第7話 曇り空のような執事

 昼を過ぎ、乳母たちがほくほくとした満足顔で子供達を引き取りに来て暫く経った頃。ようやくラムセス二世の執事が模擬戦の知らせをカエムワセトの執務室に持ってきた。


 模擬戦は練兵場で行われ、種目には戦車(チャリオット)が持ちだされるとの事だった。チャリオット、とは戦闘用の馬車の事である。皮や木材を使った籠のような本体に人間が乗り、それを馬で引かせるのだ。


 今回は、手綱持ちは自由に選んで良いが、基本的に手出しをしないという決まりの元での、一対一の戦車戦であった。武器は槍と剣が一振りずつ与えられるという。


「用意が整い次第、始めると仰せです」

 

 執事は弔問に来たような顔で、ファラオからのめいを告げた。


 カエムワセトが対戦相手を訊いたが

 

「『それはお互い、始まってからのお楽しみ』だそうです」


 やはり執事は眉一つ動かさない、どんよりとした顔で解答を拒否した。

 そしてそれ以上の質問が無いことを確かめた彼は、お悔やみを述べるような調子で「ご健闘を」と一礼すると、部屋を去った。


 激励を贈られたはずなのに、執事が現れる前よりも部屋の空気がどんよりする。


「お楽しみねえ」


 アーデスは頭を掻いた。


 どっちのお楽しみだか分かりゃしねえな。


 と髭面をしかめてひとりごちる。

 

 三十七歳の悪戯好きのファラオ、ラムセス二世の戦友であるアーデスは、「稚気大いに愛すべし!」と胸を張って高笑いしている友を想像してげんなりした。


「面倒な事になりましたね……」


「殿下、闘えるんスか?」


「あんた失礼なこと言うんじゃないの」


 ジェトがため息交じりに言い、カエムワセトが相手でなければ侮辱罪で叱責を受ける羽目になるような質問をしたカカルを、ライラが諌めた。


「仕方ないよ。やるしかないさ」


 衝立の向こうで着替えをしていたカエムワセトが、革製の手甲を紐で調節しながら現れた。


 プタハ大神殿の神官職も非常勤で務めているカエムワセトは、足首まで届く白い長衣に、青い肩掛けショールを斜めがけにするという神官服を普段着として過ごしている。だが、模擬戦に神官姿で臨むのは流石に不適切なので、エジプト人男性の多くが身につけているシャンティという腰巻に衣装替えしたのである。


 久しぶりに上半身を顕わにした姿で現れた主を見て、アーデスは開口一番


「お前ちょっと痩せたんじゃねえか?」


 鍛錬不足を指摘した。


 大正解である。

 カエムワセトは返す言葉もなかった。


 最近また公務が忙しさを増し、武芸の方が疎かになっている状況は否定できなかった。この一週間を思い出す限り、カエムワセトは剣も槍も弓も手にしていないし、筋力訓練すらやっていない。


 カエムワセトはアーデスや兄のラメセスに比べれば明らかに痩せ型ではあるが、ひ弱な印象は無い。それでも、腹周りの筋肉の落ち方は顕著だった。


 三日休めば骨格筋の運動性能パフォーマンスは落ち、三週間訓練を怠れば、実際に筋肉は萎縮を始める。逆に筋肉を肥大させるには、二カ月程度を要する。そろそろ本腰を入れて鍛えなおさねば、後で苦しい思いをすることになるのは明らかだった。

 エジプトは軍事国家である。王家の構成要因である王子の一人としては、日々武芸の維持・向上に励み、いつ何時起こるか知れない戦争に備えておく義務がある。

 それはカエムワセトも十分分っているのだが、苦手な分野なだけにやる気モチベーションを保つのは難しかった。


「明日から忘れず鍛える」

「アホか。今日からだ」


 中途半端な意志の元に減量を決めた女性の様な口ぶりで反省する主に、武術指南役のアーデスは厳しく対応した。そもそも今日は、午後から武術訓練の予定だったのだ。


 いくら武術の師匠といえどカエムワセトは主人である。阿呆呼ばわりは無礼が過ぎる行為だ。だが基本的に腰が低く、家臣の礼儀作法にも鷹揚なカエムワセトは、腹心の無礼を責めることなく、「分った。よろしく頼む」と素直に模擬戦後の指導を願い出た。


「それにしても、対戦相手は誰になるのかしら」


 ライラが口元に手を当てて考え込む。


「さてな。次男、てことはないだろう」


 アーデスが答えた。

 いくら戦いの達人エキスパートとはいえ、賓客が闘う訳がない。


「じゃあアメンヘルケプシェフ殿下スか?」


 カカルが皇太子の名を上げる。


 相手が皇太子ならば、模擬戦は楽勝だと思われた。アメンヘルケプシェフが弱いからではない。お互い気心が知れていて、やりやすいからである。だが悪くすると、お遊び程度のなあなあな戦いにもなりそうだった。

 相手役として可能性のある二人の人物は、どちらも決定打に欠けた。


「相手が王子とは限らねえだろ」


 ジェトが王族以外の可能性を唱えた。そうなると、いよいよ対戦相手は絞れない。


「ネベンカル」


 出された名前を聞いて、そこにいる全員が、口にしたカエムワセトを顧みる。


「……の、ような気がする」


 近臣達から注目されたカエムワセトは渋面を作り、昼前に廊下で自分に敵意を向けて来た第六王子の顔を思い出していた。


 第六王子とカエムワセトは、城の中では不仲で有名だったのである。



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