第25話 魔術師の少女は現れない
兵站を積み終えたカエムワセト達は、終始膨れ面のネベンカルと顔色の優れない王子たちを最後に乗船させ、ペルシウムを出港した。
ナイル川を渡る船の上とは違い、潮の香りが混じる海風を受けながら、ゲリラ部隊を乗せた船は、港から大海へと船首を進める。
オルビアの指示に従って海軍兵士たちが甲板を忙しく行きかう中、カエムワセトは鳥籠を片手に船の縁に移動した。
籠を足元に置いて扉を開けると、中から一羽の猛禽類を両手で優しく掴み出し、そのまま縁から海へと放つ。
カエムワセトの手を離れたその鳥は、翼を力強くはばたかせて浮上し、雲一つない青空へ舞い上がった。
旋回上昇しながらマストの頂きの高さまで飛行するその様子を、カエムワセトは眩しそうに見上げた。そこに、ジェトが近づいて声をかける。
「サシバ、運動させるんすか?」
カエムワセトはジェトに振り返り、「ああ」と微笑み頷いた。
「ずっと鳥籠の中じゃ、体が鈍ると思って。あっちに着いたら仕事が待っているし、必要とあらば、王宮まで飛んでもらわないといけないしね」
伝書用に連れて来たサシバという名の鷹科の猛禽類を見上げたジェトは、「そっすね」と頷いた。ちなみにサシバ、とは属名であると同時にこの鳥の名でもある。サシバの両親がエジプト王家に献上された時、その呼び名の響きを気に入ったラムセス二世が、最初に生まれた雛につけたのがこの名であった。
「鷹にも渡り鳥っているんすね。知りませんでしたよ」
サシバが ”鷹の渡り” をする代表的な鳥である、とカエムワセトから聞いていたジェトは、サシバを目で追いながら感心したように言った。旋回しては滑空を繰り返すその様子は、まるで遊んでいるようである。
本当は寒い土地を好む種類のようだが、灼熱のエジプトでも元気で飛び回っている所を見るに、個体としては強いらしい。
「遠いアジアの国から輸入されてきた珍しい品種らしい。よく訓練されたあの子をくれた父上には、感謝をしないと」
『お前には結局、模擬戦で何にも褒美を贈れんかったからな。こいつをやるよ』
二日前。ファラオ軍に先立つ形で出立するカエムワセトに、ラムセス二世は籠に入ったサシバを手渡した。
『期待してるぜ息子。ダプールで会おう』
初陣をむかえる王子の生母や乳母、そして兄弟姉妹達が見送る中、愛鳥をゲリラ隊の指揮官を務める息子に譲り、肩を力強く叩いたラムセス二世は、最後に短い激励と贈るとすぐに城内に姿を消した。
自分とラムセス二世の様子を遠くから見ていたヘヌトミラーの視線が痛かったのは、カエムワセトは忘れられない。
「そういえば、父上から直接何かをもらうのは、これで二度目だよ」
カエムワセトは隣で自分と同じように手で日差しを遮断しながらサシバを仰ぎ見るジェトに話しかけた。
最初の贈りものはカエムワセトが五歳の頃。父の執務室で遊んでいた時に『ほれ。これに絵でも描いとけ』と渡されたパピルス紙である。
ジェトは「ふうん」と微妙な相槌で返すと、「でもあいつ、タ・ウィの猿と仲悪いみたいっすよ」と顔をしかめた。
道中、ジェトは何度かタ・ウィが連れている猿のキイとサシバが喧嘩しているのを目撃している。ちなみに、キイ、とは古代エジプト語で猿、の意味である。サシバに負けず劣らず、こちらもそのまんまの名前だった。
キイは今、猿使いの男と並んで、カエムワセト達がいる反対側の縁から仲良く身を乗り出して、おえおえゲロゲロやっている。どちらもさっそく船酔いしているようだ。
その一人と一匹の姿を見た兵士が、愉快げに笑いながら後ろを通り過ぎた。
「船酔いする猿って初めて見たわ」
呆れながら呟いたジェトに、カエムワセトは笑った。
「でもあの調子なら、暫く喧嘩の心配はしなくていいよ」
捻くれ者のジェトと違い、カエムワセトは往々にして物事を好意的に捉える傾向がある。
今まではそういった前向きな人種に反感を抱いていたジェトだったが、何故かカエムワセトの言う事には素直に同調できた。おそらくカエムワセトのそういったポジティブな言動の数々が、無理なく自然に出されているものだからだろう、とジェトは自分なりに分析している。
滑空してきたサシバがカエムワセトの肩に停まった。
まるであの時の隼の石像みたいだな、とジェトは魔物戦の夜を思い出す。
そしてジェトは、内心ずっと待ちわびていた少女の名を口にした。
「リラ、現れなかったすね」
魔物戦でカエムワセトの大きな助けとなった金髪碧眼の魔術師の少女は、結局姿を見せなかった。
