第39話 雨の中の奴隷小隊 

 その日の昼前には、カエムワセト達は新たな指示書をくくりつけたサシバを放ち、奴隷商一行に扮してシャロン平原の砦を出立した。


 奴隷商頭に扮したアーデスが、馬車の御者席に座ってロバに繋がる手綱を握る。ライラはその妻役として隣に座っていた。

 その後ろ。幌付きの荷台の中では小姓役のカエムワセトと、奴隷役の弟達とテティーシェリ、そしてジェトとカカルが旅荷物と一緒に揺られていた。


 砦の見張り塔では、見張り兵に成り替わったエジプト海軍兵達が、平原を山脈の隙間目指してゆっくりと遠ざかってゆく奴隷小隊を見送っていた。

 オルビアが今にも雨が降り出しそうな空を見上げて眉を寄せる。


「今日に限って泣きっ面かい」


 頭上を覆いつくす黒い雨雲は、平原をゆく小さな馬車を押し潰しそうなほど重たく膨れ上がっていた。




 カエムワセトは湿気た空気を感じ、幌から顔を出した。ぽつり、と冷たいものが頬に当たる。


「降って来たな」


 掌を上に広げると、そこにまた雫が一つ落ちた。

 ぽつ。ぽつ。と、木製の車体に染みができる。やがて、バラバラと音を立てて本降りになりはじめた。


 ライラが腕を抱いてぶるっと身体を震わせた。シリアの衣裳はエジプトのそれに比べて生地が厚く身体を覆う面積も広いが、やはり灼熱の乾燥地帯に慣れている人間にシリアの気候は寒く感じる。

 カエムワセトは荷物の中からフード付きのローブを二着取り出し、それをライラとアーデスに渡した。


「すみません、使わせていただきます」


「おう。気が利くじゃねえか」


 流石、やり手小姓だねえ。


 冗談をお礼代わりに、アーデスがローブを受け取って手早く羽織りフードを被った。

 ライラがローブの前をしっかり合わせながら、さっそく主を従者扱いする無遠慮な男を膝で蹴った。


「お前達も、毛布を羽織っておいた方がいい」


 雨ざらしの御者席の二人にローブを渡し終え、荷台に振り返ったカエムワセトは、荷台の中で両脚を抱えて身体を縮めている弟達に言った。簡素なチュニックを着ているだけの奴隷役達は、見るからに寒そうである。

 小姓役の呼びかけに応じて、ジェトとカカルとテティーシェリが、王子たちに毛布を配る為に腰を上げた。


「大丈夫です」


 セテプエンラーが気丈に答えた。

 最年少の彼は、ネベンカルを除いた弟達の中で最もタフだった。船酔いが覚めてから一番先に仕事に加わり、笑顔を見せたのも彼が最初である。

 それでも今、その小さな体は染みるような寒さに小刻みに震え、唇はやや青ざめていた。


「今はまだ頑張らなくていいよ。風邪でも引いたら大変だろ」


 見るからに虚勢を張っている弟に、カエムワセトは毛布を取るように促した。


「ほれ六番」


 セテプエンラーが兄の忠告に従って毛布を受け取り他の王子たちも順々に毛布で身を温める中、ジェトは手元に残った最後の一枚をネベンカルにぐいと付きつけた。

 ネベンカルは毛布に手を伸ばしかけたものの、ジェトの後方に目をやると手をひっこめて、ぷいと横を向く。


「必要ない」


 そして彼は、テティーシェリに渡せ、と言った。南の人間の方がこの寒さは辛いだろう、と。


 意外な気遣いを見せた第六王子に、毛布を配っていた三人は目を瞬かせて顔を見合わせた。カエムワセトも、兄弟一自己主張が強いネベンカルが、紳士的な一面を持ち合わせていた事に驚く。


 年下の少年から気遣いを受けたテティーシェリは温かな微笑みを浮かべると、ジェトの手から毛布を受け取りネベンカルの前に両膝をついた。


「私は旅慣れてますから、こう見えて寒い地方も平気なんです。だから大丈夫ですよ」


 覗きこむようにネベンカルと視線を合わせ、両手で毛布を差し出す。


 憧れの踊り子から、とろけるような笑顔を向けられ一気に体温を上昇させた純な少年は、「熱いからいい」と再度毛布を断った。しかしすぐに外気温に体温を下げられてしまい鼻水をすする。


