第22話 ファラオは反面教師
会議室に入室したラメセスを、皇太子のアメンヘルケプシェフが「おはよう」と迎えた。
ファラオが着席する玉座を中心にして円を描くように設置された椅子の列の一つに、アメンヘルケプシェフはただ一人座っている。
自分が一番だろうと思っていたエジプトの最高司令官は、朝に弱いはずの第一王子がまさか先に着席しているとは思わず、内心驚いた。
しかし、すぐに一つの可能性に思い至ったラメセスは、異母兄の白目の僅かな充血に気付く。
「眠れなかったのか?」
「お前は眠れたのか?」
質問に質問で返してきたアメンヘルケプシェフに、ラメセスは「いや」と短く答えると隣の席にどかりと座った。
そして、これから議題に登るであろうエジプトの北と西について思いをはせる。
不穏な動きがみられているダプールはシリア・パレスチナの一角にあり、シリア・パレスチナはエジプトとヒッタイトの領の中間に位置する交易の核である。
現在、エジプトとヒッタイトはカデシュ近郊を境に国土を分けている状態だ。そしてカデシュの東にはアッシリアが広がっている。
ヒッタイトのダプール侵攻をこのまま許せば、ヒッタイトが軍備を固めて更に南下してくる恐れもある。
だが西のリビア遊牧民に追従しているという魔術師の存在も気になる。もし魔術師が前線に出れば、予想以上に厳しい戦況となるだろう。
北も西も、力を集結させて一気にカタを付けたいところではあるが、一方に軍力を集中させれば、片方は手薄となって確実に叩かれる。やはりここは、父王の言うとおり軍を二分するしかないのだろうか。
昨夜もそんな事を暗い天井を見ながら悶々と考えていたら、いつの間にかラメセスの横顔に朝陽が当たっていたのだった。
今日の軍議の出席者はまだそれほど多くないはずだ。軍を統括する自分と出陣可能な年齢に達した王子達。そこに加えて宰相、といったところだろうか。
本格的に出兵が決まれば、ここに他の執政官や各師団の司令官や副官が加わる。
陽はとっくに昇っている。どいつもこいつもさっさと集まれ。
はやる気持ちを押し出すように鼻から大きく息を吐いたラメセスは、何気なく隣のアメンヘルケプシェフの前に置かれている小ぶりのテーブルに目をやった。
そこに置かれている朝食らしき物を見て「ガキかお前」と無表情に辛辣なコメントをする。
テーブルの上には、片手に乗るくらいの椀が二つあり、一つには乾燥させたデーツが。もう一つはミルクで満たされていた。
甘い味わいのこの二つは、エジプトの子供達の好物でもある。
「これが一番、元気が出るもんでね」
子供っぽい嗜好を指摘された23歳のアメンヘルケプシェフは恥ずかしそうに笑って、デーツの椀を弟の方へ少しずらした。
「お前もどうだ」
勧められ、朝食をまだ食べていなかったラメセスはデーツを一つ摘まんで噛った。
「美味いだろ。バビロニア産の干しナツメだそうだ」
またバビロニアか。
昨夜ラムセス二世と飲んだ高級ワインもバビロニア産だった事を思い出し、ラメセスはデーツを咀嚼しながら顔をしかめた。
昨夜のセネト板を真ん中に向かい合ったラムセス二世との会話が想起される。
「カエムワセトはダプールへやるそうだ。リビアはお前と俺で対処せよと」
残りのデーツを口に入れるとラメセスは、ともすれば独り言にきこえるようなぼそぼそとした声で、父の決定事項を兄に告げた。
ラメセス同様、カエムワセトはリビアへ出兵するだろうと予想していたアメンヘルケプシェフは半信半疑で訊き返す。
「魔術師がいるかもしれないのにか?」
「魔術師がいるかもしれないから、だそうだ」
アメンヘルケプシェフは、「なるほど」とため息交じりに言って脚を組んだ。
対抗勢力の充実よりも、将の戦意喪失による戦力低下のリスク回避を選んだということか。と、毎日ラムセス二世の傍で執政を学ぶ皇太子は、ファラオの思考を容易に想像できた。
