に火花が散った。額に強い衝撃を感じ、それは後頭部まで響き渡った。

 何かにぶつかったのだと理解した時には、反動で後ろに倒れていた。


「殿下!大丈夫ですか!?」


 ライラの声が聞こえた。

 痛みのあまり唸り声しか出せない。

 カエムワセトは両手で頭を抱えながら、過去に体験した同様の痛みと衝撃を思い出していた。確かあれば、書物を読みながら廊下を歩いていて頭から柱にぶつかった時だった、と。

 

 ――とすると、今回自分の頭は何と衝突したのか。

 

 疑問をいだきながら身体を起こすと、目の前に赤い頭の人間が倒れていた。

 ライラではない。髪が短い。

 該当する人物は一人しかいなかった。頭突きの相手としては最悪である。


「ネベンカル……大丈夫か――ぁ!」


 言い終わらぬうちに、がばりと身を起こした赤毛の弟に胸倉を掴まれ、思いきりゆすられた。


「このボケ兄!僕に何か恨みでもあるのか!」


「恨んで、るのは、ネベンカルの方だ、ろ」


 まだ頭突きの衝撃から立ち直れていないカエムワセトは、揺すられながら言葉を返した。


「ネベンカル様、おやめください!」


 再びライラの声が聞こえ、上体の強制的な前後運動がようやく止まった。


 やっと周りを見る余裕が出て来たカエムワセトは、まだ痛む額を抑えながら、目を開いた。ネベンカルの向こう側で心配そうにこちらを見ている弟達の姿を見つけ、その左隣ではジェトとカカルが腹を抱えて悶絶している様子が見えた。両目を吊り上げているネベンカルの右側にはライラがおり、まだ自分の胸倉を掴んでいる弟の腕を握っている。


「すまなかった。ちょっと、夢見が悪くて」


 額の中央が真っ赤になっている弟に謝罪すると、胸元がやっと自由になった。

 カエムワセトの胸倉を解放したネベンカルは、ふんと鼻を鳴らすと背中を向けた。


 唸り声は煩いし覗きこんだら頭突きはかますしなんなんだよ。


 兄の寝言に睡眠を妨害された弟は、ぶつぶつ文句を言いながら、荷台の端に座りこんで膨れた。


 辺りはすっかり明るくなっており、馬車は停止していた。御者席を確認すると、アーデスが柱にもたれていびきをかいていた。テティーシェリも、まだ毛布をかぶって眠っている。


「ダボル山のふもとまで来たんで、ちょっと休んでたんですよ」


 先程まで床に転がって爆笑していたジェトが隣にやってきた。腰を下ろすと、「大丈夫すか?」と訊いてくる。

 カエムワセトは「まだかなり痛い」と額をさすりながら答えた。


「いやそっちじゃなくてさ」


 言いながら、ジェトは少しカエムワセトに身体を寄せ、声を落とす。


「またうなされてましたよ。そんで起きぬけに、リラ、って」


 悪夢の心配をされていたと分ったカエムワセトは、ああ、と短く応じるとさっと周りに視線をめぐらせた。

 起きている者達がそれぞれ思いもいに思いに動いている様子から、話を聞かれる心配はなさそうだと判断すると、夢がまた少し変化していた事と、リラの身体の傷について話して聞かせる。


「私が感じていた痛みは、リラの傷なのかもしれない」


 カエムワセトはリラの身体にあった傷跡や服の血痕が、これまで自分が感じていた痛みの部位と一致している旨を告げた。


「でもどこにいるか分らなきゃ助けに行きようもないじゃないすか」


 責める様な口調で言ったジェトが、至極不満そうにカエムワセトを睨みつける。


「私に文句を言われても」


 夢の中で所在地を聞いてもリラは教えてくれなかったのだからどうしようもない。カエムワセトは言葉を濁した。


 そういうしているうちに、御者席で寝ていたアーデスが目覚める。


「あ~、もう朝かぁ」


 天に向かって腕を突き上げながら伸びをしたアーデスは、続いてゴキゴキと硬い音を鳴らしながら首を左右に動かした。


「そろそろ検問が開くかしら」


 パンを配るついでにテティーシェリをゆすって起こしたライラが、「もう行きますか?」とカエムワセトに確認する。

 カエムワセトが「そうしよう」と応じると、ジェトとカカルが「んじゃ、俺達はここで」と立ち上がった。

 ライラが持っている袋からパンを二つ取り出すと口に咥え、「じゃ、また後で」と荷台を飛び下り、街道を逸れた森の方に走ってゆく。


「二人とも!通行許可証は!?」


 ダプールを出入りするには通行通行許可証が必要である。カエムワセトが呼び止めたが、カカルは手を大きく振ると、「そんなの要らないっスー」と返事を返してきた。


「欲しけりゃ盗みますよ」


 ジェトも振り返って答える。そして、二人は霧の立ち込める森の奥へと消えていった。


「すっかり賊に戻っちゃったわね」


 アーデスにパンを渡したライラは、間道を探しに行った元盗賊の部下二人を見送りながら、呆れた様子でため息をついた。

 

 帰ったら再教育しなきゃ。

 

 と、二人が耳にしたら悲鳴を上げそうな事を呟く。


「よし、ほんじゃ俺らも行くかね」


 アーデスがパンを咥えながら手綱を操作した。手綱の動きをハミを通して感じ取ったロバが、ぼちぼちと脚を動かす。

 馬車が一度ガタンと揺れ、再び前進し始めた。慌ててライラが馬車に飛び乗り、御者席の隣に座る。


「ほんじゃあ奴隷どもは着くまでにパン飲み込んどいて下さいよ。小姓君は毛布を片付けとくように!」


 奴隷商頭のアーデスが前を向いたまま荷台に指示を出した。しかし、まだ役に入り切れていないらしく、言葉使いは無茶苦茶である。


 カエムワセトはアーデスの後ろに立ち、弟達を見渡した。

 アーデスの指示通り急いでパンを喉に送った奴隷役の弟達は、一様に緊張した面持ちで小姓役の指揮官を見上げた。


 カエムワセトは深呼吸をひとつすると、幼顔の端々にまだ王子の品格を残す弟達に向かって、こう言った。


「お前達は今から王子ではなく奴隷だ。パシェドゥから受けた指導を忘れるな」


 そして、一気に陰気な表情になった弟達を見て、心の中で付け加える。


 思い出したくないだろうけど。


 と。


 馬車が都市に続く坂道を登り始めた。

 坂の頂上には、横に広がる頑強な外壁と、その向こうにヒッタイトの軍旗と思われる旗を掲げたダプール城が小さく見える。

 

 カエムワセトは御者席と荷台を隔てる幕を下ろした。太陽光が遮られ、荷台が薄暗くなる。

 下ろしたての幕を前に再び深く呼吸したカエムワセトは、懐に入れてあった深紅の飾り布を取り出し、頭に巻いた。これを外した時が、策戦決行の合図となる。

 

 瞳を閉じ、パシェドゥが作り上げた奴隷商の小姓へと、心を移行させる。

 そして呟いた。


「sa'ahzam jiniral aleadui bialtaakid」


 私は必ず敵将を落とす。


 アラビア語だった。

 アミール。エジプト人の母とアラビア人の父を持つ小姓の名である。名付け親は辣腕座長。ゲリラ戦で使用する、カエムワセトの新しい顔だった。

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