「鼻水垂らしてたらお偉いさんに買ってもらえねえかもよぉ?」


 ジェトが意地悪な笑みに顔をゆがませ、必死に格好をつけようとしている奴隷役の王子をからかった。


 いくら商品価値が高かろうと、感染症にかかっていては元も子もない。奴隷役の王子たちにとって、鼻水くしゃみはご法度である。


――ご法度である事は理解しているはずなのだが、強情な奴隷役は毛布を受け取ろうとしなかった。


「しかたありませんねぇ」


 テティーシェリはため息をついた。手元の毛布に視線を落とし、少し思案する。

 そして顔を上げた踊り子はにこりと微笑み、「では、一緒にくるまりましょうか」と毛布を広げた。ネベンカルの横に体をくっつけるように座り、自分とネベンカルの後ろから毛布を被ろうとする。


 予想外の展開に慌てたネベンカルは、犬のような四つ這いで素早く反対側に逃げると、真っ赤になりながら「わかった!もらうから!」と手を出した。


 やっと素直になったネベンカルに、「そうですか」とテティーシェリが毛布を渡す。憮然とした顔で毛布を受け取ったネベンカルは、毛布にくるまるとその場に座って小さくなった。


 御者席のアーデスが雨に濡れながら「いいなぁ」と小さく呟いた。


 奴隷役達が風邪を引く心配もなくなったところで、ダプール到着までの時間を利用して、カエムワセトは策戦を復習しておく事にした。

 二頭引きで馬車をひくロバの歩みは遅く、刺激といえば、ガタガタと眠気を誘う小刻みな揺れと幌を打つ雨音くらいである。

 小姓役のカエムワセトは、奴隷役の王子たちとテティーシェリ、そして解錠などの忍役をこなすジェトとカカルを前に、砦で行った策戦会議をもう一度一から説明しはじめた。


「おそらく私達はダプールの検問所で止められるだろう。それを利用する。アーデスは検問で止められたら、ダプールの執政からかねてから要請を受けていた高級奴隷商だと主張してくれ。そうすればきっと、執政もしくはそれに近い者に連絡が入り、直接我々を確認しにくるはずだ」


 エジプト系とはいえ、奴隷は女子供ばかりである。相手も油断するに違いないとカエムワセトはみていた。

 ましてや執政は少年趣味。少年ばかりの奴隷商隊には、願ったり叶ったりである。


「二人はそこで必ず私を売り込んでくれ。私が執政とシャルマの懐に入れるように」


 カエムワセトは後ろのアーデスとライラに振り返り、念押しした。

 商人の妻役のライラが緊張した面持ちで頷き、「へいへい」とアーデスが手綱を握りながら返事する。

 カエムワセトは、再び正面に向き直った。


「本丸を落とす最大のチャンスはおそらく、買われたその日の夜か翌日だ。お前達、薬はちゃんと持っているな?」


 兄からの確認に奴隷役の弟達は揃って頷き、腰帯に隠した小袋を取りだし見せた。

 砦内で行った最後の策戦会議で、カエムワセトは弟達に、もしチャンスがあったらダプールの要人達に飲ませるようにと、パシェドゥ特製の強力な睡眠薬を手渡していた。


 ダプールの軍司令官や高官達は執政と同じくヒッタイトに阿いているはずである。

 奴隷を何人買ってもらえるかは未知数だが、ダプール奪回をよりスムーズに行う為には、本丸以外との争いも最小限に抑えるに越した事はない。

 ラムセス二世が言うには、ダプールの軍司令官、その副官、執政の懐刀で書記官の男。この三名が執政と共にダプールの柱となっているとのことだった。

 もしこの三人が奴隷として王子の誰かを買い、睡眠薬を飲んでくれれば、彼らを相手にする手間を省く事が出来る。


「無理はしなくていい。だがチャンスがあれば是非とも潰してくれ」


 奴隷役達の緊張をほぐそうと少し冗談めかして言ったカエムワセトの口調に、弟達がくすりと笑った。


「城外に残った者は、タ・ウィから提供された地図の写しを頼りに動いてくれ」


 カエムワセト達は出立前に、掌サイズにカットした小さなパピルスを幾つか作り、そこに都市内の地図を写しておいた。

 

