第26話 指揮官 カエムワセト
カエムワセトが船室に足を踏み入れるなり、籐の箱が飛んできた。サシバが入った鳥籠をとっさに庇ったカエムワセトのすぐ側の壁に、箱が激突する。箱はそのままぼとりと床に落下し、蓋が開いた拍子に中から衣類がはみ出した。
目の前の光景は、嵐が通ったような惨状だった。ネベンカルが近くの荷物を手当たり次第、タ・ウィの座長目がけて投げつけている為である。部屋の床には保存食や衣類をはじめ、様々な物資が散乱していた。
「ちょっと六番目!落ち着きなさい!」
「番号で呼ぶな!芸人まがいの忍ごときが命令しやがって!」
出港から今までの短い間にパシェドゥと何があったかカエムワセトには知る由もなかったが、目の前の弟は、すっかりタガが外れていた。殆ど錯乱状態と言っても良いその様子は、まるで怯えきった獣である。
ネベンカルの後方では四人の弟達が壁に背中を貼りつかせるようにして、暴れ回る兄とそれを取り押さえようとしている一座の座長のすったもんだを真っ青な顔で見守っている。
弟達の反対の壁際では、カエムワセトの忠臣とタ・ウィの団員数名が揃って途方に暮れていた。
団員の一人である小男の老人ギルが、無言で自身のポケットから小さな筒状のものを取りだすと、髭もじゃの口元に筒の先をあてた。
「吹き矢は駄目でしょ!」
隣にいたリュート奏者のヘレナが慌てて手で吹き矢を押し下げた。相手が王子であるだけに、忍の彼らも対処に困っているようである。
「ああもう。片付けが大変す~」
カカルが乳幼児の子供を抱える母親の様な台詞で頭を抱えた。
「ごめんねぇ。ちょっとからかったら怒りだしちゃって」
頭部に毬状の曲芸道具を投げつけられながら、パシェドゥがカエムワセトに謝罪した。
何故こいつは、よりにもよって最も厄介な暴れん坊(ネベンカル)をからかったのか。
戦車模擬戦を経験しているカエムワセトの忠臣は、致命的なチョイスミスをしたパシェドゥを睨みつけた。
「こうなりゃ一発殴って黙らせましょう」
ネベンカルにずっとわだかまりを感じていたライラは、ここぞとばかりにボキボキと指を鳴らして一歩踏み出した。明らかにこの機会を利用して鬱憤を晴らそうとしているライラに、アーデスとジェトが「「コラ待て」」と同時に両側からライラの腕を掴んで制する。
「しゃあねえ。俺がやるわ」
面倒くさそうに名乗り出たアーデスが、のそりと前進した。
床に転がる障害物を大股で跨ぎながらパシェドゥの横まで進み出て来た屈強な傭兵に、流石のネベンカルも少々たじろぐ。
だがすぐに持ち前の負けん気の強さを発揮した暴れん坊は、カエムワセトとアーデスを交互に見ながらここぞとばかりに不満をぶちまける。
「大体、僕は父上の部隊に参加したかったんだ!こんな変人だらけのゲリラ隊なんか御免だね!」
変人、という単語を聞いた瞬間、そこにいる面々が満場一致でパシェドゥを見た。ジェトとライラに至っては、指まで指している。
「あたしは変人じゃなくて変態よ」
「自分で言っちゃだめですよぅ」
変人よりも質が悪い性癖を堂々と主張したパシェドゥを、テティーシェリがやんわりと窘めた。
どこまでも緊張感に欠ける変人らだけの部隊の中、恐らく自分もその一人に認定されているのであろうと複雑な思いを抱きながら、アーデスはネベンカルと対峙する。
「とにかくね。今更ごねたって遅いんですよ。大人しくしねえと一発ぶち込んで失神させますよ」
少し気だるげなその警告は、いつもの彼そのままである。だから余計に、そこにいる全員はアーデスから『本気』を感じ取った。
「やってみろよ」
ネベンカルがアーデスをギラギラした目で睨みつけ、唸るように挑発した。目の前の屈強な傭兵がいつ飛びかかってきてもいいように、姿勢を低くする。
「そこまで!」
突如、鋭さを帯びた声が響き渡り、緊迫した空気を弾き飛ばした。
そこにいた全員が、弾かれたように声を発した人物に顔を向ける。そして、その人物が誰であるか知った瞬間、にわかに信じがたい、といった表情に変えた。
全員の視線をその身に浴びながら、カエムワセトは鳥籠を下に置くと、冷静さを失った弟の前に進み出た。
「ネベンカル……」
いつもの声色よりも低めに、弟の名を呼ぶ。
自分と向き合う兄のその立ち居振る舞いに、いつもの弱腰とは異なる雰囲気を感じたネベンカルだったが、兄のその変貌は弟の瞳に浮かんだ狂気を落ち着かせるまでには至らなかった。
カエムワセトは反抗的な態度を直そうとしない弟を真っ直ぐに見ながら、
「そんなにこの隊に居るのが嫌なら、お前は動かなくていい。カイザリアに着いたら海軍と待機していろ」
と言った。
これはもはや、戦力外通告に等しい声掛けである。