ぽつりと寂しげに言ったジェトに、カエムワセトは再びサシバを空へ放ちながら、「リラが、何故?」と訊ねる。
「だって、前はわざわざ殿下を助けに来てくれたんでしょ?もしかしたら今回もひょっこり現れるんじゃないかと思って期待してたんですけどね」
戦争を目前にして、あの独特の浮遊感を持った小さな少女の存在がどれほど心強かったかを思い知らされているジェトは、素直に落胆を口にした。
カエムワセトは少しの間ジェトの物憂げな横顔を見つめていたが、やがて微笑すると「私もリラがここにいてくれたら、って思うよ」と共感した。「でも――」と続ける。
「魔術師はそもそも、人とのかかわりを嫌うんだ。だから国同士の戦争なんて絶対に絡んで来ない。前回は神々から警告もされていたし、リラにとっては特別サービスだったんじゃないかな」
魔術師の性格を初めて聞かされたジェトは、「ふうん」と曖昧な返事で返した。
「そんなもんすか」
案外ドライなんすね。という感想はあえて出さないでおく。
「それがいいんだよ」
カエムワセトはあえて強調した。
「一度前例を作ったら、きっと国々がこぞって兵器として魔術師を手に入れたがる。そんなこと、あってはならないから」
確かにあれは人間兵器と呼んで相応しい、とジェトは思った。兵士の集団を一瞬で池から池へと輸送し、巨大な石像を手を触れずに動かし、瀕死の傷を負った人間を復活させる。どれもこれも、普通の人間には真似できない業である。
「今お互い会えば、リラだって私達を無視できないだろう?だから彼女には、平和な時に会えるだけでいいんだよ」
「そっすね」
何となく、カエムワセトの言葉にも自分自身に言い聞かせているような響きを感じながら、ジェトは同意した。
「んじゃ俺、下で荷ほどきしてきますわ」
気持ちを切り替えるつもりで明るい声を出し、ジェトは主にひらりと手を振って背中を向けた。
だがすぐに、「ジェト。実は――」とカエムワセトに呼び止められる。
「ん?なんすか?」
振り返ったジェトに、カエムワセトは戸惑いながら「実は、その――」と、もごもご言いかけたものの、諦めたようにため息をついて口を閉じた。
「いや。なんでもない」
そう言って、首を横に振る。
「私もサシバの運動を終えたら、すぐに下へ行くよ」
いつもより少しぎこちない笑顔のカエムワセトに、ジェトは訝しく思いながらも「はい。それじゃあ、後で」と軽く礼をして船内に入った。
ジェトを見送ったカエムワセトは、その後ろ姿が船内に消えた途端、努力的に浮かべていた笑顔を消した。
ジェトに打ち明けようとしていた事。
兄のラメセスがぺル・ラムセスに帰還する少し前から、カエムワセトは毎晩のように悪夢にうなされていた。
その夢は先の魔物戦に加えて様々な戦場のシーンがごちゃ混ぜになったもので、時期と場所は殆ど特定できない。ただ気になるのは、山にそびえ立つ頑強な岩壁に守られた都市が見えた点である。そして何故か、リラと思える少女の姿も混乱した夢の中に掠めるように現れるのだ。加えて、全身に感じる、叩き斬られる様な痛み。この痛みだけは、毎回妙にリアルに感じられた。両腕。両肩。背中に腹。思い出すたびに寒気すら感じる。
「ただの夢であればいいんだが」
暗い表情で呟いた。
これまでカエムワセトは、正夢というものは体験した事が無い。だから、余計に言いだせなかった。ただでさえ戦争を目前に皆がナーバスになっているというのに、ここで不用意に打ち明けても無駄に不安を煽るだけである。
「サシバ!」
一度運動を終わらせようと、カエムワセトはショールの裾を左前腕に巻いて頭上に掲げた。
新しい主の呼び声に応えて、雌の鷹が滑空してきた。
翼をばたつかせながら前腕に停まったサシバを「よしよし」と迎えると、カエムワセトは腕を下ろして艶のある羽が重なり合う喉元を人差し指で撫でた。「一度中へ入ろうか」と鳥籠に戻り、その扉を開けた。
その時、ジェトが入って行った船体の奥から叫び声が聞こえた。
ジェトでもカカルでもない、声変り途中だと思える少年のものである。
その声からは、「来るな!」「どけ!」と誰かから必死に逃げ回っている様子が伺えた。
「ネベンカル?」
カエムワセトは、戦車模擬戦で聞いた事のあるややヒステリックな叫び声を思い出す。そして、叫び声の内容から船内で何が起きているか悟ったカエムワセトは、急いでサシバを鳥籠に戻すと籠を揺らし過ぎないよう注意しながら、船内に走った。
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