第30話 波間に消えた夕食

 仲間を大海に放り込みかけた赤毛の女戦士が、大の男三人に抱えられながら船室に強制連行されて暫く経った頃。

 ライラ達と交代する形で、カエムワセトは甲板に出て猛反省していた。

 まさかライラにあんな事をしてしまうなんて。自分でも信じられない。

 夜の潮風に髪を撫でられながら、カエムワセトは船の縁に突っ伏した。


 あんな行動を取った原因を、カエムワセトは分っている。パシェドゥの演技指導のせいだった。

 パシェドゥの演技指導は、実に見事だった。否。指導と言うよりはパシェドゥは“作り上げていた ”のだ。エジプト近辺で集められた高級奴隷達と、奴隷商人のやり手小姓を。

 確かに、役者経験のないド素人を短期間でモノにさせるには、あれやこれや口先小手先で仮面を被らせるよりも、実体験させてそのものに成り切らせるほうが確実であろう。


 それにしても、やりすぎかと思うほど徹底した座長の指導方法には、カエムワセトも舌を巻いた。

 人が完膚なきまでに負かされた時に本当に『ぎゃふん』と言うのであれば、カエムワセトは間違いなくそれを口にしていただろう。


 ため息をついた次の瞬間、後ろに気配を感じて振り返ると、ネベンカルがいた。右手に大きめの椀を持っており、そこにはパンや干し肉が見えた。


「夕飯です」


 仏頂面で言った弟は、指揮官でもある兄に夕食が乗った椀を突きだした。

 カエムワセトは目を丸くする。


「君がこれを?」


 にわかに信じがたい、といった表情で椀を受け取った兄に、ネベンカルは膨れ面で横を向いた。


「テティーシェリに頼まれただけだ」


 密かに憧れている踊り子の名を口にして、頬を染める。

 初心な少年は、人心掌握に長けた踊り子の掌の上で早速転がされているようだった。後でコツを聞いてみよう、とカエムワセトは考えながら、干しナツメを一つ口に入れた。濃い甘味が、疲れた体に染みわたる。


「ありがとう。ネベンカル」


 糖分摂取で幾分元気を取り戻したカエムワセトは、早速弟に礼を言った。

 礼を言われた反抗的な弟は、苛立った様子で「だからこれはテティーシェリが!」と語気を荒げる。


「そうじゃなくて」


 カエムワセトは笑いを含んだ声で否定すると、柔らかく微笑んだ。そして、こう続ける。


「正直、君はついてきてくれないと思っていたんだ」


 軍議で弟達の同行と船舶の用意を求めたカエムワセトではあったが、ファラオに出した提案が樹立されても、ネベンカルだけはついて来ないかもしれないと思っていた。そもそも、ヘヌトミラーがそれを許さないだろう、と。

 だが、ネベンカルは渋々ではあったが後日からも軍議に参加し、出立の朝にはきちんと荷物をまとめて出兵の列に加わってくれた。

 その時の安堵と喜びは、指揮官の重い任を背負い怖気づきそうなカエムワセトの心を強く勇気づけてくれたのである。


 暗い海を眺めながら縁に身を預けて、胸の内を包み隠さずさらけ出してきたお人好しの横顔を、ネベンカルは冷ややかな目で見上げた。


「僕はあんたを助けるために来たんじゃありませんよ」


 そう言って、身体ごと兄に向いた第六王子は、その明るい茶色の瞳に暗く沈んだ色を宿し、声を低く告白する。


「殺しに来たんだ」


 カエムワセトはたっぷり数秒間、黙ってネベンカルと見つめ合った。


 そして、盛大に吹き出した。

 

