第6話 鬼の大将軍ラメセス

「なんだその無様な弓の打ち方は」


 ライラが走って行った逆方向から現れたその人物は、ゆっくりとした足取りで階段を下りて来た。腕を組み、「土台がまるでなっとらんな」と渋面を作る。


「兄上!」


「よお。ラメセスじゃねえか。久しぶりだな」

 

 自分たちよりも数段上に立っているその男を見上げたカエムワセトとアーデスが、それぞれの呼称で彼を呼んだ。

 

 第二王子ラメセス。カエムワセトの実兄である彼は、ぺル・ラムセスに約一年ぶりに姿を見せた。

 どちらかといえば細身の弟に対して、筋骨隆々の彼は、祖父セティ一世を彷彿とさせる大柄で骨格のしっかりした武人である。一つひとつの筋肉がくっきりと浮かび上がったその体躯と立ち姿はまるで闘神のよう。実際、神ではないが、ラメセスは最高司令官としてエジプト軍を統括しており、普段はテーベでその辣腕を振るっている。


 闘神の如き大将軍は、自分を「兄上」と呼んできた子供まみれの青年に顔を向けると、驚いたように目を見開いた。


「カエムワセトじゃないか。お前、いつの間にそんなに子供を作った」


 真面目で寡黙なこの男は、めったに冗談など口にしない。この言葉からも本気を感じ取ったカエムワセトは幼子にまみれながら、「弟妹ですよ」と勘違いを正した。


「ふむ。……託児所でもやっとるのか?」


 続いて彼が口にした本気は、偶然にもアーデスのぼやきと同じであった。

 

 カエムワセトは「訳あってちょっと預かっているだけです」と簡単に説明する。


 ラメセスは「そうか」と頷いた。

 続けて、弓を射るジェトとカカルを顎で示す。


「で、あいつらはお前の従者か?」


「従者というか……」


 親衛隊という存在にまだ慣れないカエムワセトに代わって、アーデスが「ワセトの親衛隊員だよ」と答える。


 ラメセスは「ほう」と小さく感嘆の声を上げると、「上官は誰だ」と訊いた。


「ライラです」


 今度はカエムワセトが答えた。


「なるほど」


 何かに納得したラメセスはまた頷くと、ただがむしゃらに弓を打ち続けている二人の元に歩いて行く。

 ジェトの横で立ち止まると、「貸してみろ」とおもむろに手を出した。


 ジェトはいきなり現れた大男に慄きながらも、言われた通りに弓を渡す。


 弓を受け取ったラメセスは、弓全体に掌を滑らせ、続けて弦を引いてみた。


「手入れはまあまあだ。だが、弦の張りがまだ甘い」


 そう言うと、手早く弦を張り直す。次に彼は、矢筒から一本矢を抜いて弓につがえた。

 ジェトの的に向かって弓を引き、ほんの数秒も経たない間に素早く照準を合わせ、矢を放つ。

 

 明らかに先ほどまでとは異なる勢いと鋭さで飛んで行った矢は、見事的の中心を射ぬき、そして――


「突きぬけた」

 

 冗談のような破壊力に、ジェトがあんぐりと口を開けて立ちつくす。カカルも「嘘でしょお」と目を丸くしている。


 しかもラメセスが放った矢は、的を突きぬけただけでなく、勢いそのままに地面にぐさりと刺さって静止したのだ。


 矢が地面に刺さるのに一拍遅れて、射ぬかれた的がぱっくりと二つに割れて地面に落ちた。


「すごーい!」


 子供達がパチパチと手を叩く。


「相変わらずいい腕してるじゃねえか」


 アーデスからの称賛に、ラメセスは「ああ」とぶっきらぼうに返事をした。

 ジェトに弓を返し、「撃ってみろ」と言う。


 ジェトは頷くと矢をつがえ、弓を引いた。だが、弦が固くて十分に引ききれない。

 四苦八苦しているジェトに、ラメセスが言う。


「お前くらいの体格なら、体を上手く使えばこの程度は引けるはずだ」


「そうは言っても! んぐぐ!」


 何度やっても弓の固さに腕が負けてしまう。


「背中を使え」


 ラメセスは矢筒からまた矢を一本引き抜くと、ライラと同じ助言アドバイスを与えた。

 だが次からの行動が、ライラの指導とは異なっていた。

 ジェトの両肩甲骨の間。背中の真ん中に矢を真っ直ぐにあてたラメセスは、「この矢を背中で挟むつもりで弓を引け」と指示を出す。


 ジェトは言われた通り、自分の背中にある矢を肩甲骨で挟むよう力を入れた。すると、先程までびくともしなかった弦が伸びはじめる。


「よし」


 とラメセスが言った。


 続けてラメセスは、弓を押している方の左肩に手を添え、「こっちの腕の付け根は内側に入れろ」と肩関節を少し内側に押しこんだ。

 更に、矢を引く腕の角度。顎。と次々に微調整してゆく。

 そして、完璧な発射姿勢になったジェトに


「撃て」


 と命じた。


 ジェトが矢を放つと、それは美しい放物線を描きながら飛んでゆき、的の中心に命中した。

 命中した瞬間


 タン!

