第19話 ラムセスとラメセス

 ぺル・ラムセスの自室で眠るのは本当に久しぶりだった。

 すっきりと片付いた塵一つない部屋に、清潔な掛け布団がかけられた寝床。女官が気を利かせたのか、テーブルにはロータスが生けられている。


 ぺル・ラムセスの女官の変わらない有能ぶりを感じながら、第二王子ラメセスはランプの灯を消し、月明かりのみとなった室内で薄い掛け布団をめくった。

 先程、弟と部下からテティーシェリの転職を滞りなく終えたとの報告を受け、仕事を一つ終えた心地でベッドに入る。

 大きく深呼吸し、暗い天井を眺めた。仕事は一つ終えたが、最も大きな仕事がまだ残っている。これからの事を考えると落ち着かず、頭が冴えて眠れなかった。

 

 体は疲れているし酒もたらふく飲んだのだから眠れるはずだと自分に言い聞かせ目を閉じる。その時、廊下で何者かが動く気配がした。

 女官でもなく部下でもない。何者かが忍び寄る気配である。


 音をたてず身を起こしたラメセスは、ベッド脇に置いていた剣を手に取ると、抜剣の音を立てないようゆっくりと鞘から剣を引き抜いた。素早い動作で寝台から下りる。


 相手の気配を伺いながら、一歩また一歩と出入口に足を運ぶ。

 壁に背中をつけた。自分の気配を悟られまいと息を殺す。

 相手も壁の反対側にいるのは、はっきりと感じていた。ここから先は先手必勝だと判断したラメセスは、素早い動作で廊下側に回ると、そこにいた人物の胸部を壁に押さえ付け、剣の切っ先を首筋に付きつける。

 

 何者だ、と尋問を始めようとしたその時


「あ~あ、ちょっと零れちまった。高けえんだぞこれ」


 気の抜けた男の声と共に、見慣れた顔が暗闇に浮かびあがった。


「父上!」


 ラメセスが刺客と勘違いした男は、上下エジプトのファラオ、ラムセス二世であった。ファラオの象徴である王冠も頭巾も被っていないラムセス二世は、ライラやネベンカルと同じ柔らかな赤毛をさらして、息子に「よお」と少年の様な快活な笑みを見せてくる。


 ラメセスは安堵と共に脱力し、剣を下ろした。


「どうせ眠れねえんだろうと思ってさ。飲み直そうぜ」


 小ぶりのワイン壺を右腕に抱えたラムセス二世は、左手に持った杯で壺をコンコンと叩くと、さっさと息子の部屋に入って行った。

 図星だった息子は、父王の背中に抗議する。


「気配を消して近づかんで下さい」


「試してやったんだよ、大元帥」


 テーブルにワイン壺と杯を置いたラムセス二世は、軍の最高位にある息子に振り返りそう言うと、にやりと悪質な笑みに顔を歪めた。


 父王の変わらない悪戯大好きぶりに、大きな息子は嘆息する。


「灯はもう落としましたが」


 帰れ、という遠回しな意思表示である。しかし、空気を読む気が全くない父王は、どこまでもマイペースであった。


「月明かりで十分だろ。お前そっち持てよ」


 月明かりが届く窓際にテーブルを運びたいらしく、反対側をラメセスに支えろと命じて来た。


 これ以上の主張は無駄だと判断したラメセスは、剣を寝台に置くと、「少しだけならお付き合いします」と言って、父王に向き合う形でテーブルを持ち上げた。上のワイン壺が倒れないよう、ゆっくりと窓際に移動した男二人は、小さなテーブルを挟んで、窓際の段差に腰を落ち着かせる。


「こいつはバビロニア産の最高級だぜ。悪酔いも冷めるくらい良い酒だ」


「迎え酒はまだ必要ありませんが」


 ご機嫌で杯にワインを注いで渡して来たラムセス二世に、ラメセスは冗談のつもりで返した。だが、ラムセス二世は息子の茶目っ気に気付かず、鼻歌を歌いながら今度は自分の分の杯にワインを注ぎはじめる。

