第8話 戦車模擬戦、開始!
嫌な予感は的中していた。
城中の人間が集まっているのではないか、というほど多くの観戦客が囲む練兵場の真ん中。アーデスを手綱取りに選んだカエムワセトは、戦車部隊の中から中隊長を手綱取りに選んできたネベンカルと対峙していた。
ネベンカルの隣には母親のヘヌトミラーがおり、こちらをチラチラと伺いながら、息子に何やら話している。
「えらいこっちゃなぁ。あの王子は強えぞ?」
念のため戦車に不備は無いか確かめたアーデスが、カエムワセトの隣に戻って鼻歌でも歌う調子で言う。
「知っているよ」
カエムワセトは執務室で対戦相手を予想した時と全く同じ渋面で答えた。
「殿下。十分お気を付け下さい」
第六王子の訓練風景を見た事があるライラが、カエムワセトに念押しする。
「あの方は、迷いなく急所を狙ってきます」
ライラが言った途端、ジェトとカカルが引きつった表情で股間を押さえた。イエンウィアとパバサの葬儀で聞いたレクミラの姉弟喧嘩話がまだ尾を引いているようである。
「そこだけじゃないわよ! 急所は!」
ライラは言いながら、二人の頭を順々にひっぱたいた。
この二人には間違いなく、人体の急所についての講釈を含めた座学が必要である。
続いてライラは、練兵場正面を見やった。そこは、王族用の即席の観覧席となっている。
「でもほんと、いきなり模擬戦だなんて……どういうおつもりかしら」
ライラはため息をついた。
模擬戦自体はラムセス二世らしいといえばらしいのだが、いくら次男の帰省祝いといえど、全隊が予定していた合同訓練を潰してまでやるという道楽ぶりが、らしくない、と思う。
終始ふざけているように見えて、実はぬかりなく周囲の諸事情を把握し調整しているのがラムセス二世という男だと信じていたライラは、今回の模擬戦決行に、違和感を拭えないでいた。
★
模擬戦の正面に当たる場所では、正妃や側室、王子や王女達が座り、その中央には玉座ともう一つ、大きめの椅子が用意されていた。
ラムセス二世はその一つである玉座に早々と着席し、組んだ脚を揺らしながら、カエムワセトとネベンカル双方の緊張した様子をニヤニヤしながら眺めている。
そこに、第二王子のラメセスがやってきた。
ラメセスはファラオの隣の席に腰を下ろすと「弟は寝耳に水でした」とささやかな苦情を無表情に申し立てた。
ふん、とラムセス二世が鼻で笑う。
「事前に知らせては興が冷めるだろが」
――やはり、この人は楽しんでいるのか。
ラメセスは嘆息した。
歓迎会にかこつけたファラオのお楽しみは、二人の弟には迷惑な催しだったはずだ。
模擬戦を知った時の、
だが、
――笑っている?
第六王子ネベンカル。彼の表情からは、緊張の他にも闘志。そして隠しきれない悦びが見て取れたのだった。
「おい。そろそろ始めるぞ」
ラムセス二世が、皇太子アメンヘルケプシェフに開始の合図を求めた。
審判役を任されていたアメンヘルケプシェフは、父王に頷くと椅子から立ち上がった。
そして、ネベンカルとカエムワセトの丁度間に進み出る。
「双方、位置につけ。戦士と手綱持ち以外は退場せよ」
アメンヘルケプシェフが硬い声で指示を出した。
ヘヌトミラー、そしてライラ達がその場から退場しようとしたその時、ネベンカルが「お待ちください」と手を上げる。
会場中の視線が、ネベンカルに集中した。
第六王子は痛いほどの注目を浴びつつも、物怖じしない堂々とした様子で、高見に居る父を仰ぎ見る。
「もし僕が兄上に勝ちましたら、欲しいものがございます」
「ほう」
ラムセス二世が眉を上げ、滑舌良くお願いしてきた息子を、興味深げに見おろした。
この瞬間、ヘヌトミラーの口元の笑みが深くなった事にカエムワセトは気付く。
カエムワセトは再び、嫌な予感をおぼえた。
「言ってみろ」
