第5話 ライラの地獄の弓術訓練 

「だから違うって何度も言ってるでしょ!」


 カエムワセトとアーデスがやっとの思いで練兵場への下り階段前に辿り着くと、さっそく馴染みのある声が聞こえてきた。

 声の聞こえ方から察するに、ライラとジェトとカカルは階段を下りたすぐ傍にいるようだ。

 ナイル川に近い練兵場の奥では、歩兵の中隊らしき団体が盾を手に、槍と剣をぶつけ合っている。


 子供達が階段を踏み外さないよう声掛けをしながら、カエムワセトとアーデスは練兵場への階段を下りる。

 

「あ、カカルだ!」


 ピプイが嬉しそうに、遊びの上手な親衛隊員を指差した。


 ジェトとカカルは、ライラに怒鳴られながら六ロッド(約三十m)ほど先にある二つの制止的に向かって弓を構えていた。

 残念な事に、訓練に必死な三人は、カエムワセトらに気づかない。


「弓は腕じゃなくて背中で引くの! せ! な ! かー!」


 語気を強めるたび、ライラがジェトの背中をバシバシと叩く。


 叩かれる度にバランスを崩して的を狙えないジェトは、我慢の限界、とばかりに「やかましい!」と叫んだ。左手に持っていた弓をライラ向かって振り回す。


 ライラはそれを、上半身を捻り反るだけでかわし、そのまま続けて回し蹴りを放った。ライラ自慢の赤毛がふわりと宙に浮かび、舞いでも舞っているかのように繰り出された見事な回し蹴りは、ジェトの側頭部に命中する。


 インパラも恥入るほどの美脚で蹴り飛ばされたジェトは、三十九キュービット(約二m)ほど吹っ飛ぶと、地面に滑り込むようにして倒れた。動かなくなる。


「あ、アニキ! 大丈夫――ぼふぁっ!?」


 続けざまに背中にとび蹴りをくらったカカルが、奇妙な悲鳴を上げてジェトの上に倒れ込む。

 構える間もなく腹の上で弟分をキャッチしてしまったジェトは、「ぐえっ!」と蛙の様な声を上げてのびてしまった。

 

 自分より年下とはいえ、ものの数秒で少年二人人を戦闘不能にした元軍人のライラは、いつでもどこでも指導の機会を忘れない。反抗的な部下を返り討ちにしたついでに、彼女は鍛錬の心構えを二人に説いて聞かせる。


「体幹と下肢を鍛えれば、今のように攻撃をかわしながら反撃する事も可能よ。後ろから叩かれても的を外さないくらいにまで強くなさい! 技術の前に強化すべきは体幹・下肢・柔軟性! はい、すかさず復唱する!」


「「た、たいかん。かし。じゅうなん……せい……」」


 ぼろ雑巾のようになっている少年二人は、情け容赦ない上官の命令に殆ど無意識に従った。もはや、ジェトとカカルの二人はライラに本能まで支配されつつある。


 カエムワセトは四歳になる乳母の息子を負んぶしながら、目の前の惨状を茫然と見つめた。

 アーデスは二歳の王女を腕に抱きながら、「なんとまあ……」と称賛だか悲嘆だか分らない呟きをもらす。

 

 カカルは鼻水を垂らして泣いている。

 だが泣きながらも身を起こし、落とした弓を拾おうとしている。その負けん気ファイトに溢れた姿からは、盗賊団の中で培われてきた強い根性が伺えた。

 しかしながら、ちびっ子達の相手までは流石に無理そうである。


 一方、カカルの兄貴分のジェトは、ライラに喰ってかかって往復ビンタをくらっていた。

 こちらはこちらで負けず嫌いな性格が、訓練の過酷さを増悪ヒートアップさせているようである。

 こちらも子守は難しそうだ。

 やはりまずは、訓練を中断させる必要があった。


 ジェトとカカルは、新人の兵士よりも気骨があるとアーデスとカエムワセトは感じている。その証拠に、二人を鍛えている時のライラは、小隊で部下にブイブイ言わせていた頃よりも楽しそうだ。


 だが今は兎にも角にも、早急に子守り要因が必要だった。

 アーデスがライラに訓練中止の要請をしようとした時、先にカエムワセトが行動を起こす。


「三人ともお疲れ様。ちょっと、ライラに頼みたい事があるんだ。ハトホル神殿まで書簡を届けてほしいんだけど」


 だから、頼むよ。


 先程の新ハトホル神殿からの書簡を手にしたカエムワセトは、実に爽やかに嘘をついた。

 書簡を届けてほしいのは事実だったが、特に急ぎではない。しかし、“急ぎだから馬で”と前提することで、乗馬が出来ないジェトとカカルは除外され、必然的にお使い要員はライラ一択となり結果、訓練は中断される。


