第40話 月夜の行軍

 馬で駆け抜けたタ・ウィとは異なり、ロバが引く馬車を利用した奴隷小隊がダボル山東に広がる平野に到達した頃には、既に夜になっていた。雨が降り、地面がぬかるんでいた事も理由にある。


 メギドを越え、ダボル山を望む平野地帯に辿り着いたカエムワセト一行は、月明りの下、森林地帯を抜けた暗がりの向こうに二つの隆起を見た。一つは向かって左手にナザレの丘。右手には目的とするダボル山である。ダボル山の頂上には、灯りが灯っていた。人が集い、そこに住居を構えている証である。


 荷台で眠る弟達に毛布をかけ直したカエムワセトは、御者席でずっと手綱を握りっぱなしのアーデスに「代わろうか?」と声をかけた。アーデスの隣ではライラがローブにくるまり、膝を畳んで眠っている。

 アーデスは「なぁに。大丈夫だ」と小姓姿のあるじに余裕の笑みで返した。


「それより、お前こそ少しは寝とけよ。着いたら横になる暇なんてねえぞ」


 敵の本丸を相手にする予定のカエムワセトに、アーデスは体力の温存を勧めた。

 ダプールに潜入すれば、そこから先はカエムワセトの頭脳と判断力に一任される事となる。お得意の頭脳プレーも、疲れていては十分に力を発揮できない。


 カエムワセトは、ぞんざいながらもいつも自分を気にかけてくれる兄のような存在の忠臣に「わかった」と微笑んだ。

御者席のすぐ後ろに座り、荷台の支柱にもたれたカエムワセトは、月明りにぼんやり照らされているアーデスの広い背中を眺める。

 アーデスがカエムワセトの武術指南役に就任して八年。自分がどれほど成長しても、この男の背中の広さは変わらない気がした。


「ありがとう。ここまで私についてきてくれて。感謝しているよ」


 広い背中にぽつりと言う。


「はあ?」


 ここでお別れだ、と言わんばかりの謝辞を頂戴したアーデスは、心底気味悪い心境で振り返った。


「なに、俺ここで死ぬのかよ?」


 縁起でもない言い回しはやめてくれ、と年下の主人に文句を言う。

 カエムワセトは「ごめん、そういうつもりじゃなく」と弁解し、実はずっと礼を言いたかったのだ、と告白した。


「トトの書を探し出せたのも、『守護する者』からハワラと弟を守れたのも、今こうやってダプールを目前にできているのも、全部アーデスが傍で支えてくれたからだよ。アーデスがいなければ私は多分、トトの書探索の旅に出る事すら叶わなかった。ライラにも再会できなかったかもしれないし、リラにもジェトにもカカルにも出会えなかった。大人になってもたった一人神殿の図書館で毎日を過ごすだけの、ただの『書豚』で終わっていたはずだ」


 だからありがとう。父上の戦友から、私の腹心になってくれて。


 カエムワセトは再び静かな声で、月明かりの下で手綱を握る男に感謝の気持ちを伝える。


「そういうのは今わの際で言ってくれや」


 冗談めかした言葉と共に、広い背中が笑い声に合わせて揺れた。


「言える時に言っておきたいと思って」

「なんだお前が死ぬのかよ」


 再び、冗談めかした苦言が広い背中の向こうから聞こえて来た。


 カエムワセトは笑うと


「縁起でも無い事言わないでくれ」


 と先程のアーデスの文句を借りて言葉を返した。

 そして、その視線の先を腹心の部下の広い背中から荷台で眠る仲間たちへと移す。

 戦場に出られるくらいに成長した弟達と、自分を慕ってついてきてくれた戦友達。カエムワセトは彼らの安らかな寝息を聞きながら、ゆっくり上下する幾つもの毛布の塊を愛おしそうに眺めた。


「こんなところで死んでられないよ」


 瞼の重さを感じながら、満たされた心地で呟く。


「やりたい事もやらなければならない事も、私には沢山できたんだ」


 口にしながら、カエムワセトは意識が眠りへと移ろいでいくのを感じた。


「そりゃ結構なこった。あとはお前、さっさと嫁でも貰って――」


 嫁でも貰って沢山子供を作れ、と明るく応じかけたところで、後方でコトンという物音が聞こえ、アーデスは後ろを振り向いた。

 そこには、もたれていた柱から上体を落として眠ってしまった主人がいた。

 子供のように無防備な格好で寝息を立てているその寝姿に、最古参の腹心は眦を下げた。


「おぼこいねえ、まったく」


 そう言うと自分が着ていたローブを脱ぎ、束の間の休息に身をゆだねる若き指揮官の上にかけてやる。


「さ、もう少し頑張りますかね」


 最古参の腹心は、独り言とともに、手綱を握り直した。

 ――が、冷たい風が吹きつけた次の瞬間


ぶえっくしゅ!


 特大のくしゃみをしたアーデスは、続けて鼻をすすった。


「あ、やっぱ寒ぃわ。無理無理」


 ぶるっと身体を震わせると、つい先程優しい言葉がけとともに主人にかけてやったローブを掴んで躊躇なくはぎ取り、再びそれを羽織った。

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