第32話 着港した遊撃部隊
港町カイザリアの南には、シャロンの平野と呼ばれている平原が広がっており、そこには沿岸部に監視用の小砦が建っていた。
正面に小さな波止場を伴うその灯台に似た石造りの砦は、カエムワセト達が最終目的地としているダボル山の前に立ちはだかるようにそびえ立つ山脈を背にして、実に寂しげにぽつんと存在している。
「暇だなぁ……」
見張り役の兵士は波止場に腰を下ろして、水平線近く行き交う船をぼんやりと眺めていた。ここには、カイザリアから生活物資の供給に週一回、見張り役の交代で月一回、往復船が着港するのみである。
周囲には街も村も無く、あるのは広い大地と連なる山。そして無限の海。普段目にするものと言えば、大港を行き交う交易船と、たまに羽を休めに来る海鳥くらいだ。
どちらも今は豆粒のように小さい。視力ばかりが鍛えられそうだった。
「釣りでもすっかな」
面白くなさそうにぽつりと呟いた仲間に、もう一人の見張り役が渋面を向けた。
「しっかり監視しとけよ。エジプト軍がこっちに向かってるって話だ」
意味ねえだろ。
暇そうな兵士はそう言うと、立ち上がり伸びをした。
本日も海は至って穏やか。空は快晴。欠伸が出るほど平和である。
「エジプトは陸路でガザを出たばかりだって昨日聞いたじゃねえか。あちらさんがダプールに来る頃にゃ、こっちの本軍がとっくに着いてるよ」
彼らはヒッタイト側から派遣された兵士だった。本来ここに居るべきエジプト駐屯兵が消えた人数分だけ、ダプールから送り込まれた監視要員である。
昨日、仲間から聞いた話では、エジプトは1000の兵を率いて行軍中だそうだが、その兵がダプールに到着するまでにはまだ何日も要す。その間にヒッタイトの本軍がダプールへ入ってしまえば、勝ったも同然だった。
「まあな―― ん?」
頷きかけたもう一人の方が、一艘の船に目を留めた。
その船は、まだ遠くにはあるものの、船首をこちらに向けて近づいてきていた。この名も無い港に着港させるつもりらしい。
「軍艦じゃねえ。商船だな」
最初に船に気付いた兵士が、目を凝らして船の形を確認した。
軍用船は大抵、船体が低めで長くほっそりしており、船首には敵の船体に穴を開けるための出っ張りがある。
目の前の船は船体が高く、船首の出っ張りも無かった。
「生活物資の配達か?」
「いや、昨日来たばっかだろ」
「そうだったな」と答えた呑気な兵士も額に手を当てて凝視し、船の正体を探ろうとした。
だがやがて手を下ろし、
「ありゃやっぱ貿易船だな」
と言う。
「なんか事故でもあったんじゃないか?」
呑気な方はそう言って、前に進み出た。
貿易船は、静かにこちらにむかってするすると船首を進める。
そのうち、船体横が着港場に接した。
「おーい!どうした~?」
兵士が甲板に向かって声を張り上げた。
その時。
甲板から一羽の鳥が、すい、と空に登る。
「……鷹?」
見上げて、逆光に目を細めた。太陽の中にいるその鳥は、猛禽類のシルエットをしていた。
勘のいいもう片方の兵士が青ざめて、砦に向かって「伝令!」と叫んだ。
だが、時すでに遅し。
砦の伝令に声が届いた時には、馬に跨った幾つもの兵のシルエットが、甲板から船の縁を飛び越えて次々と現れ出でたのだった。
★
伝令は最速のタイミングで砦を飛び出した。必死に手綱を握り、土ぼこりを上げながら戦車を走らせる。だが、後方から追手の気配を感じ取り、振り返ったそのヒッタイト兵は「馬ぁ!?」と目を見開いた。
この時代、オリエントに騎馬兵は存在しない。馬を使うのは、あくまで戦車や荷車での牽引用ある。だが彼の後方には、馬に跨り全力で駆けて来る赤毛の女兵士とアジア系兵士の姿があった。そのヒッタイト兵にしてみたら常識外れの光景である。更にその後方にはまた別に、同じく馬で駆けて来る集団があった。その集団は後方に一羽の鷹を伴いながら、向きを変えて山脈越えのルートへ向けて風の如く疾走して行った。
そしてヒッタイトの伝令は、二人のエジプト騎馬兵にあっけなく捕獲されたのである。
全てはエジプト第四王子カエムワセトの指揮の下だった。
敵の虚を突け。相手に武装する暇を与えるな。
伝令を逃がすな。次に伝える前に必ず捕えろ。相手は戦車だ。騎馬で追えば必ず捕獲できる。
タ・ウィはすぐさまダプールへ走れ。旅芸人として街に潜入し、内部の様子を報告せよ。連絡には鷹を使え。
殺すな。だが一人残らず取り押さえろ。誰一人逃がしてはならない。海軍兵は制圧と同時に見張り役に成り替われ。
波止場にいた見張り兵士二人は、後ろに回された両腕にロープを巻かれながら、あれよあれよという間に制圧されてゆく砦の様子を茫然と見つめた。
砦の兵は僅か20名ほどではあったが、あまりにあっけない終わり方である。
船体から素早く板橋を下ろし砦に押し入った海軍兵達を率いていた男が、剣を鞘に仕舞いながら砦から出て来た。
鞘に仕舞う前に見えた限りでは、その剣に血は付いていなかった。
「王子。砦の乗っ取り完了ですぜ」
捕虜となった二人のヒッタイト兵の前でその男は立ち止まると、彼らの後方に精悍な笑みを向けた。
二人の捕虜は、揃って後ろを振り返る。
「ありがとう。オルビア小隊長」
落ち着いた声とともに橋を下って来たのは、エジプト人の青年だった。陽に焼けた赤褐色の肌に理知的な面ざしが印象的なその人物は、天人の如く白い衣を纏っていた。
風を抱いて彼の背中から後ろに大きく膨らむ薄い羽織が、まるで大きな翼のようにも見えた。
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