ラムセス二世が楽しげに口角を上げ、発言を許可した。
「はい」
ネベンカルは父親によく似た笑みを作ると右腕を真っ直ぐに伸ばし、カエムワセトの方に人差し指を向ける。
「僕が勝ったら、アーデスとライラをください」
「なっ――!」
周囲のどよめきと同時に、カエムワセトも驚いて目を見開く。
ラムセス二世だけが、愉快とばかりに膝を叩いて爆笑していた。そして、ひとしきり笑ったファラオは肘掛けに頬杖をつくと、大胆な発言をした強気な息子を叱る。
「他人のものを欲しがるのは行儀が良いとは言えんぞ。ネベンカルよ」
しかし、言葉とは裏腹にその顔には微笑みがあった。
これはよろしくない、とカエムワセトは焦る。
父王がこういった顔をするときは、大抵――
「だがその強欲ぶり、俺は嫌いではない」
ラムセス二世がにやりと笑う。
やっぱりか。とカエムワセトは額に手を当てて俯いた。
本性が無頼漢同然であるファラオは、息子の無遠慮にも好感を持ったのだ。
「よし、いいだろう。せいぜい頑張れ」
両膝をぽん、と打ったラムセス二世は、ネベンカルの願いを聞き入れた。
「おいおい! ちょっと待て!」
「陛下、あんまりです!」
慌てたアーデスとライラが、処罰覚悟で口を挟む。
「父上。私は承諾できません」
カエムワセトも断固たる姿勢で撤回を求めた。
ラムセス二世は、すっと笑みを引っ込めると、臣下に恵まれている第四王子に厳しい眼差しを向ける。
「お前の意見は聞いとらん。俺が良いと言えば良いんだ」
そして、「忠臣を取られたくなくば勝て。分ったか」と無慈悲にも思える言葉で撤回の要求を却下した。
相手はファラオである。誰が何と言おうと結局は、ラメセス二世が否といえば否なのだ。
ここまで強く出られては、カエムワセトも従うほかない。
「あのお、オイラ達は?」
緊迫した状況の中、カカルが間延びした声で自分を指差してネベンカルに訊ねた。
自分とジェトは求められていないのか? という問いかけである。
腕を組んだネベンカルは、自分と歳の近い元盗賊の少年二名を真っ直ぐに見ると
「要らん」
最短の台詞で断った。
考えるそぶりすら無く拒絶され、カカルはショックのあまり自分を指差したまま顎を落とす。
「俺らは役たたずって言いたいのかよ!!」
「落ち着きなさいジェト」
鼻息荒く一歩前に進み出たジェトを、ライラが止めた。
ネベンカルはジェトの怒りなど、どこ吹く風である。
更に、父王に願いを聞き入れられて勢いづいた彼は、兄のカエムワセトに挑発的な笑みを向けると、こう言った。
「いかがです? 兄上。この二人がいなければ、兄上などただの書豚ですよね」
『書豚』
おそらく隣に居る母親の悪口から覚えたのだろうこの揶揄が、カエムワセトを逆上させる目的で使われたのは明らかである。逆上した人間は理性を失い、その分ネベンカルの勝率は高くなるからだ。
しかし理性の塊の様なカエムワセトに、挑発は逆効果だった。
挑発を受けた事により逆に頭が冷めたカエムワセトは、「言われてますよ。殿下」というジェトからの指摘にも、「言わせておけばいいよ」と取り合わなかった。
一方、主を敬愛してやまないライラには効果てきめんだった。
「このクソが――」と危うく処罰ものの暴言を口にしかけ、「ライラ。そこから先は我慢しろ」とアーデスに制される。
ラムセス二世やカエムワセトは不敬に寛容だが、ネベンカルは違う。有無を言わさず禁固刑か解雇。良くて罰金であろう。
ライラは舌打ちしつつも、アーデスの配慮に感謝した。
対してカカルは、自分とジェトに価値なしと判断を下したネベンカルに恨めしげな眼差しを向けると、相手に聞こえないようにぼそりと言う。
「同じ王子でも殿下と全然違うッス。親はどういう躾してんスかね」
むしろ躾の賜物のような気がする。