「けれど周囲の目には気を付けろ。見張りに気付かれる恐れがある」


 カエムワセトは続ける。


「タ・ウィには城外に残った者たちとの連絡係を頼んである。執政とヒッタイト司令官を落とす機会が来たら伝令を送るから、速やかに動くように」


 城に奴隷が買われるタイミングで、最も身体の小さいタ・ウィのギルが忍びこむ予定になっていた。 

 ギルは、策戦決行の合図である“小姓の頭の布飾りが外された”時点で、仲間に知らせる役目を担っている。


「策戦決行の連絡が来たら城の裏門に集まれ。ジェトとカカルが解錠するからアーデスとライラとともに城内へ潜入。奪還終了の声を待って城の頂上にエジプトの軍旗を掲げろ」


 カエムワセトがそこまで言うと、胡坐で考え込んでいたジェトが「それでもいいっすけど――」と口を開いた。


「こういう頑丈な街とか城って、大体秘密の抜け道とかあるっしょ?そっちを見つけて侵入した方が一気に中心部に入れますよ。見張りを倒す面倒も減らせるし」


「あ! 要人脱出用の通路のことか」


 ジェトの言う『秘密の抜け道』について暫く考えを巡らせたカエムワセトが、自分の知識と該当する『間道』に気付き、弾かれたように顔を上げた。

 ジェトが「それそれ」と相槌を打つ。


「やっぱお前盗賊だな。目の付けどころが違うわ」


 御者席で手綱を握るアーデスが、雨に濡れながら茶化した。フードローブを被ったその後ろ姿は見るからに寒そうであるが、声は明るい。


「いやだから元を付けろって」


 何カ月も前に盗賊団を抜けて足を洗っているジェトは、雨に濡れても元気な三十路男に不可欠な一文字を要求した。

 アーデスはやはり、ずぶ濡れになりながらも明るい声で笑った。どうやらこのオヤジは寒さに強いらしい。

 対照的に、隣のライラの後ろ姿は小刻みに震えていた。こちらは寒さに弱とみえる。

 カエムワセトが気を使って「中に入るか?」と声をかけたが、元軍人のプライドが邪魔をしているらしく、「だいじょうぶです!きたえてますので!」と震える声で痛々しい虚勢を張った。


「で、どうです?秘密の通路案は」


 ジェトが訊ねる。


「間道、か。アイデアは悪くないが……」


 カエムワセトは考え込む。

 要人脱出用の通路はジェトの言うように正に『秘密』である。出入口は一目ではそれと分らない場所に存在するのが当たり前であり、別の用途に見えるようカモフラージュされている場合もある。


「だが見つけられるのか?」


 最大の問題はそこだった。そもそも発見できなければ意味が無い。策戦決行まで二日ほどしか猶予が無い中、果たして間道を見つけられるのか。カエムワセトは訝った。

 

 だがジェトは、「多分大丈夫っすよ」と、けろりとした顔で答えた。

 カカルもジェトの隣で「アニキは鼻が利くんスよ」と自分の鼻を人差し指でつついて説明する。


「道でも食べ物でも、隠してあるものを見つけるのは得意なんス」


 ジェトは動物的勘が鋭く、盗賊団に所属していた頃はその特性が重宝されていたという。


「犬かよ」


 ネベンカルが顔をしかめた。


 赤毛の短髪を殴りたい衝動を必死に堪えながら、ジェトは念の為、未発見に終わった時の為のバックアップ案も提示する。


「もし無理だったら待機組にちゃんと伝えるんで、そんときは裏口の鍵開けますよ」


 恐らく、盗賊団で働いていた時もこうやって動いていたのだろう。場馴れしていると感じたカエムワセトは、ジェトの嗅覚に期待する事に決めた。


「分かった。宜しく頼む」


 山脈に挟まれた谷間を抜ける頃、雨はようやくおさまりだした。


 

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