第36話 傭兵と踊り子

 翌朝。空が白み始めた頃。アーデスは砦に隣接する小さな厩舎にいた。


「ようセパト。シリアは寒くないか?」


 エジプトの気候に慣れている自分の愛馬の首筋を軽く叩きながら、身体にブラシをかけてやる。

 昨日は甲板の上から飛び降りるという荒業をさせてしまった。足首を傷めていないか心配したが、元気そうで安心する。


「セパトですか。変わった名前ですね」


 声がして振り返ると、厩舎小屋の入口にテティーシェリが立っていた。湯気の立つ椀を手に、両側に馬房が並ぶ通路を歩いてくる。

 セパトとはエジプト語で州を意味する。この時エジプトの州は上下合わせて42存在していた。


「あんたの本名も変わってるじゃねえか。定冠詞だろ?」


 特にこだわりも無く何となくつけた名前だったが、いざ指摘されると気恥ずかしく、アーデスはテティーシェリの本名を引き合いに出した。

 男の子として生まれたテティーシェリの本名は、アルである。アル、とは定冠詞。つまり、英語で言うTheを意味した。


「そうですねぇ。どういうつもりで付けたんでしょうねぇ」


 テティーシェリは斜め上に視線を向けながら、うーんと唸った。そして、「両親に訊かなきゃ分りませんね」と軽く笑うと、アーデスに手の中の椀を差し出した。


「朝食です。どうぞ」


 椀の中身は、乳白色のスープとそれに浸かったパンだった。スープの中身は、肉と野菜が数種類。

 湯気に乗って、香草の良い香りがした。


「すっかり飯炊き係になっちまったな」


 アーデスは昨日から台所に入り浸りの踊り子から出来たばかりのスープを受け取ると、後ろの樽に腰をかけた。

 テティーシェリの料理は、自軍だけでなく捕虜にもすこぶる評判がよかった。捕虜の中には拘束されている立場を忘れてお代わりを要求する者までいるという。


「いいんです。料理は好きですから」


 答えながらテティーシェリはアーデスが桶の中に戻したブラシを掴むと、食事をとる馬の持ち主の代わりにセパトの身体にブラシをかけ始めた。

 アーデス以外の男には身体を触らせたがらないセパトが、大人しくテティーシェリにブラシをかけさせている。――ということは、テティーシェリはセパトに女性として認識されているらしい、とアーデスは考えた。


―― こいつも分りやすい奴だな。


 アーデスは自分に性分が似ている愛馬を呆れながら眺めた。

 雌ならばまだ可愛げもあるが、セパトは雄である。故にただの女好きだった。セパトがアーデスに気を許して触らせるのは、仔馬の時から世話をしているからである。

 ちなみにセパトは女性相手でも態度を変える。生意気な事に、好みがあるようだ。アーデスの経験では、テティーシェリはセパトのストライクゾーンど真ん中である。そこのところも、持ち主に似ていた。補足だが、セパトはライラにも大人しく触らせる。だがこれは、怖がっているが故だった。


―― 情けねえこった。


 気難しい愛馬への憐憫なのか自己嫌悪なのか自分でも分らないまま、スープをすする。

 温かく栄養価の高い液体が、心身に染みわたった。


「ああ~・・・美味いわ」


 生き返った心地がして、湯につかった時のような声が出た。


「温かいだけでもご飯は美味しいですからね」


 戦場にいるというのに、テティーシェリはいつも通り終始穏やかだった。苦境で育ったが故か。それとも、メンタルコントロールが上手いのか。


―― 類は友を呼ぶってやつかねえ。


 アーデスは18歳の青年にしてはずば抜けたメンタルの強さを持つ自分の主人カエムワセトを思い浮かべた。幼馴染だという二人の穏やかさは、どことなく似ている。

 そういえば、ライラも幼馴染だったな、と思い出した。だが、あいつは論外だな、と猛獣のような同僚を“類とも”から即刻除外する。


「乏しい材料でよくこんな美味いもん作れるな」


 アーデスは早くも最後の一口を飲み込み、干した野菜と肉ばかりが並ぶ台所で、普段城で口にする様な食事を作った踊り子の料理の腕を褒めた。


「塩やハーブは保存が効きますからね。持っておけば便利ですよ」


 どうやら、自前の調味料があるらしい。


「ほお」


 アーデスは感心した。流石、旅慣れしているだけの事はある。


 旅芸人として出会った時は踊り子の衣装を身につけていたテティーシェリだが、今日はシンプルな長めのチュニックを着ていた。それでも、全体の雰囲気は女性を意識した着こなしである。