 全く予想外の反応をしてきた兄に、ネベンカルは呆気にとられて「なんだよ!」と叫ぶ。


 ごめん、とカエムワセトは謝りながら、こみ上げてくる可笑しさに肩を震わせた。


「いや。わざわざ予告してくれるのは親切だなと」


 言った次の瞬間、ネベンカルがカエムワセトの手にあった夕食の椀をひったくって海に投げ捨てた。


「馬鹿にしてるのか!」


「してないよ全然」


 暗闇に消えた椀を見送りながら答えたカエムワセトの声は、やや泣いていた。空腹だっただけに、あっという間に波に飲み込まれてしまったパンや干し肉や干しナツメが悲しい。

 殆ど手付かずに終わった夕食を残念に思いながら、カエムワセトは顔を真っ赤にして怒る弟に訊ねる。


「叔母上に殺すよう言われたのか?」


 ネベンカルは目つき鋭くカエムワセトを見たが、何も答えなかった。

 沈黙を肯定ととったカエムワセトは、アーデスが口にしていた『殺意さえ母親の思い通りになっているマザコン』というネベンカルに対する酷評を思い出す。


 ならば叔母が側に居ない今は、弟の真意を確認するチャンスである。


「それで?ネベンカルはどうしたいんだ?」


 カエムワセトは出来る限り落ち着いた声で、弟の心の内を引き出そうと試みた。

 ネベンカルは落ち着き払った兄を暫く睨んでいたが、やがて瞳を伏せるをと、「さあね」と暗い波間に視線を移した。


「今あんたを葬るのは得策じゃない事だけは分った」


 そう言ったネベンカルの横顔は、腹立ちに任せて暴れ回っていた昼間とうって変わって知性的に見えた。だがその知性的な横顔は、すぐに憤怒の表情に変わる。

 非常に気分を害した様子で、ネベンカルは言う。


「でも、あんたを見てるとむかっ腹が立つ。正直、一緒の空気を吸うのも御免だ」


 両の拳を握って必死に何かの衝動と闘っている弟の姿に、あわよくば懐柔を試みようとしていた兄は失敗を悟って嘆息した。


「殺したいなら殺しに来ても構わないよ」


 ぽつりと言う。

 とても静かに、しかも何気ない調子で告げられた承諾の意を耳にして、ネベンカルは驚いて兄に顔を向けた。


「ただし人の手は借りるな。自分でおいで」


 カエムワセトは自分を凝視する弟に、真顔でそう付け加えた。


それから、できれば戦争が終わった後で。


 と、念の為の保険もかけておく。


「おめでたいね、ホント」


 吐き捨てるように言うと、ネベンカルはカエムワセトに背を向けた。そのまま、船室に戻ろうとする。

 その背中に、カエムワセトが「ネベンカル」と声をかけた。

 振り返った弟に、心からの言葉を伝える。


「君が来てくれて、私は心強いよ」


 毛嫌いしている兄から信頼の念を寄せられたネベンカルは、複雑な表情で視線を落としはしたが、とりあえず、その信頼を突き返す事はしなかった。


「さっきライラが騒いでましたよ。何があったか知りませんけど、迷惑なんで、もうやめてもらえますか」


 いつもの不機嫌な横顔と文句を置き土産に、ネベンカルが船室に消える。


 赤毛の忠臣の名を聞いたカエムワセトは、途端に余裕を無くした。

 そうだ、その問題が残っていた。と、弟との駆け引きの中で忘れかけていた自分の大失態を思い出し、頭をぐしゃぐしゃとかき回す。


『なめたい』


 あの時、自分は確かにそう言った。相手に聞こえるか聞こえないかの小声だったが、ライラの反応を思い出す限り、しっかり聞こえていたのだろう。

 小さな顔を強張らせ、ばっと体を離して逃げて行ったあの様子を思い出すと、今でも胸と腹のあたりに槍でも突き刺されたような痛みが走る。


 カエムワセトはそれなりに、メンタルコントロールには自信があった。心理学も学び、読心術にも長けていると自負していた。だがそれは驕りだったと気付かされた。自分の思考・精神が、まさかここまでパシェドゥに自由自在にこねくりまわされるとは思わなかった。


 これまでライラと接触した事は幾度もある。二度ほど腕に抱きしめた事さえ。

 そういった経緯を経ても、先程のような強い衝動は初めてだった。

 船の揺れとともに倒れかかって来たライラを、自分は当然の如く受け止めた。そこまでは、ごく普通である。


 だが、衣服越しにじんわりと伝わる温かな体温を感じた瞬間、パシェドゥの作り上げた小姓が顔をのぞかせた。

 カエムワセトの中で生まれた小姓は、「失礼しました!」と慌てて身体を離そうとした相手の力に抗い、心地よいその身体を離すまいと細い腰部を掴んだ手に思わず力を込めた。

 温かい体と共に差し出されるように飛び込んできた柔らかな唇にも無性に魅かれ、視線が奪われた。


 いつかの宴会の時にワインを飲み干し、指できゅっと拭いていた下唇を思い出し、どんな味がするのだろうと興味を掻き立てられ、指で輪郭をなぞった。そして、心の声が口をついて出てしまったのだ。『舐めてみたい』と。


 いつの間にか記憶を反芻していたカエムワセトは、はっと我に帰った。無意識のうちに、あの時の感触を求めて、唇をなぞった指の腹を舌先に触れさせていた事に気付く。

 お年頃の指揮官は、自分の行動に真っ赤になり、続いて青ざめた。


「あ~……」自己嫌悪と羞恥心で、情けない声が出る。

 ズルズルと縁に背中を滑らせながら座りこむと、頭を抱えた。


 これは自分の意志ではない、とは言わない。いくらパシェドゥが思い描く小姓の役柄に影響されたとはいえ、全ては己の衝動でやった事である。


 どうすれば元の自分に戻れるのか。明日、どんな顔でライラと会えば良いのか。

 とにもかくにも、もうしばらく甲板で頭を冷やす必要がありそうだと思いながら、カエムワセトは昼間からずっとパシェドゥに抱いていた疑問を口にした。


「ここまでする必要あるんだろうか」

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