 

 という気持ちのいい音が練兵場に響く。


「すげえ」


 ジェトは感動に頬を紅葉させた。

 放った矢の軌跡の美しさといい、命中した時の小気味よい音といい、弓術にこれほどの快感を覚えたのは初めてだったのである。


「腕のみで撃とうとすると照準がずれやすく筋疲労も早い。肩の関節はボールが受け口にはまるような構造になっている。故に上手く受け口に腕の骨がはまると、弓を支えやすい。体幹は軸として働く。ぶれないよう力を抜くな。全身で撃つ事を心掛けろ」


 ラメセスは淡々と弓のコツを説いて聞かせた。

 ジェトとカカルは尊敬を込めた眼差しで救世主の如く現れた男に何度も頷く。先程までの、猛獣に追われて必死に逃げる小動物の様な眼をしていた二人とはまるで別人である。


「ライラさん、そんな風には教えてくれなかったっスよ」


 恐怖政治のような教え方で訓練を進める上官の無慈悲なやり方を、カカルはここぞとばかりにラメセスに告発した。


「そうだろうな」


 ラメセスは無表情に頷いた。


「あいつは感覚でやっているからな。指導は下手だ」


 つまりはライラが天才肌だと言うことなのだが、聞いているジェトとカカルとしては、褒めているのかけなしているのか判断に困る返答ぶりだった。言葉選びもさることながら、ラメセスの無表情ぶりが余計に真意を測らせないのである。


 だが、ラメセスの性格を熟知しているアーデスとカエムワセトは、これは称賛でも揶揄でもなく、ただ事実を述べているだけだととらえていた。


「俺に預けたら二カ月でものにしてやるが、どうする」


 ラメセスが、アーデスとカエムワセトに打診した。

 つまりは、エジプト軍に入隊させて上官を替えるか? という問いかけである。


 ラメセスをただの弓の上手い武人としか認識していないジェトとカカルは、思ってもいないチャンスだともろ手を上げて喜んだ。ライラの地獄の特訓から逃げられる上に弓の上達が叶うのであれば、願ったり叶ったりである。


 だが、二人の主であるカエムワセトは、ジェトとカカルの入隊に消極的だった。


「せっかくですが、そこまではまだ」


 申し出を辞退する。


「最高司令直々のお誘いは有難いが、もう少しライラに任せてやってくれや」


 アーデスも申し訳なさそうに笑いながら、もうしばらくの猶予を願いでた。


「最高司令!?」


 アーデスの台詞の中から驚くべき単語を拾ったジェトが、声を上ずらせる。


「ジェト、カカル。こちらは私の兄のラメセス。今はテーベでエジプト軍をまとめているんだ」


 新米の二人がラメセスとの初対面だった事を思い出したカエムワセトは、遅まきながら二人に実兄を紹介する。


「この男……お方が、ラメセス大元帥、ですか」


「鬼の大将軍様スね」


 ラメセス大元帥。

 大元帥とは、軍の全師団を統括する最高司令官の別称である。そして、鬼の大将軍様、というのはラメセス最高司令を指す通称だった。


 大将軍ラメセスの逸話と武勇伝は数知れない。

 特に有名な話では、カデシュの戦いでラー師団の司令官を務めていた彼が、進軍中ヒッタイト軍に横っ腹を攻撃され壊滅状態に追い込まれながらも、ラムセス二世率いるアメン師団に追い付き、ファラオ軍の窮地を救った、というものがある。

 この功績により、ラメセスは父王ラムセス二世から最高司令官の任を預かったのだ。この時彼は、皇太子アメンヘルケプシェフより一つ下の若干十四歳だった。

 余談だが、この時アーデスはネアリム師団という傭兵部隊の司令官だった。ネアリム師団はラー師団にやや遅れる形で、ヒッタイトからアメン師団の野営地を守る形となった。

 他にも、ラメセスの大喝はワニをも失神させるだの、刺客の頭蓋骨をゲンコツ一撃でカチ割っただの、五人いっぺんに襲いかかってきた槍兵を丸腰でやっつけただの、嘘か誠か定かではない噂がごまんとある。

 また、ラメセスは歴代の司令官の中では飛びぬけて訓練に厳しいと、専らの評判であった。物の例えでなく実際に、訓練の過酷さに血反吐ちへどを吐いた兵士もいるらしい。

 普段の彼は、寡黙で至って温厚。その姿は人に慣れた象のようだと、彼を知る者は口を揃えて言う。その落差ギャップがまた恐ろしいのだそうだ。


 そうわけで第二王子ラメセスは、人々から畏怖と尊敬の念を込められ、その名や呼称の前に“鬼”と付けられる事が多かった。

 

 危うく血反吐モノの戦闘訓練を強いられるところだったジェトとカカルは、主のカエムワセトと傭兵アーデスに感謝した。


 暇をもてあました子供達が階段で遊び始め、カエムワセトが背中に負ぶっていた乳母の息子も、下に降りたい、と足をばたつかせる。


「兄上は、どうしてこちらに? 何か心配事でも?」


 階段を下りてしゃがみ、乳母の息子を地面に下ろしながらカエムワセトが訊ねた。


 多忙なラメセスが、ぺル・ラムセスに足を運ぶ事は滅多にない。

 あるとすれば、家族の冠婚葬祭もしくは軍事で問題が起こった時くらいである。


 兄弟の誰かが結婚するという話は聞かず、ラムセス二世が新しい側室を迎えるという話も無く、身内も全員元気。故に、残る可能性は軍事問題ただ一つだった。


「なに。父上に、少々相談があってな」


 はっきりとした理由を口にしなかったラメセスは、「今しがた終えた」と、それ以上の詮索を拒絶した。

 だがすぐに、ふと何かを思い出したように顔を上げた彼は


「それはそうとカエムワセト」


 弟を見やり、わずかばかり眉を寄せて訊ねる。


「俺の歓迎会代わりに、お前が模擬戦をするというのは本当か?」


「「「―――――え?」」」


 初めて聞かされた決定事項に、カエムワセトとその忠臣達は耳を疑った。

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