カカルの声をしっかり聞いていたカエムワセトは、心の中でそう呟いた。
悲しきかな、ネベンカルの横暴ぶりは今の父王そっくりである。
だがそれを、父親を同じくする自分が口にするのも如何なものかと思い、カエムワセトはあえてこの呟きを、胸の内に収めておいた。
「さてと、これは勝負事だ。ネベンカルだけに褒美をやるわけにはいかんな」
しばらく双方が牽制し合う様子を面白そうに眺めていたラムセス二世だったが、彼はそう言うと脚を組み替え、痛い
「カエムワセトよ。お前は勝ったら何を望む?」
まるで息子を試すように、身を乗り出した彼は第四王子に問いかけた。
何かを期待している父王の表情に、彼の思惑が段々に読めて来たカエムワセトは
食えない人だ。と嘆息した。
魔物戦の時のように、初陣の息子の無事を願い助けるという、ただの父親の顔を見せたかと思えば、今のように強引でずる賢い王者の面も容赦なく見せて来る。
聡いことで有名な息子すら、時に本心を掴みかねるこの男は、やはり稀にみる献帝といえた。
カエムワセトは何となくだが、ラムセス二世が自分に求めている解答が想像できた。
最高司令官である兄が帰って来たこのタイミング。
兵士達の合同演習を潰してまで模擬戦を強行した意味。
模擬戦に自分とネベンカルを選抜した理由。
そして、ネベンカルの無茶苦茶な要求を受け入れた思惑。
ラムセス二世は全てをカエムワセトに悟らせ、己の計略の一端を担わせようとしているのだ。
期待されるのは光栄だった。ラムセス二世がネベンカルの要求を退けていたなら、カエムワセトもこの
「わかりません。勝ったら考えます」
しばし考えた結果、ヘソを曲げた第四王子は、ファラオからの協力要請に対する返事を対戦後に持ち越す事にした。
僅かばかりの反抗心を見せて来た聡い息子に、ラムセス二世は目を丸くした。だがその表情は、一瞬の温かみのある笑顔を経てすぐに食えない王者の笑みに戻る。
「ま、よかろう」
ラムセス二世は余裕の表情で、背もたれに体を預けた。
「いいか。始めるぞ」
話がまとまったところで、アメンヘルケプシェフが双方に確認した。
ヘヌトミラーが息子の肩にそっと触れて激励を贈り、王族の観覧席に移動した。ライラとジェトとカカルも邪魔にならない場所まで後退する。
「ルールは簡単だ。将を戦車から落とすか、負傷させた時点で終了とする。手綱持ちは戦車の操縦以外、助太刀は許されない」
アメンヘルケプシェフの説明を聞きながら、アーデスがカエムワセトに戦法を確認する。
「――で、どうするつもりだ?」
「槍でネベンカルだけ叩き落とすのが正道ではあるんだろうが……」
剣を帯に刺し、槍を手にしたカエムワセトは、迷っていた。
ヘヌトミラーやアーデスの言う通り、ネベンカルは武芸に秀でている。ちょっとつついて落とすつもりで相手をするには手強過ぎた。下手をすれば槍を掴まれて逆に落とされかねない。
もし正攻法で転落させるなら、本気で挑まなければならないだろう。それではネベンカルに怪我を負わせてしまいかねない。
「車輪に槍をひっかけて、戦車ごと倒す策戦でいく」
少々外道なやり方を選んだ主に、アーデスは「ま、お前ならそっちを選ぶと思ってたよ」と微笑んだ。
「アーデス。槍が届くギリギリの間合いで頼む」
カエムワセトは槍を逆手に構えた。
ネベンカルは槍を順手に構える。
戦車に繋がれた二頭の馬が、じりじりと緊張感が増してゆく空気に反応し、前足を掻いた。
「承知した」
アーデスは手綱を握った。
相手の中隊長も手綱を握った。
手綱持ち二人の視線が、強く交わる。
「それでは、はじめ!」
アメンヘルケプシェフの声を合図に、向かい合わせの戦車は互いに向かって一気に走りだした。
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