第9話 第六王子ネベンカルとの戦い
エジプトの戦車の最大の特徴は、極限まで軽量化されたスピード重視の
ちなみに、カデシュの戦いで闘ったヒッタイトは三人乗りの守備に優れた戦車を使用していた。安定性は高いが、スピードに欠けるというのが難点だった。
アーデスは戦車を最速で走らせた。
相手の攻撃をかわしつつ、車輪に槍を突っ込むならば、すれ違いざまを狙うのが一番いい。だからこそ、カエムワセトは『槍が届くギリギリの間合い』を注文してきたのだ。
ネベンカルはカエムワセトよりも小柄だ。よって、リーチも必然的にカエムワセトより劣る。こちらがリーチギリギリの範囲ですれ違えば、相手からの攻撃も避けやすい。その代わり、カエムワセトは車体から体を大きく乗り出す必要があり、バランスを崩せば転落するリスクも伴う。
だがまあその辺は上手くやるだろう。と、何年もカエムワセトの武術指南役を務めてきているアーデスは、主のバランス感覚を信じた。
双方の戦車が接近し、カエムワセトが外側に身を乗り出した。
ネベンカルも槍を構えているので、遠隔攻撃を選んだのは明らかだ。
アーデスの間合いの取り方は完璧だった。この距離なら、最大まで身を乗り出せば車輪に槍の切っ先が届き、ネベンカルは攻撃が難しい。
馬同士がすれ違う。
カエムワセトはネベンカルの動きに注意しながらタイミングを計った。
だが、次の瞬間、予想だにしない事が起こる。
アーデスもカエムワセトも、ネベンカルは薙ぎ払ってくるのだと思っていた。だが彼は、突いて来たのだ。それも、カエムワセトの胸を目がけて。薙ぐのと突くのでは、槍の延びがまるで違う。
手すりから身を乗り出していたカエムワセトは、体幹の可動範囲が大きく制限されている状態だった。
慌てて上体を上に捻り、すれすれで攻撃をかわす。
胸の上を、槍先がかすめた感覚がした。
戦車同士が交差する。
ネベンカルの悔しげに歪んだ横顔を見送りながら、カエムワセトは上体を起こした。
完全に戦車同士が離れた所で、アーデスは手綱を引いて素早く車体を回転させながら、ひゅう、と口笛を吹く。
「まさか心臓を狙ってくるとは思わなかったな。避けなきゃ死んでたぞお前」
ゆゆしき事態を告げる言葉とは裏腹に、アーデスはどこか楽しそうである。やはり、こういう危うい状況を楽しめる精神構造は、流石ファラオの戦友といったところであろう。
カエムワセトは冷や汗をぬぐった。
弟の切っ先に迷いは感じなかった。
傷を負わせて一本取りどころか、命ごと取ってやろうという魂胆らしい。
まさかここまで嫌われているとは思わなかった。
相手も戦車を回転させた。
再び、向かい合わせになる。
「作戦変更は?」
アーデスが念のための確認した。
「なしだ」
カエムワセトは即答した。
そもそも、もうあれこれ思索している暇は無い。
「やっ!」
ネベンカルの戦車も突進の準備が整った所で、アーデスが手綱を波打たせ、馬を走らせた。
相手もほぼ同時に戦車を走らせてくる。
ネベンカルはまた、槍を順手に構えた。
今度こそ。と、ネベンカルもまた、戦法を変えず胸を狙うつもりでかかったのである。
だが、再び槍を逆手に構えて車輪を狙ってくる様子の兄を目にした瞬間、ネベンカルはどうしようもない怒りに駆られた。凛々しい眉を吊り上げ、憤激の表情に唇をめくり上げる。
「だからあんたは――」
奥歯をぎりりと噛み、唸るように言う。
そして、手すりに片足をひっかけた彼は
「甘いっていうんだ!」
すれ違う直前、兄に飛びかかった。
戦車上で弟からタックルを受けたカエムワセトは、飛びかかって来た弟とともに、戦車から転げ落ちた。
手綱持ちのアーデスと中隊長が、落下した将に振り返りながら遠ざかってゆく。
「同時に落ちた!」
まさかの展開に、観客席がどよめく。
「続行だ」
ざわめきの中、ラムセス二世が冷静に指示を出した。
戦車戦から一対一の格闘に変更である。
途端、会場は闘技場の様な空気をかもしだした。血気盛んな若い兵士達を中心に、応援や野次が飛び交い始める。
「あいつら……!」
かつての部下達が勝敗を賭けて賭博を始めたのを見つけ、ライラは威嚇するライオンそっくりの顔で睨みつけた。
「あとで没収しに行くわよ」
現在の部下二名に命令する。
珍しく、上官から楽しい命令を頂戴した元盗賊の少年達は、「「喜んで!」」と二人同時に拳を突き上げた。
両者戦車から落ちたところで、用済みとなった手綱引きの二人は、カエムワセトとネベンカルから離れた所まで移動し、仲良く戦車を並べて観戦していた。
将の二人は今、肉弾戦の真っ最中である。
というよりは、カエムワセトが一方的に馬乗りされ首を絞められている状況だった。
「アーデス殿。本当にネベンカル王子の従者になるおつもりですか?」
かつてはネアリム師団の司令官を務め上げた豪傑に、戦車隊の中隊長は丁寧に質問した。
「俺が決めるこっちゃねえだろ」
対して、いつも通りのざっくばらんな口調で答えたアーデスは、口元に両手を当ててカエムワセトを応援する。
「きゃー、頑張ってぇ~。王子様ぁ〜」
甲高い声が気持ち悪い上に、見事に棒読みだった。
中隊長は思わず鳥肌を立たせる。
アーデスのふざけた応援は、下手をすれば嫌がらせと捉えられかねない上に、戦意を喪失させる妨害行為として罰せられる恐れもある。
「遊んでいる場合ですか」
呆れる中隊長に、アーデスは「大丈夫だろ」と言いながら小指で耳をほじった。
そもそもこれは、ファラオのお遊びである。景品として相手の腹心を与えようなど少々度が過ぎているとは思うが、戦争じゃあるまいし、真剣に取り組む気にはなれなかった。
それに、今のところはそこまで悲惨な状態ともアーデスは思えないのである。
「俺が第四王子を『弱い』と言った事があったか?」
首を絞める弟の両手に手をかけた主を眺めながら、腕を組んだアーデスは口元に笑みを浮かべる。
「あいつだって、本気出しゃまあまあ強いんだよ」
続けて口にした丁度そのタイミングで、カエムワセトは弟の腹に足をかけ、頭越しに投げ飛ばした。
観客席から「おおーっ!」という歓声が湧き起こる。
――武器を持たせなきゃ、だけどな。
やられ放しだった第四王子の奮闘ぶりに熱狂する観客の声を聞きながら、アーデスは心の中でそう付け加える。
その上困った事に、その本気を出させるのが至難の業であることも、アーデスは承知していた。
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