 馬にブラシをかけるその後ろ姿は、戦場には不釣り合いな、優しそうな女性だった。


「あんたも災難だな。従者になった途端戦場に行く羽目になっちまうなんて」


 カエムワセトを追ってぺル・ラムセスまで赴き、慣れ親しんだ仲間と別れを決めたというのに、因果なものである。

 同情するアーデスに、テティーシェリは振り返り「平気ですよ」と笑った。


「元々殺伐とした業界にいましたし。大して変わりません」


 そう言うと、ブラシを桶に戻して手をパンパンと叩いて汚れを落とした。少し身体を引いてセパトの身体を確認すると、「うん、キレイ」と満足げに微笑む。


「エジプトに戻れば落ち着いた暮らしが待っているんですから。私は楽しみですよ」


 桶を手に馬房の柵を下から潜りぬけ、アーデスに歩み寄ると、隣の樽に腰をかけた。


「帰ったら、色々してみたい事があるんです」


 天井と壁が交わるあたりを眺めながら、テティーシェリはアーデスに、戦争終結後に待っているであろうぺル・ラムセスでの自分の新生活を想像して聞かせる。


「植物を育てたり、市場でゆっくり買い物をしたり、お酒に酔い潰れてみたり、友達や恋人も作りたいです」


「友達だろうが恋人だろうが、あんたなら何人でもできるさ」


 普通の若者の生活をまるで夢の暮らしのように語る新しい仲間に、アーデスは優しく微笑んだ。


「恋人は一人でいいですよ」

 

 アーデスの『何人でも』というフレーズに、テティーシェリは困ったように笑う。

 

 それもそうか、とアーデスは自分の常識外れを自覚した。好色なファラオの傍で生活をしているせいで、どうしてもその辺の感覚が麻痺してしまうようだ。

 しかし一人に絞るとなると、テティーシェリの場合、男か女どちらを選ぶのだろうかと、ふと気になった。 


「どっちの?って顔してますね」


 テティーシェリがアーデスの顔を覗きこみながら、心を見透かしたように言って来た。次に、図星に顔を引きつらせている傭兵から身を引くと、「ホント、どっちになるんでしょうねぇ」と穏やかに目を細めた。


「女性を好きになったらアルに戻ってもいいですし、男性ならこのままテティーシェリとして生きてもいいんですけれど。ダリアや最高司令のような方が相手ならまた違った道もありそうですね」


「相手に合わせるって事か?」


 アーデスからの問いかけに、テティーシェリは少し考えると、「さあ……?」と首を捻った。


「というより正直私は、人を好きになった事がないんだと思います。割り切ったお付き合いはできますけれど、たった一人と思える人にはまだ出会えていません」


 仕事が仕事だっただけに、感情を抜いた付き合い方ばかりが上手くなり、心の方は置いてけぼりになっていたらしい、とテティーシェリは笑う。


 テティーシェリは笑顔が上手い。楽しい時は明るく。苦しい時は困ったように。とりあえず美しく笑う。だがそれは、テティーシェリなりに身につけて来たメンタルコントロール法であり、処世術なのだろうとアーデスは感じていた。

 飄々としているようで、時折テティーシェリの笑顔の端々から、これまで経験してきた苦労が見え隠れしていたからである。

 アーデス自身も若い頃は相当な苦労をしてきただけに、そういったテティーシェリの境遇に憐みは感じないが、勿体ないなとは思っていた。

 心から笑ったら、今以上に人心を掴むのだろうに、と。


「どんな人なんでしょうねぇ……」


 考えにふけっていると、隣からぽつりと声が聞こえた。

 そしてアーデスは、テティーシェリのこれまで見た事のない笑顔を目の当たりにする。


「わくわくしますよ。これからそういう人に会えるのかと思うと」


 実に楽しそうに目を細め口角を引いたその微笑みは、穏やかな中にも輝きに満ち、それはまるで陽の光を反射して揺らいでいる水面のようだった。

 アーデスは不覚にも、その笑顔に三十路の胸をきゅんとさせてしまう。


 可愛らしく終始穏やかで辛抱強く気が利いて料理上手。短剣の腕も悪くない。職業柄、自分の傭兵としての立場や心境も理解して寄り沿ってくれる気もする。

 それに何度も言うが、とにかく可愛い。男だとか女だとかこの際性別はもうどうでもいいか、と思えるくらいに好ましいのである。

 しかしながら、アーデスはまだ躊躇していた。


 残りの0.5も女なら迷わず口説いてるんだがなぁ……。


 アーデスにはその0.5にどうしても拘ってしまう理由があった。


 アーデスは自分の子が欲しかった。いくらテティーシェリが多才で呪術を使えるからといえ、自分の子供を産んでくれというのは無茶苦茶な要求である。ならいっそ自分が産めるよう内臓を一個増やす魔術でも探してみるか。……もっと無理があると思った。ここは一度冷静になるべきである。

 一人頭の中で勝手に盛り上がっていると、「あ」とテティーシェリが顔を上げた。


「鷹の声」


 耳に手を当て、立ち上がる。

 テティーシェリは、厩舎の外へと走った。

 空を見上げ、表情を明るくしたテティーシェリは、「やっぱりサシバですよ!アーデスさん」といまだ厩舎の中でぽつんと座っている男に満面の笑顔で呼びかける。


「殿下を呼んできますね」


 急いでカエムワセトを呼びに行ったテティーシェリは、アーデスの視界から消えた。

 厩舎の大きな入り口の前で、大海を背に動き回っていた踊り子の姿は、大きな絵でも眺めているかのようだった。

 アーデスは踊り子が消えてしまった大きな絵をぼんやり眺めた。


―― 養子も視野に入れてみるか。


 お相手の気持ちも確かめないまま、30過ぎのおめでたい傭兵は本気で考え始めた。


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