第4話 よくある後継者争い 

「ああもう駄目だ無理無理! 練兵場に行くぞ!」

 

 予定を前倒ししたからといって、その予定が完遂出来るとは限らない。


 執務室に託児所を移した後に、三曲ほど子供用の可愛いお歌を歌った頃。早くもアーデスが音を上げた。彼の周りはもう、散乱したパピルスやら零れたインクやらで、しっちゃかめっちゃかである。


「ちょっと、待ってくれ。あと、これだけ……!」


 二歳になる乳母の子供を膝の上に乗せたカエムワセトは、パピルス製の書簡を掴まれないよう上に掲げながら、必死の形相でサインする。


 ミミズが這うような民衆文字が、新ハトホル神殿の建設現場からの書簡に記された。建設現場の監督官がこのサインを見たら、きっと自分に何かあったと思うだろうな、と目を丸くする監督官の顔を想像しながら、カエムワセトはサインを終えた書簡を丸める。


 続いてその書簡が入っていた筒に入れて戻すと、首にかけていた自分専用の印章を取りだし、封泥した。


 後ろを振り返ったカエムワセトは、カゴに山積みになっている未処理の書類を見てため息をつく。

 今日終わらせるはずだった事務処理は、三分の一もこなせなかった。けれどこのまま子供十人と仕事を続けても、無駄に疲弊してゆくのは目に見えている。

 カエムワセトはアーデスの要望通り、練兵場へ助けを求めに行くことにした。

 


 一時間足らずで一日分以上の労力を強いられた大人の男二人は、十人の幼子達に振り回されながら練兵場へ大移動する。


 アーデスとカエムワセトは協力しながら、廊下を曲る度に小さな頭の数を数え、突然始まったかくれんぼを中断させ、喧嘩を始めた妹達を引きはがし、階段向かって突進する足元のおぼつかない弟を慌てて抱き上げるなど、右往左往しながら子守りが得意な忠臣がいる練兵場を目指した。


 途中、列柱廊下で第6皇子のネベンカルと蜂合わせる。

 今年で十五歳になるネベンカルは、ラムセス二世の正妃の一人であるヘヌトミラーと共に数人の侍女を連れて、こちらに歩いてくるところだった。


 ヘヌトミラーはラムセス二世の同母妹である。

 皇后ネフェルタリやカエムワセトの母であるイシスネフェルトに比べると、ラムセス二世との結婚が少し遅れた彼女は、第一子誕生にも遅れを取った。


 ヘヌトミラーはカエムワセトとアーデスの姿を見つけると、隣を歩く第一子のネベンカルに何やら耳打ちした。ネベンカルは頷くと、カエムワセトに敵意の籠った眼差しを向けてくる。

 

 またか、と、カエムワセトは内心で嘆息した。

 顔を合わせるたびに彼ら親子は、カエムワセトに対し、あからさまな敵意を向けて来るのだ。


 カエムワセトらがいるのは、曲がり角のない廊下だった。どちらかが引き返しでもしないかぎり、すれ違う事は必至である。そして、引き返す気のないお互いの距離は、順調に縮まっている。


