第20話 翌朝。ヘヌトミラーの独り言
昨晩、夫が数か月ぶりに、寝所に姿を現した。
ファラオ自らお越しとは御苦労様だこと、と皮肉ってやろうと思っていたら、ワイン壺と杯を持って『月見酒でもどうだ』とのたまう。
彼の手にある杯は全体的に濡れており、洗ったばかりであることが伺えた。先に、誰かと一杯やって来たのだ、とすぐに分った。
こういう時、無駄に詮索しない方が精神衛生上良いことは、ラムセスの妃となって一番初めに学んだ処世術かもしれない。
まったくあの男。エジプト中の美女を妾にする気かしら。
酒を美味いと思った事はない。けれど、夫と二人の時間を過ごせるのなら、と杯を受け取った。
結局あれから一睡もできなかった。
月見酒は夫婦の溝を埋めるどころか、大喧嘩で終わった。喧嘩というよりは、一方的に私が夫を責め立てただけだったけれど。
今でも、腹が立って仕方がない。
窓から差し込んでくる朝陽が目にちかちかする。
鏡に映る自分の顔は、いつもより十歳くらい老け込んで見える。
透明感のある赤銅色の肌は自慢なのに、今日はとてもくすんでいるし、兄妹の証でもある夫と同じ赤髪には艶が無い。瑪瑙の様な明るい茶色の瞳は、白目が充血しているせいで鮮やかさに欠ける。
心身ともに疲れているせいだ。
夫のせいだ。
「あの大うそつき」
私だけを妻にすると言ったのに。
「裏切り者」
二人でエジプトを守り、栄えさせ、私達の子を次のファラオとして立派に育て上げようと約束したのに。
自分達の子はきっと歴史上最も偉大な王になるだろう、とかつてのラムセスは言った。
そうよ。ネベンカルは素晴らしい子だわ。賢く強く勇ましく、ラムセスに生き映しの自慢の息子。偉大な王となる素質は十分に持っている。
軟弱なアメンヘルケプシェフよりも、事なかれ主義のカエムワセトよりも、男色家のラメセスよりも、ラメセスについてゆくしか脳のないモントゥヘルケプシェフよりも、ネベンカルが最も皇太子にふさわしい。エジプトの未来の為にも、我が子が王位を継ぐべきだ。
「なのに、あの男」
ネフェルタリとイシスネフェルトを連れて来たあの日はけして忘れない。生まれたばかりの第一皇子を愛おしそうに腕に抱いていたあの顔は、忘れたくても忘れられない。
『まあ、戦争から無事帰ってきたら、二人目でもこさえようや』
昨夜は私の気も知らないで、よくもぬけぬけと。
二枚舌め。ダプールで死んでしまえ。
ラムセスの死は、ネベンカルを皇太子に上げる最大のチャンスだ。
――いいえ。やっぱり生きて帰ってきて。
ラムセスが死ねば、私もきっと生きてはゆけない。
憎悪と愛情。どちらも自分の思いだというのに、相反する二つの感情に圧し潰されそうになる。
ただ憎いばかりなのはカエムワセトだ。へらへらと微笑みを浮かべているだけの、優しいだけが取り得の王子が。ほんのちょっと聡いというだけなのに、ラムセスの信用と信頼を一身に受け、愛されている。私はこんなにも祖国の事を考え、裏切られてもラムセスへの献身を忘れないというのに。その褒美が、愛情と憎悪に身を焼かれるこの毎日か。
昨夜カエムワセトはまた、忠臣を増やしたようだ。
癒しの力を使うヌビアの踊り子。テティーシェリ、といったか。
アーデスにしてもライラにしても、なぜ素晴らしい人材ばかりが、あの子の元に集まるのだろう。
テティーシェリを手に入れ損ねたネベンカルは模擬戦に負けた時よりも悔しそうだった。
チャンスがあればアーデスとライラを手に入れるようネベンカルに教えたのは私だ。あの献身的な二人の支えがあれば、きっとネベンカルは賢者どころかファラオにだってなれる。
ラムセスの関心を引いてやまない、特別な王子になるに違いない。
皇太子への期待。カエムワセトへの信頼と愛情。本当なら、これらは全て私とネベンカルのものになるはずだった。
正妃、側室、子供達。全部この手で消し去っても、私が望むものはもう手に入らないという事は、承知している。それが、祖国の為にはならぬということも。だから、私は耐えてみせる。
けれどネベンカルだけは。息子は、唯一ラムセスが私に果たした約束だ。あの才気を、無駄にはさせない。
『次のファラオは兄上ですよ。ネベンカルは六番目だから、兄上を助ける人にならなくちゃ』
純真無垢な瞳で私に説いてきた幼いカエムワセト。
あれが、私があの子を憎むきっかけとなったのは間違いない。幼子相手に大人げなかったとは思う。けれど、湧きあがるこの黒い気持ちが暴れるのを、私はどうにもできない。
そうよ。今は、王位継承は年功序列だわ。だけどきっと、変えてみせる。
邪魔をするなら、甥であろうと容赦しない。
女官が来た。体が重いけれど身支度をしなければ。
今日は、ラムセスが朝一番で王子たちを招集して軍議を開くと言っていた。戦争が始まる。早くネベンカルの所へ行って、緊張をほぐしてあげたい。
ラムセスの左側頭部は大丈夫かしら。
昨夜は、あまりにも腹が立ったから、ついワイン壺でラムセスの頭を殴ってしまった。
壺は派手に割れたから、ワインがそこら中に飛び散って。夜中だというのに、女官には無駄な仕事をさせてしまった。
あれには、流石の夫も足をふらつかせていたわね。
「ちょっとやりすぎたかしら……」
悪かった、とは思わないけれど。
まだあの時の衝撃が、手に残っているみたい。
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