第12話 男色家ラメセス最高司令の憂い
それは十四年前。ヘヌトミラーがネベンカルを出産した時のことである。カエムワセトは兄達に連れられ、祝いに行った。
腕いっぱいの
『ありがとう。ロータスは大好きなのよ』
わざわざ乳母に赤ん坊を預け、両手で花束を受け取ってくれた彼女はとても幸せそうに微笑んでいたと、カエムワセトは記憶している。
そう。この時までは、ヘヌトミラーもカエムワセトに好意的だったのだ。
問題はここからである。
『父上の様な、立派な王になるのですよ』
乳母に花束を託し、ネベンカルを再び腕に抱いたヘヌトミラーは赤ん坊の頭にあるラムセス譲りの赤毛をそっと指で撫でながら、あやすような口調で言った。
そこで、叔母の発言を不思議に思ったカエムワセトはつい口にしてしまったのである。
『なれませんよ。次のファラオは兄上だもん』
と。そして
『ネベンカルは六番目だから、兄上を助ける人になるんだよ』
追い打ちをかけた。
その時から、ヘヌトミラーのカエムワセトに対する態度はあからさまに変わったのである。
★
『あーあ』という残念な空気とともに、大きなため息がそこら中から落ちた。
「すまない。私も幼かったんだ」
かつての自分の大失敗を、カエムワセトは悔やんだ。
「まぁ、間違った事は言っとらんがな」
でかいため息をついたうちの一人であるアーデスは、幼い頃の主を擁護した。
そうだ。間違った発言はしていない。相手が悪かっただけである。
「その時殿下は四歳だったんでしょ? ヘヌトミラー様も許してあげればいいのに」
カカルが至極まともな意見を言った。
確かに、四歳の子供の発言なら、戯言と笑い飛ばしてもよかっただろう。カエムワセトも出来る事なら叔母にはただの子供の生意気として処理してほしいところである。だが、ヘヌトミラーの溜飲は過去から現在まで、下がるどころか膨れ上がる一方なのだ。
感情的な人ではあるが、ヘヌトミラーの祖国を愛しラムセスを想う気持ちに偽りはないはずだと、カエムワセトは思っている。何がそれほどに彼女の心の余裕を失わせ、怒らせ駆り立てるのか。カエムワセトには分らない。
「とにかく、父上がネベンカルから叔母上を引き離したがっているというのは理解したよ」
今回の模擬戦で、父王が自分に褒美の答えとして期待していたのがこれだった。
ネベンカルは母親であるヘヌトミラーの影響を多大に受けている。
子供が親の影響を受けるのは当然のことだ。しかし、ヘヌトミラーとネベンカルの繋がりは強すぎた。ネベンカルは母に従い、期待に応える事ばかりに固執している。物事を己の目で見て判断しようとする意志がないのだ。
「彼はただ、盲目的に叔母上を信じているだけだと思っていたんだが……」
母親から散々兄の悪口を聞かされる日々の中で、カエムワセトに嫌悪を抱くなら理解できる。だがあの殺意は一体何故なのか。殺意を抱かれる理由が分らない。故にカエムワセトは対処に困っているのである。
「いやあれは正真正銘ただの
殺意さえ母親の思うがままになっているほど、筋金入りというだけだ。
この場に居ないのをいいことに、遠慮なく王子をこき下ろすアーデスに、カエムワセトは苦笑いを向ける。
「何かに盲目的になる気持ちは私にも分るよ」
控えめに、マザコン扱いされた弟の肩を持つ。
かつてカエムワセトも、自分の命と引き換えに死んでしまった兄を生き返らせようと躍起になっていた時期があった。王宮や神殿のありとあらゆる書物を読み漁り、死者復活の方法を模索した。その望みが叶う『トトの書』の存在を知った時には、何としてでも手に入れようと何年もかけて探索をした。当時の自分には兄の復活が全てで、自分の成すべき事はそれしかないと信じて疑っていなかったのである。
今のネベンカルもきっと、当時の自分と同じなのだろう、とカエムワセトは思う。
「目を覚ますには、誰かの助けが必要なんだ」
カエムワセトの目を覚まさせてくれたのは、旅先で出会ったリラという魔術師の少女であり、危険な旅を厭わず自分に付いてきてくれたアーデスとライラだった。
「それをお前にやれってのか、あの道楽親父は。無茶ぶりも大概にしとけよなぁ」
アーデスは再び、苛立ちを顕わに頭を掻いた。アーデス自慢のドレッドヘアに見立てた編み込みが少々崩れる。
「これを仕掛けるのは、父上よりも兄上よりも、私が適任なんだよ」
物分りの良い第四王子はそう言うと
嫌われている分だけね。
と、困ったように笑って付け足した。
確かに、カエムワセトがネベンカルに兄としての自分を見直させれば、ネベンカルは己が母の言いなりになっていただけだと気付き、己の目で世界を見るきっかになるだろう。
ただし、上手くやらねば余計にこじれる恐れもある。
「王族の兄弟仲は国政にも影響が出るんスね~」
「身分はほどほどの方が幸せだよなぁ」
第四王子親衛隊員の新人二人は、主が背負った厄介事に対し完全に他人ごとで感想を述べた。
「兄弟仲といやあ」
ふと、アーデスが思い出したように主の兄を見る。
「ラメセスお前、アメンヘルケプシェフとは仲直りしたのか?」
同僚の発言にギョッとしたライラが、「ちょっとアーデス!」と小声で諌める。
「喧嘩なぞしとらん」
第一王子との不仲を指摘されたラメセスは、憮然とした表情で否定した。
「喧嘩じゃねえけどこじれてるだろうが。余計なお世話かも知れんが、有事に備えるんならそっちも何とかしとけよ」
始まった会話の内容がよく分らないジェトとカカルは、半ばおいてけぼりになっている気持ちで、事情をよく知っている様子のアーデスの発言を注意深く聞く。
ライラはハラハラとしながら同僚と大将軍のやり取りを見守るだけ。カエムワセトも表情を固くして明らかに何か知っている風ではあるが、間に入って発言する気はなさそうである。
「心配無用だ。奴には今日ちゃんと、テーベに恋人がいる事を報告した。ぎくしゃくする事はもうないだろう」
え、そっちがらみ?
