第11話 戦の足音が聞こえる

「結構深いですね……」


 執務室に戻ったカエムワセト達は、傷の手当てをしていた。

 清潔な布で血を拭いながら、主の左上腕の切り傷を確認したライラは顔をしかめる。 

 槍先でえぐられたその傷口はライラの人差し指一本分ほどに渡って真っ直ぐ、ぱっくり開いており、包帯を巻いて放置しておけるほど浅いものではなかった。


 縫った方が良さそうです。と、ライラが念のため持ってきた応急処置用の道具の中から針を取り出す。

 明らかに縫い針とは違う医療用の針を見たジェトとカカルが、揃って身震いする。


「すまないライラ。手間をかける」


 椅子に座り傷口を布で押さえながら、カエムワセトは甲斐甲斐しく動き回る腹心に謝罪した。

 メンフィス宮廷医の娘であり、小隊長時代は負傷した部下の手当ても率先して行っていたライラは、縫合準備をてきぱき進めながら笑顔で応じる。


「何を仰います。私、応急処置は得意ですから。お任せ下さい」


 一方、同じ腹心でも武術指南役も引き受けているアーデスは弟子でもあり主でもあるカエムワセトの幸勝と負傷に厳しかった。


「お前が悪い!」


 腕を組んだアーデスは、珍しく厳しい声で、主を叱責する。


「なんじゃあの不抜けた戦い方は! 刃物持っとる自覚あんのか!」


 自分のふざけまくった応援を棚に上げて、アーデスはカエムワセトのイヤイヤ感丸出しだった戦いぶりを責めた。


 腹心にまで『不抜け』呼ばわりされ、流石にカエムワセトも少々落ち込む。


「仕方ないわよ。模擬戦なんて、いきなり聞かされたんだから」


 ランプに灯した火で針を炙って消毒しながら、ライラがカエムワセトを擁護した。


「よかったじゃねえか。殿下が勝ってなきゃ、あんたら今頃あの性悪王子の家来だぜ?」


「そうそう。結果が一番っスよ」


 ジェトとカカルもカエムワセトの味方についてアーデスを宥める。


 望まない主替えの憂き目から救われた事については、アーデスもカエムワセトの功労を認めざるを得ず、「まあな」と渋い顔で首筋を掻いた。


「お前達、あまり弟を甘やかすな」


 忠言と共に執務室に入って来たのは、ラメセスだった。


「戦となれば、こいつも出兵せねばならん。このままでは困る」


 筋骨隆々の腕を組み、ラメセス大将軍は四つも年下の弟との戦いで負傷したカエムワセトを見おろす。

 いくらネベンカルが武芸に秀でているとはいえ、十代の少年が四歳差の戦闘力をカバーするのは至難の業である。

 体格も力も経験も上であるはずのカエムワセトが劣勢に持ちこまれ、負傷させられたのは、ひとえにカエムワセトの甘さと鍛錬不足故に他ならない。


 最高司令官の登場に慌てたライラが、驚いて飛び跳ねる動物の様な動きで部屋の隅に寄り、姿勢を正した。


「お前はもう弟の私兵だろう。楽にしろ」


 最高位の将の言葉に、「はい」と休めの姿勢をとりかけたライラだったが、すぐにハッとした表情を作ると、素早い動きでまた完璧な起立姿勢に戻る。


「いえ。ラメセス将軍はエジプトの全兵を束ねるお方。姿勢を崩すなど、とんでもないことです」


 気真面目な顔でそう言うと、部下のジェトとカカルにも


「あんたたちも気を付け!」


 と自分の横に起立させる。


「アーデスさんはいいんすか?」


 普段通りのだらけた姿勢で立っているアーデスに、カカルが不思議そうに首を傾げた。親衛隊の自分達が姿勢を正すなら、傭兵であるアーデスも同じく起立姿勢を直さなければならないはずである。