 父王からユーモアのセンスを受け継がなかった冗談下手の息子は、言わなければよかった、と無表情の下で激しく後悔しつつ酒を口に運ぶ。


 口に含んだワインは、ガツンとくる強さを持ちながらも、雑味が少ない上物だった。


「潔い味です」


 ラメセスは気を利かして褒めた。

 しかし、またもやラムセス二世は「『美味い』でいいんだよ、酒なんか」と無粋な返事をしてくる。


 もう眠りたい。


 ラメセスは雲一つない夜空に浮かぶ三日月を見上げて、弱々しいため息をついた。


「まあそう嫌がんなよ。一年ぶりの再会だろうが」


 ラムセス二世は、どんどんしかめ面になってゆく息子を、苦笑いで宥めた。


 嫌がられている自覚を持てるくらいの繊細さは持ち合わせていたのか、とラメセスは父王をほんの少し見直す。


「あの蛇女からよく逃げられましたね、父上」


 ファラオの側室の一人であり実姉でもあるビントアナトを蛇女呼ばわりした息子を、ラムセス二世は咎めなかった。それどころか、まさしく蛇のようにまとわりつきながら寝所までくっついてきたビントアナトから逃げて、息子と杯を交わす為に自分がしてきた努力という名の悪行をほのめかす。


「うんまあ、ちょちょっと酒にスパイスをだな」


 ちょちょっと酒に薬を盛ったのか。


 夫としてはあるまじき所業で側室から逃げて来た最低な男を前に、ラメセスは黙った。

 息子の沈黙を非難と正しく受け取ったラムセス二世は、慌てて自己弁護する。


「いつもやってるわけじゃねえぞ。心底困った時だけだ」


 常習犯がよく使う台詞を聞きながら、ラメセスは「そうですか」とだけ返した。


「あのパシェドゥとかいうやつ、いいの持ってるじゃねえか。また注文しといてくれや」


 やはり常習犯だったラムセス二世は、息子の忍から褒美と交換するように手渡された一袋分の志を、心から喜んでいる様子である。

 呆れかえったラメセスは、「あの睡眠薬は強いので一回ひと匙で十分です。常用はなさらぬよう」と一応の忠告をしておく。


「へいへい」


 ラムセス二世は、守る気がなさげな返事をすると、杯をテーブルに置いて立ち上がった。部屋の隅にある衣裳箱を勝手に開けて、中身を探りはじめる。


「何なさってるんです」


 息子は怪訝な顔で訊ねた。

 箱の中から目当てのものを見つけたラムセス二世は、「あー、あったあったわ」と声を弾ませると、象牙でできた長方形の箱を取り出す。


「久しぶりにセネトでもどうだ。息子よ」


 セネト盤を抱えて酒の席に戻ってきたラムセス二世は、ワイン壺をテーブル下に移動させて、代わりにゲーム版をテーブルの真ん中に乗せた。

 ラメセスは再び呆れる。


「あんた俺が八歳の時から勝てた試しないでしょうが」


 ちなみに、カエムワセトには五歳から負けっぱなしだったと記憶している。


 軍の指揮を務めなければならないこのファラオ。実は、戦略といったものには、てんで弱かった。

 ラムセス二世が、エジプト軍に当時は珍しい師団編成という形を取らせ、そのトップに司令官を置いたのには、彼のこういった弱点を補う目的もあるはずだ、とラムセス二世に近しい者たちは揃って口にする。


「いいだろうが別に。セネトは勝ち負けじゃねえよ」


「セネトは勝ち負けです」


 ラメセスが、にべもなく返した。しかしそんな事ではめげないラメセス二世は、にやにやしながらセネト台の引き出しを開け、駒と投げ棒を取りだす。


「お前糸巻き型の方な」


 と、円錐の駒を集めて並べはじめる。


 諦めたラメセスは、空いた升に糸巻き型の駒を置いた。


「それで、どうだ? テーベの生活は」


 ラムセス二世が投げ棒を転がし、駒を一つ動かす。


「既にアメンヘルケプシェフからお聞きになったのでは? 詳細を知りたい事があるのでしたら単刀直入にどうぞ」


 続いてラメセスが投げ棒を投げ、駒を二つ移動させた。


 ラムセス二世も二マス動かす。


「お前の朴念仁ぶりは変わんねえな。恋人は不満を持っちゃいねえのか?」


 やはりその話だったか。


 ラメセスがワインを飲みながら、どちらかといえば父親似の涼しげな目をスッと細くした。


「父上はどちらか聞かないんですか?」


 杯を置いて、投げ棒を投げて駒を動かす。


 ラムセス二世の戦友である傭兵アーデスは、不躾なほど間髪入れず性別を訊いてきたが。父もアーデスもお互い正反対の性格を主張しているが、結局二人は同類だと感じている息子のラメセスは、父王も同じ質問をしてくるのではないかと予想していた。