 叔母と弟から敵意の籠った眼差しを向けられたのは、お互いの存在に気付いた、最初のほんの数秒だった。それからは、彼らはこちらに一瞥すら与えてこない。

 このまま無視で通り過ぎるのも心証が良くないので、すれ違う直前でカエムワセトは軽く頭を下げて「叔母上」と挨拶した。


 挨拶を受けたヘヌトミラーは、前を向いたまま静かに立ち止まる。


「カエムワセトにアーデス。随分騒がしいことね」


 視線だけカエムワセト達に向けた彼女は、温かみのない声で応えた。


 アーデスは緊張した面持ちで、「は、これは失礼を」と頭を下げる。

 カエムワセトも落ち着いた声を意識しながら、返事を返す。


「少しの間、子守りを頼まれまして。これから練兵場まで行くところです」


「子守り? 乳母たちはどうしました」


 ヘヌトミラーの反応で、カエムワセトは己の失敗に気付いた。

 このままでは、乳母たちの一時的な職務放棄を進言した事になってしまう。

 もし子供達を他者に任せて城下に旅芸人を見に行った事がばれたら、彼女達はクビにはならないにせよ、減俸などの罰を与えられるに違いない。

 普段乳母たちの奮闘ぶりを目にしているだけに、それは流石に彼女たちが気の毒だとカエムワセトは思った。


 カエムワセトは必死に笑顔を繕いながら、あくまで自分から子守りを申し出たことを強調する言い分で切り抜けようとする。


「少々疲れているようだったので。彼女たちにも、休息は必要かと」


 目論見は成功したようで、ヘヌトミラーはラムセスによく似た目元を吊り上げ眼光を鋭くすると、甥の不抜けぶりを責める。


「あなたの仕事は子守りではありません。ネベンカルのように武芸に秀でていない分、文官としてしっかりお働きなさい!」


「精進します」


 カエムワセトはホッとしつつ、頭を下げた。続いて、いつの間にか自分の肩ほどまで背が伸びていた弟に笑顔を向ける。


「ネベンカルも一緒に来るかい?」


 兄からの誘いを、ネベンカルはプイと視線をそらせる形で断った。


「結構です。これから帝王学の授業がありますので」


 帝王学。


 カエムワセトは返答に困った。


 帝王学とは、王家や伝統ある家系・家柄などの跡継ぎが家督を継承するまでに受ける特別教育である。皇太子であるアメンヘルケプシェフやカエムワセトの兄はこれを必須科目として受けたが、それ以下の王子は自由選択だった。

 しかしだからといって、エジプトの王位継承は基本的に年功序列である。帝王学は第六王子のネベンカルが進んで学ぶようなものではない。

 ちなみに、ファラオの椅子に興味のないカエムワセトは、とっくの昔にこの授業を放棄していた。

 それを承知の上で帝王学を学ぶ行為は、皇太子や兄達に対する宣戦布告ともとれる。

 否。この母子の場合、実際そうなのだろう、とカエムワセトは若干の頭痛を覚えた。


 そして、兄弟と争う気のない不抜けた兄は、今日も宣戦布告に気付かないふりを決め込むことにする。


「そうか。それじゃあ、がんばって」

 

 穏やかな笑顔で、相手にしてみれば拍子抜けに等しい声掛けをした。

 絶妙のタイミングで、弟妹たちが「あにうえはやくー」とカエムワセトの腕や服を引っ張ってくれる。


「はいはい。わかったよ」


 カエムワセトは心の中で子供達の他意のない催促ファインプレーを褒めながら、顔では子供達に振り回されて困る兄を演じる。


「では、失礼します」


 アーデスに目配せしてヘヌトミラー一行に一礼したカエムワセトは、弟妹に引っ張られるふりをしながら、そそくさとその場を離れた。


 アーデスも無言でカエムワセトに倣って一礼すると、早足に主を追いかける。


 絶対に振り返らない、と心に決めながら、カエムワセトは列柱廊下の曲がり角まで、ずんずん進んだ。

 廊下を曲ったところでやっと立ち止まり、壁にもたれて安堵の息を吐く。

 今日も彼らの視線は痛かった。


「いつながらおっかねえな。あの奥方は」


 アーデスがため息交じりに言った。


「おにいさま、ピプイたちとあそぶからしかられたのですか?」


 気疲れしている兄の様子を見たピプイが、申し訳なさそうに訊ねて来た。


 不安げな顔で自分を見上げる妹の頭を撫でたカエムワセトは、優しく微笑む。


「違うよ。私は闘うのが下手なんだ。だから叔母上はしっかりしなさいと仰ったんだよ」 


 これは、よくあるお家騒動である。

 ヘヌトミラーがネベンカルを皇太子に立てたがっているのは誰の目から見ても明らかだった。

 だが、ヘヌトミラーがただ我欲だけで自分の息子をファラオに、と望んでいる訳でないのも周囲の人間は知っている。

 ヘヌトミラーは常にエジプトの為に行動し、物事を考える妃であるからだ。故に、彼女は家臣や民衆からの信頼も厚かった。

 愛国心が強く、兄であり夫でもあるファラオへの忠誠心にも厚いヘヌトミラーは、ネベンカルこそがエジプトを率いる王者にふさわしいと信じ、教育している。そしてネベンカルは母の期待に一心に応えようとしているだけなのだ。

 それ自体の心に、悪意は無い。

 だから皆、余計にこの母子の対処に困っていたのである。


 しかしながら何故かこの二人は、皇太子アメンヘルケプシェフよりも、ファラオの椅子に興味のないカエムワセトの方に当たりが強かった。

 そこだけはカエムワセト本人にしてみれば至極迷惑であり、周囲の人間から見ても不可解な点である。

 

 ――ずっと逃げ続けているわけにはいかないのは分っているんだが……。


 このまま放っておけば遠くない未来、兄弟間で血を見る争いが起こるかもしれない。だが、皇太子もカエムワセトも、元来争い事が苦手な性分である。気骨のある二番目と五番目は、遠く南へ上ったテーベで働いている。

 どうにかして穏便に事を済ませられないものかと、カエムワセトは打つ手に困っているのだった。

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