カエムワセトをよく知る忠臣達は、主らしからぬ投げやりな判断に一瞬耳を疑った。だがすぐにそれは、プライドの高い王子の自尊心を煽る策略だと気付き、お互い目配せした彼らは成り行きを見守る事にする。
「そうなった場合、お前は帰国後、皆から何と言われるかな?『ワガママ者』?『能無し』?それとも――」
仲間達が見守る中、明らかに挑発と取れる言い回しの終わりにカエムワセトは間を溜めると、恥辱と怒りにぎゅっと唇を結ぶ弟をとらえる瞳に力を込めた。そして、
「『腰抜け』?」
と最後の引き金を引く。
その言葉を聞いた瞬間、ネベンカルのラムセス二世譲りの赤髪が逆立った。全身から殺気を発したネベンカルは、足元を爆発させたようにカエムワセトに飛びかかった。
だがその動きは勢いだけで大ぶりで荒く、カエムワセトにあっさりかわされる。その上、足をひっかけられて転倒したネベンカルは、左手首を後ろに取られてしまった。
「模擬戦でも感じたが、精神的揺さぶりに弱いな。直したほうがいい」
弟の右胸背部に座って体を抑えつけたカエムワセトは、同時に左腕を後ろに捻り上げながら冷静に弱点を指摘した。
左腕の痛みからか、それとも不抜けと嘲っていた兄に二度も敗れた悔しさからか、ネベンカルは悲痛な呻き語を漏らす。
「凄い。殿下が強い――あだっ!」
「明日は大嵐――ブッ!」
いつもの調子で危うく主の指揮官としての仕事を邪魔しかけた部下のおふざけを、ライラが高速二連続のひっぱたきで止めさせた。
カエムワセトはライラのファインプレーに内心で感謝しつつ、ネベンカルを床に抑えつけたまま、怯えた小動物のように壁際で固まっている弟たちに諭す。
「いい機会だから、お前たちにも言っておく。戦を前に不安な気持ちは分かる。だがこの作戦に捨て駒は存在しない。甘い考えに思う者もいるだろうが、私は出立した時と同じ顔ぶれで帰還できるよう力を尽くすつもりだ。戦果の為に命をかけろとは言わない。
ただし、この部隊では一人一人の働きと協力が互いの生存率を左右する事を決して忘れるな。我らの働きがなくとも、ファラオ軍にはダプールを落とす力はある。だがその時は、より多くの血が流れされるであろう事を肝に命じなければならない。いいか? 我々の働きが、死傷者を減らすんだ」
カエムワセトは最後の一文に、より力を込めた。強調されたその言葉が王子たちの怯えた心に届いた頃、王子たちは明るく生気に満ちた本来の姿を少しだけ取り戻した。
カエムワセトは弟達の僅かながらも前向きに転じ始めた変化に安堵すると、再び自分の下で床に這いつくばっている弟の後頭部に語りかける。
「次暴れたら箱詰めにしてエジプトに送り返す。覚えておけ」
静かな声で無茶苦茶な警告をしてきたカエムワセトに、そんな事ができるわけがないと鼻で笑ったネベンカルは、「口から出まかせ言うなよな」と余裕をかました。
カエムワセトは目を丸くすると「できるさ」と言った。
「その程度の魔力なら回復している」
この言葉で、ネベンカルはやっとカエムワセトの本気を悟り、黙りこんだ。
魔物戦で一度魔力を枯渇させたカエムワセトだったが、徐々にではあるが力を回復させている事を、ネベンカルはヘヌトミラーから聞き及んでいたのである。
やっと大人しくなった手のかかる六男に、カエムワセトは兄として、他者への礼儀も指導する事にする。
「それから品格を疑われたくなければ、今後はタ・ウィを軽んじる発言は控えるように。言っておくが、彼らはどのエジプト兵よりも戦歴豊富だ」
ネベンカルの小さな舌打ちが聞こえた。精いっぱいの反抗の中で見え隠れする承諾の意を感じ取ったカエムワセトは、返答を口で要求する代わりに、捻り上げている弟の左腕に軽く力を込めた。
いたたたた!とネベンカルが右手で床をバンバン叩く。
「わかったよ!分ったから放せ!」
やっと素直になってきたネベンカルにカエムワセトは微笑むと、左腕を解放して右肩から降りた。
いつもの柔和な笑みに戻り、壁際の弟たちに「お前達、風に当たっておいで」と優しく声をかける。
「船酔いしてるだろ。吐きたい時は我慢しない方がいい」
四人の弟たちはコクコク頷くと、急ぎ足で船室から出て行った。
「なるほどぉ。酔ってたから余計に顔が白かったんすね」
押し合うように船室からバタバタと出て行く四つの小さな背中に、カカルが笑った。
次の瞬間、膝立ちになっているカエムワセトの前でネベンカルが「うっ」と声を詰まらせる。そして彼も弟達の後を追うように、口を両手で抑えながら慌てて甲板に出て行った。
「あいつもかよ」
ジェトが呆れながらネベンカルを見送った。
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