「お前が決めた相手ならどっちでも俺は構わんさ」


「ほお」


 予想外の返答に、ラメセスは目を丸くする。

 だが、しばらく沈黙が続くと、ラムセス二世は結局我慢ができなくなったようで――


「で、結局どっちなんだ? 女か? 男か?」


 わくわくしながら訊いてきた。


 この男が格好を付けきれないのは、今も昔も変わらない。

 ラメセスはため息をつくと


「男です。申し訳ありません」


 小さく答えた。

 ラムセス二世が「なんで謝んだよ」と眉根に皺を寄せる。


「よかったじゃねえか。想い合える奴に出会えて」


 温かみのある声色で、「安心したわ」と付け加える。


「お前にはずっと謝罪せにゃならんと思っていたんだ。最高司令官のお前をテーベにやるのは苦肉の策だった。肩身の狭い思いをさせてしまったな」


 非難も揶揄も含まない父からの言葉の温かさ。ラメセスは思わず声を詰まらせた。そしてカエムワセトによく似た柔らかい微笑みを浮かべたラメセスは、父王の采配に礼を言う。


「俺には有難いご配慮でしたよ。お陰で頭を冷やせました」


 あのままぺル・ラムセスに居ても、男色の王子だの子孫を残せぬだのと後ろ指をさされるだけであっただろう。そして、自分とあらぬ噂を立てられた事で迷惑を被った皇太子とは、お互い顔色を伺いながら過ごす苦しい日々を送っていたかもしれない。

 確かにテーベへの移動は左旋当然だったが、ラメセスには新天地で己の地位を立てなおすチャンスでもあったのだ。


「感謝しています」と、ラメセスは自分の駒と父王の駒の位置を入れ替えながら礼を述べた。


 二つ並んだラメセスの駒を見たラムセス二世が「あ」と悔しげな声を上げる。セネトには二個以上並列する相手の駒が居るマスには入れないルールがあった。


「で、お前はふっきれたんだな」


 難しい顔でセネト版を眺めながら、ラムセス二世が確認してきた。

 投げ棒が投げられ、山型の駒が一マス進む。


「アメンヘルケプシェフは再会を喜んでくれました。あいつは、昔も今も良い奴ですよ」


 何年かぶりに皇太子と面と向かって会話をしたラメセスは、昔から少しも変わっていなかったアメンヘルケプシェフの繊細で優しげな笑顔を思い出し、微笑した。

 ラメセスもまた駒を動かす。再び、糸巻き型の駒が並列した。


 狭いボード上では、ゴールに到達するまでもなく早くも勝負がみえてきた。


「そうか。そいつはよかった」


 だが、ラムセス二世は往生際悪くまだ駒を進めようと、投げ棒を投げる。


「それじゃあ、軍の編成はこれで決まったな」


 駒を進めながら何気ない調子で言ったラムセス二世の台詞を聞いて、ラメセスは一驚を喫する。


「もう偵察隊が帰って来たんですか?」


 ラムセス二世は「まだだ」と答えた。


「だが、ダプールが寝返ったのは本当だろう。あそこは前々からきな臭かった」


 ラメセスが各所に放っている密偵から、属国であるダプールの不穏な動きの知らせを受けたのが、三日前。報告はぺル・ラムセスに報告せよと命じて偵察部隊を送り、自分もすぐに船を出した。