ラメセスの応答の意外さに、ジェトとカカルは目を丸くする。
「ほお。彼氏か? 彼女か?」
アーデスが次に発した質問には更に驚かされ、二人同時に口までぱかりと開ける。
「何故そんな事を訊く」
無表情に問い返されたアーデスは、余計な質問だった事に気付き、己の踏み込み過ぎた発言を反省した。「いや、ちょっとした興味というか」と笑ってごまかす。
「俺は別に誰かを楽しませる為に男色家になったわけではない」
ごもっともである。
「そうだな。すまんかった」
アーデスは
ライラは同僚の失態に、額に手を当てて呆れている。
「え、そうなの? マジで?」
驚きのあまり敬語を忘れて確認してきたジェトに、カエムワセトは頷いた。
新人の二人が知らないのは無理もないが、第二王子が男色家なのは城内では周知の事実である。
「俺も父と同じように、女を愛せたらどんなによかっただろうと思う。女が生理的に無理だとは言わん。だが、男にばかり惹かれるのはどうにもならんのだ」
淡々と、ラメセスは己の性癖を新人二人に説明する。そして
「祖国の為、子を残せない事は俺も申し訳なく思う」
という台詞を最後に、黙りこんだ。
非常に気不味い空気が部屋にたちこめる。
それを果敢にも打ち破ったのは、最年少のカカルである。
「大丈夫っすよ。次のファラオはアメンヘルケプシェフ殿下でしょ。あの人は多分女性が好きだし、ちゃんと子供も出来るっス」
だが打ち破ったつもりが、トドメに等しい発言となる。
あ、そんな禁句を!
良かれと思って言ったカカルの励ましが地雷だった事で、ラメセス以外の全員が心中で悲鳴を上げた。
話の流れから、ラメセスがアメンヘルケプシェフに特別な感情を持っていた事は、新参者のジェトにも察する事が出来た。
アーデスとライラはラメセスと皇太子の間に一時期、妙な噂がたった事も承知しているし、カエムワセトは加えて、それが理由でラメセスがテーベに活動拠点を移さざるを得なかった事も知っている。
しかし、まだまだお子様のカカルには、ラメセスが男色家で、アメンヘルケプシェフとは何やら恋愛がらみで確執があったのだろう、くらいで事情把握が止まっていた。痴情のもつれといった大人の領域をまだきちんと理解できないカカルには、アーデスとラメセスの言葉内に存在する微妙な含みに気付く事は難しかったのだ。
よってカカルは、自分の励ましがラメセスの心を何度も串刺しにしたとは夢にも思っていない。
「そうだな。あいつには長生きしてもらわねば」
四年前、異性愛者の皇太子に優しくフられた大将軍は、無邪気な親衛隊員に微笑んで返した。
「……すみません」
カエムワセトがばつが悪そうに、部下の非を詫びた。
ラメセスは「別にかまわん」と元の捕え所のない表情で応えると、続けて弟の左上腕に目をやる。
「それはそうと、腕の傷はどうだ」
「大丈夫です。少々深かったので、これから縫おうかと」
ラメセスは弟に近寄り、「見せろ」と腕を覗きこむ。
カエムワセトが止血代わりに押さえていた布を取って傷口を見せると、傷口を目視のみで確認したラメセスは「ふむ」と小さく唸って体を起こした。
「これくらいならあいつが治す。自己紹介がわりに丁度いいだろう。そのままでいい」
言っている意味が分らず、カエムワセトは首を傾げる。
「あいつ、とは?」
「ずっとお前に会いたがっていたのでな。いい機会だから連れて来た」
質問の答えにならない返事をしたラメセスは、眉を寄せる弟に「感謝しろよ」と珍しく楽しげな笑みを見せた。
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