しかしながら、兄弟一魔術に詳しいカエムワセトを頼れないとなると、それはそれで困った事である。
「俺は魔術には疎いぞ」
「俺もだ」
お互い苦手分野が同じの将は、二人仲良く眉間に手を当てて唸った。
とりあえず――
ラメセスが言う。
「対抗処置としてどの程度効果があるか分らんが、腕のいい神官を集めてくれ」
「やってはみるが。本当に相手方に魔術師がいるなら、焼け石に水だぞ」
「居ないよりはマシだろう」
ラメセスが入手した情報では、砂嵐が隊を避けるように移動し、枯れてしまっていたオアシスの水源が蘇り隊の渇きを癒すなど、不可思議なほどに自然現象がリビア側の隊に味方して見えたのだという。自然を故意に操ったとしか説明できないそれらの様子は、魔術師の存在を疑うには十分だったそうだ。
もし魔術師が戦争に加担した場合、その戦力は一個師団にも匹敵するといわれている。神官が何人そろった所で、防御すら難しいだろう。
唯一対抗できそうな高い魔力を持つカエムワセトをダプールにやるのは、本当に正解なのだろうか。
悩む皇太子と最高司令は再び、二人仲良く大きくため息をついた。
「おはようさん。早いなお前ら」
溌剌とした挨拶とともに、息子達を悩ませている元凶が入室してきた。だが、その頭部には昨日までと異なり湿布と包帯が巻かれている。
「その頭はどうされました」
驚いたアメンヘルケプシェフが訊ねた。
「ヘヌトミラーにワイン壺で殴られたんだよ」
ラムセス二世の解答に、「叔母上が?何故」とアメンヘルケプシェフは首を傾げたが、ヘヌトミラーとの対話をふっかけたラメセスは、何が起きたのか大体想像ができた。
「勿体ない。高い酒なのに」
睡眠を妨害された息子は意趣返しとして、あえて薄情に酒の心配をした。そして、昨晩の父王とのやりとりをアメンヘルケプシェフに簡単に説明する。
説明を受けたアメンヘルケプシェフは、「それでは叔母上も寝不足だな。お気の毒に」と安眠を妨害されたヘヌトミラーに心底同情した。
「俺の頭の心配をしろよ!」
大声を出した途端、ラムセス二世が「いてて」と側頭部に手を当てて息子二人の前でうずくまる。
目の前で痛々しい姿を見せられた息子二人は、夫婦喧嘩の末に名誉の負傷を負った父を心配するどころか冷ややかな視線をぶつけた。
「どうせあんたが無神経な事言って怒らせたんでしょうが」
「どうせ瘤ができた程度でしょう。剣で刺されなかっただけマシだと私は思いますがね」
自分に差し伸べるべき腕を組んで、椅子にふんぞり返りながら、どうせ・どうせと冷たい対応しかしてこない息子二人に、ラムセス二世は情けない声を出す。
「ヘヌトミラーってば、怖いわぁ。痛いわぁ。もうやだ。俺、女性不信になっちゃう」
「なら側室全員実家に送り返しますか」
まるで興味なさげにミルクを口にしながらアメンヘルケプシェフが言った。
「やだよ俺の宝もんだもん」
子供じみた口調でラムセス二世が断固拒否の意を示す。
到底まともに相手にする気になれず、ラメセスとアメンヘルケプシェフは「「もう結構です」」とこれ以上の会話を拒絶した。
次に会議室に現れた宰相は、この時の三人の様子を振り返りこう述べたという。
『あの時の御三方を包む空気は、とてもじゃないがこれから軍議を始めようか、という風には見えないくらい弛みきっていた』
と。
この日宰相が目にした親子漫才の様子は、ラムセス2世立っての希望で『ファラオはその身に宿る絶大な影響力をもって、眠れぬほどに神経を高ぶらせて悩む将達の気持ちを見事解きほぐし、軍議を成功に導いた』というファラオ・ラムセス2世に都合のよい逸話として、長く語り継がれるのだった。
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