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第25話

 笑い声が響く。酒と料理の匂い。夜のロビーは宿泊者に向けて居酒屋となる。昨日と打って変わって満卓となり、せわしなく三人は動いていた。


「ご注文は?」


 クラトスが紙片を手に取り構える。酔った男らが一斉に言った。


「悪いが一人ずつ言ってくれないか?」


「おいおい。ちゃんと聞いててくれよあんちゃん。なぁ?」


 テーブルに座っている皆が笑う。気持ちを抑えて彼らの言葉を待つ。しかし、またもや全員が好きなように喋るので聞き取れなかった。


「おい。俺は一人ずつ言えって言ったんだ。何回も同じこと言わせるな」


「なんだと? こちとら客だぞ!」


「店員にも選ぶ権利はあるんだぞ。文句があるなら出てけ」


「んだとゴラァ! 表へ出ろ!」


 一人がバンと勢いよくテーブルを叩いて立ち上がる。


「あぁ。望むところだ」


 それに応えるようにクラトスも相手に詰めるた。酒臭い息が顔にかかる。


「先生! 何してるんですか!」


 慌てて駆け寄ってきたファムヴールが彼の腕を掴んで引き剥がす。


「先生はそっち行ってて下さい!」


「しかし——」


「ほら早く!」


 クラトスの背中をぐいぐい押す。カウンターへ追いやってまたあのテーブルへ戻っていった。


「また喧嘩でもしたのかい?」


 盛況な輪から戻って来たイサムが苦笑する。


「やはり俺にはこういうのは向いてないかもな」


「そんなことはない。テキパキ動いてくれるし、助かってるよ。まぁ、その短気な性格は痛いじゃろな」


 返す言葉もなくクラトスは黙りこくる。あちらこちら素早く行き来しているファムヴールを遠目に見る。院ではあんなにおろおろしている彼女がまるで別人のようだ。

 イグニールはどこいった——目に留まるのは彼女だけでロビーを何度見渡しても彼の姿はなかった。きっとどこかでサボっているのだろうと溜め息をついた。


「いやぁ、びっくりしたよ。ファムちゃん、あんなに出来るなんて」


 イサムが関心したようで深く頷く。


「ファムちゃん?」


「あぁ。可愛いじゃろ?」


 返答に困って曖昧な返事をした。


「ほれ、お前さんも負けずに頑張ってこい」


 ばしっと背中を叩かれる。じんわり熱くなる背中を感じながら再び輪に戻った。


「あ、先生丁度いいところに」


「どうした?」


「これ、キヨさんに持ってってもらえますか?」


 手渡されたのは客から受けた注文の紙片だ。


「私が注文取るので先生はキヨさんに渡してそれを持ってきて下さい。そうすればあまりお客さんと話さないで済むでしょ?」


「それはそうだが、お前とじいさんだけじゃキツいだろ」


「大変ですけど、喧嘩をされても困りますので」


「そ、そうか」


 ファムヴールは頷くと踵を返して後にする。ショックを受けながら、キッチンへ向かってキヨに受け取った紙片を渡した。


「ばあさん、また注文だ」


「はいよ。大盛況だね」


 にひひとキヨは笑った。目が線になり、しわと同化している。時折、長方形に破かれた紙を見ながら酒を注いでいる。


「じいさんと二人じゃあ、きっとてんてこ舞いだったよ」


「俺はたいして役に立っていない」


 そういえば、とクラトスが続ける。


「イグニールがどこへ行ったか知らないか?」


「見てないねぇ。そっちにいないのかい?」


「あぁ。ったく。どこへ行ったんだ」


 舌打ちをして頭を掻く。恐らく部屋か裏口の辺りにでもいると思うが、今は呼びに行く時間も惜しい。


「見かけたらロビーに来るよう言っておいてくれ」


「はいよ。じゃあよろしく頼んだよ」


 キヨは大きいグラスに注がれた酒とつまみを盆の上に乗せた。それを受け取ってキッチンを出た。









「お疲れ様です」


 ファムヴールが盆を片手に言う。

 さっきの賑わいは無くなり、客たちは各々部屋を帰った。残っているのは空いている皿とグラス、それと食いかけの料理。色んな匂いが混ざり合ったカオスな匂いを換気するため窓を開けた。


「ファムヴール、お前やるじゃないか。驚いたぞ」


「あ、ありがとうございます」


 彼女はスカートを広げて膝を少し曲げる。


「実家が宿屋を営んでおりますので、よく手伝わされていたんです」


「へぇ、そうだったのか。どうりで慣れているわけだ」


 関心していると、不意に玄関の扉が開く。


「終わったのか?」


「イグニール! お前——」


「まぁまぁ、そう怒んなよ」


 苦笑した様子で両手を顔と同じ高さに挙げた。


「いいじゃねぇか。俺がいなくても大丈夫だっただろ?」


「大丈夫なわけあるか。全く、ファムヴールがいたから何とかなったものの......。明日はちゃんとやれ。分かったな?」


「へいへい」


 ひらひらと手振って階段に行こうとする。


「おい。どこへ行く」


「部屋に戻るんだよ」


「ふざけるな。お前も片付けしろ」


「なんでだよ。大体、公子にそんな事させていいのかよ。うちの召使い共が見たら顔真っ赤にするぜ」


「あのなぁ」


 クラトスは大きく息を吐いて続ける。


「お前、俺が肩書きで人を見てないってもう分かるだろ? この場にイグニールを崇めるやつはいるか?」


 イサムとキヨが彼の出自について知らないだろう。ファムヴールもどう思ってるかは分からないが、少なくともゴマを擦ってへこへこ頭を下げてはいない。つまり誰もイグニールの事を公子だなんて思ってないという事だ。


「ここに来たくなかった気持ちは分かる。俺だってそうだ。だが、いつまでもそれを引っ張ってる方が嫌じゃないか? だいたい──」


「わーったよ! やればいいんだろやれば。一度説教が始まると長くなるからな」


 小さく舌打ちをしてムッとした表情で皿やグラスを片付け始めた。


「す、すごい。イグニール様が片付けをするなんて」


「あ? なんだって?」


「い、いえ! 何でもありませんわ!」


 あわあわした様子でファムヴールが手を振る。


「さ、早いとこ終わらせて寝よう。今日は疲れた」


 苦笑浮かべたクラトスは手を叩いて場を締めた。

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