 テーベからダプールまでは、片道少なくとも十日はかかる道のりである。ダプールにはエジプトの駐屯隊も居るはずだが、そちらからの報告は無い。


「駐屯隊が攻撃を受けた可能性も否定できん」


 ラムセス二世はそう言うと、「あのクソ執政め」とダプールの長を担う執政官を罵った。


「リビア遊牧民についての報告は? そっちはそろそろ戻る頃かと」


 ダプールからの情報と同時期に、リビア砂漠の遊牧民にも妖しい動きがみられるとの報告を受けていたラメセスは、そちらにも偵察隊を送っていた。


「帰ってこねえ。多分やられたな」


 状況は、不運な事に挟み打ちである。ファラオと最高司令官はボードゲーム台を真ん中にして、難しい顔で黙りこんだ。


「……あんたは一刻も早く優秀な軍師を傍に置くことですよ」


 ゲーム版を見ながら、ラメセスがぽつりと言う。


「たかがボードゲームじゃねえか」


「たかがボードゲームでこのザマだから言ってるんです」


 ラメセスはじろりと父王を睨んだ。

 目の前のボードゲームは、既に勝負がついている。だがこの父王は、それでも諦めず喰いつこうとしていた。八年前のカデシュの戦いでは、その諦めの悪さが功を奏したが、引き際というのは戦場において先読みと共に誤れない重要事項である。


「はいはい。耳に痛いこってすね」


 施政では賢帝と称えられている一方、戦場では安直な戦術で将の頭を悩ますファラオは、膨れ面で頬杖をつくと「お前の勝ちだ」とゲーム終了を告げた。


「とにかく、俺はカエムワセトとダプールへ行く。お前とアメンヘルケプシェフには砂漠の民の鎮圧を命じることにしたから宜しくな」


 ワインを口に運びながら、各々の出兵先をラムセス二世が告げた。

 

 ラメセスは目を見開いて確認する。


「カエムワセトはリビアへやらんつもりですか?」


「ああ」


「では、相手方に魔術師がいるかもしれぬという情報も与えんおつもりで?」


 ラメセスの口調には、批判的な響きが帯びている。

 ラムセス二世は杯を置くと、腕を組んで背中から壁にもたれた。


「今日の甘っちょろい戦いぶりを見ただろうが。同類がいるからと戦意を喪失されては困るんでな」


 今日の戦車模擬戦は、カエムワセトにとってのテストでもあった。もしカエムワセトがラムセス二世にとって信頼に足る戦いぶりをみせていたら、出兵先はリビアになっていたのである。だが、第四王子はそのテストに落ちた。

 相手方に魔術を使う人間がいると聞いていたラメセスは、暫く考えこむと、十分有り得る可能性を口にする。


「もし相手の魔術師が、弟の知り合いである場合は?」


 ラメセスは今日、カエムワセトに魔術師の少女の知り合いが居る旨を、皇太子から聞かされていた。その少女は、父王のお気に入りである、とも言っていたが。


「変わらん。必要とあらば殺せ」


 国軍を統べる王者の顔で、ラムセス二世が無情な命令を下す。だが、軍人であるラメセスにとっては、予想通りの回答でもあった。


「国王は辛いですな」


「それが俺の役目だ」


 仕方なかろうが。


 そう言ったファラオの声には、覚悟と憂いが存在していた。


「明日の朝一番で勅令を出す。準備しておけ」


「御意」


 杯に残ったワインをぐいと飲み干すと、ラムセス二世は立ち上がった。真夜中に酒とボードゲームに付き合わされた息子は、やっと退室してくれるようだ、と安堵する。

 だが、あることをふと思い出したラメセスは「ところで父上」と去りかけた父王を呼びとめた。


「叔母上と一度話をされては如何ですか」


 気難しい正妃ヘヌトミラーとの対話を勧める。


 扱い辛い実妹を話題に出されたラムセス二世は、立ち止まって口角を引きつらせた。その顔は、『今その話題はよしてくれ』という必死の懇願が滲み出ている。

 だが、最高司令の任を預かる息子は、今後の為にも厳しい対応で要求する事にした。


「父上のご期待通り、ネベンカルは弟が何とかするでしょう。ですが、夫婦の問題は夫婦で決着をつけてください」


「分ったよ。じゃあ明日――」

 

 諦めたようにラムセス二世が言いかけた所で、立派な大人に成長した次男は「いいえ」と被せる。続いて、父が持ち込んだ高級ワインと杯二つを差し出したラメセスは、強気な姿勢で「今すぐどうぞ」と強制した。

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