「でっ、殿下あぁぁぁ~っ!」


 主の来訪に気付いたカカルが、弓を放り出してカエムワセトに泣きついた。

 幼子を負んぶしているカエムワセトの腰にかじりつき、「おいら死ぬかと思ったっス~!」と、おいおい泣き声を上げる。


 カカルの子守りを当てにしてここまで来たのだが、まさかの子供がもう一人増えた状態になり、カエムワセトは途方に暮れる。


「かしこまりました。お任せください。すぐに行ってまいります」


 ライラは先程まで部下二人を蹴り倒していた時とは別人のような華やかな笑顔で、主の頼みを引き受けた。

 カエムワセトはアーデスが後ろで拳を握った気配を感じながら、書簡が入った筒をライラに渡す。


 これで万事うまくいくと思われた。

 しかし、ライラは同僚と主の期待を裏切り、予想外の行動に出たのである。

 自分が留守の間の課題として、ライラはジェトとカカルに「あんたたちはあと二十本あてたら休憩よ」と、鬼の様な宿題を出した。


「二十本!?」


 ジェトが悲鳴に近い声を上げ、カカルがあまりの過酷さに腕の力すら失い、すがりついていたカエムワセトの腰からずるりと滑り落ちる。


「少し休憩を挟んでもいいんじゃないか?」


 これではわざわざライラにお使いを頼んだ意味がなくなると焦ったカエムワセトは異議を唱えたが、ライラは珍しく主の忠告に耳を貸さず、首を横に振る。


「休憩なんて勿体ないですよ。今日はやっとの思いでこの一角を貸してもらったんですから。上官が飲み比べで――」


 言いかけ、ライラははっと顔を引きつらせて口をつぐんだ。

 たまたま、ライラが言葉に詰まった理由を知っていたアーデスは、同僚の可愛い失態に必死で笑いをかみ殺す。


「飲み比べ?」


 ライラの口から気になる単語を拾い上げたカエムワセトは、眉をひそめた。


 ライラは先の宴の席で、カエムワセトから飲み比べを禁止されていたのである。

 理由は、ライラの酒の飲み方が妙になまめかしく、軍ではライラの酒を飲む姿見たさに飲み比べを申し込む者が後を絶たない、という事情による。

 飲み比べの禁止は、ライラの身を守らんとするカエムワセトの配慮だった。

 ちなみに、ライラ自身は己の酒の飲み方がそれほどに男達を興奮させているとは、つゆほども知らない。ただ単に酒が強い自分に周囲が挑みたがっているだけだと思っているし、主であるカエムワセトが自分に飲み比べを禁止したのは、支給される酒を無駄にしない為だと信じている。

 故に、おめでたい赤毛の大酒のみは、中隊長からの『飲み比べで俺に勝ったら練兵場の一角を一日まるっと貸してやるよ』という申し出に、主には悪いと思いながら、乗ったのだった。

 そして、見事勝ちを収めたのである。


 だがそれをカエムワセトにそのまま伝えては、約束を破った事が露呈してしまう。

 ライラは「あー……えっとー……」と目を泳がせた後


「――そう! 上官が! 飲み比べで酔っぱらっていたところ、すかさず使用許可のサインを頂いたのです!」


 と口から出任せに嘘をついた。

 ライラは上手く言い逃れたつもりのようだったが、観察力に長けた主は、彼女の嘘を簡単に見破る。


「そうか。たまたま上官が酔っ払っていたところに……ね」


「ええはいまあ、そんなところ、です」

 

 疑わしげに目を細くしたカエムワセトの前で、嘘が下手なライラは早くもしどろもどろになっている。


 二人と数年来の付き合いであるアーデスは、そんな二人のやり取りを興味深そうに眺めた。

 カエムワセトの声からは、ヤキモチのような色が聞いて取れる。

 これまではお手手を繋いでチイチイパッパと仲良くしている幼子と変わらない二人であったが、少しずつ年相応の関係に近づいているのは明らかだった。


「とまあ、そういうわけですから!」

 

 部が悪い空気を跳ね返すように元気よくパン! と手を叩いたライラは、主から向けられる疑いの眼差しから逃れるように部下二人を順番に指差す。


「私の努力を無駄にしないためにも、頑張りなさいよね! あんたたち!」


 そして、「では行ってまいります!」と元気に赤毛を揺らしてカエムワセトに一礼したライラは、軽い足取りで階段を駆け上がって行く。


 子守り増員が期待できなくなり、過酷な課題を出され。練兵場に残った四人は、それぞれが複雑な想いで赤毛の親衛隊隊長を見送る。


 仲間と主が見守る中、最後の一段を上がった所でふと足を止めたライラは、上半身を捻って振り向くと、部下二人を見下ろした。猫科の肉食獣を連想させる、猛々しくも愛らしいキュートなその顔に凄みのある笑顔を浮かべる。


「もし私が帰るまでに終わってなかったら。分ってるでしょうね」


 殆ど脅迫である言葉を残したライラは、返事も聞かず厩舎へと走り去る。

 飴と鞭を使い分ける気のない鬼上官の訓練は、とことん厳しかった。


「おわらなかったらどうなるの?」


 ピプイがカエムワセトの長衣を引っ張り、邪気のない澄んだ瞳で訊ねて来た。

 悪気のないその質問を耳にしたジェトとカカルの肩が、ぴくりと震える。


「血祭りになるんですよ。ピプイ様」


 カエムワセトの代わりにアーデスが答えた。

 血祭り、という言葉を八歳の少女が知っている訳がない。


「ちまつり?」「おまつり?」「おまつりだー」「やったーおまつり~」


 幼い子供達は、『血祭り』の『祭り』という部分だけに反応し、楽しいものだと思いこんで両手を上げて喜ぶ。


 一方、ジェトとカカルは二人揃って身震いすると、すぐさま弓を手にとって一心不乱に矢を打ち始める。

 だが哀れな事に、一本も命中しない。


「こりゃあ子守りは無理だな。上で鬼ごっこでもやらせようぜ」

 

 諦めたアーデスが、子供達を連れて再び階段を登ろうと踵を返す。

 その時、新たな人物が練兵場に加わった。

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