 アーデスは「ははっ」といつもの哀愁を帯びた笑い声を上げると、親指で最高司令官を指し示す。


「俺はこいつのお漏らしの後始末をした事もあるんだぜ。『気を付け』なんかしてられっかよ」


 その途端、ジェトが「ぶふっ」と吹き出した。慌てて手で口を塞いだが、こみ上げてくる笑いで肩が震えている。


「俺は覚えとらん。あんたも早く忘れろ」


 付き合いの長い傭兵に幼い頃の粗相を持ちだされたラメセスは、苦虫を噛み潰したような顔で記憶の消去を要求した。


 穏やかな空気の中、カエムワセトが「兄上」と硬い声でラメセスを呼んだ。そして今回、模擬戦を決行した意図について兄を問いただす。


「私とネベンカルを闘わせるよう仕向けたのは父上ですね」

「そうだ」


「歓迎会はただの口実でしょう」

「かもしれん」


「有事に備えて不仲を解消しておけ、ということですか」

「さあな」


 最短の返事で答えていたラメセスだったが、最後の返事の後で


「だがこれでお互いの溝の深さはお前も自覚できただろう」


 と弟の図星を突いた。


 このまま何もせず放っておけば、カエムワセトはヘヌトミラーとネベンカルからどれほどの敵意を向けられているかも考えず、のらりくらりかわし続けていたかもしれない。

 返す言葉もなかったカエムワセトは、「そうですね」と素直に認めた。


「父上はおそらく、ヒッタイトの二の舞になるなと言いたいのでしょう」


 聞くところによると、ムワタリ二世の死後に王位に就いたムルシリ三世ことウルヒ・テシュプが、伯父のハットゥシリ三世と王位を巡って争っているという。この後継者問題のため、ヒッタイトは弱体化しているのだ。

 

 カエムワセトは皇太子ではない。しかし、皇太子派の人間として、ヘヌトミラー母子から疎まれている事は確かだ。ヒッタイトのように後継者問題で国力を低下させない為にも、不仲を改善しておく必要がある。

 しかしながら、今回の模擬戦で敵意を通り越して殺意まで向けられた身としては、どうやって関係を修復してよいものか、カエムワセトは対処に困った。


「また戦争になるんスか?」


「まだ分らん。もしかしたらの話だ」


 不安げに訊ねるカカルに、ラメセスが答えた。子供だが、カカルは王族の親衛隊員である。ただ安心させる言葉だけをかけるわけにはいかないと判断したラメセスは


「今、偵察隊をやっている」


 と付け加えた。


「場所は?」


 アーデスからの質問には、「ダプールだ」と短く答える。


「またそっちかよ」


 シリア方面と聞かされ、カデシュの戦いを思い出した傭兵アーデスは、至極嫌そうな顔で頭をかいた。


 八年間に起こったカデシュでの戦いは、敵の策略にはまり、自軍の半分を失った悲惨な戦いであった。しかも痛み分けで終わり、決着はいまだについていない。今回起こるであろう戦は、カデシュの戦いの延長だ。


「ヒッタイト相手はもう勘弁してほしいぜ」


 当時傭兵部隊の司令官だったアーデスは、弱音に等しい呟きをもらした。


 大陸に国を構える限り、戦乱の歴史となるのは必然である。傭兵という身の上であるアーデスは、戦いで命を落とす覚悟もしている。だが、やはり出来る事なら戦争などは回避したい厄介事であり、起こったとしても小競り合い程度で済む事を祈るばかりだった。


「じゃあ早えこと、第六王子を懐柔しねえとな」

 

 至極面倒くさそうに、アーデスが言った。

 実際、面倒くさいのだろう、とカエムワセトは思った。人間関係にあまり悩まない性分のアーデスは、こういった忖度が必要な駆け引きが苦手だからだ。


「不仲の原因に覚えは無いのか?」


 兄からの問いに、カエムワセトは暫く考える。


「ネベンカル自体は特にないのだが……」


 そして、顔を上げたカエムワセトは


「叔母上には少々」


 と申し訳なさそうに兄を仰ぎ見た。




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