間章
第21話
分からない。
僕はどうすればいい──暗い海に沈んでいく。手と足に何かがまとわりついて動けない。この間の課外授業からずっとその感覚が離れないでいる。倉庫でプロテジアと言い合いになったあの日からだ。
「はぁ......」
椅子に腰掛け、茶を飲む。ボラ村から土産としてもらった物だ。味はそれなり。可もなく不可もなく。
美味しいの一言で『王室御用達』の敬称がつく。そしてその土地の名産品となる。不味いの一言で酷評が広まり、その土地はたちまち破綻する。自分にはそんな力を持っている。税を上げるも下げるも、法を作るも、王の一言で全てが動く。他国に戦争をふっかける事だってできる。自分もいずれはその力を得る事だろう。
人格者になれ——父がよく言っている言葉だ。子供の頃から耳にタコができるほど聞かされてきた。当時は何を言っているのか分からなかった。そして今も分からない。
言っていることは分かる。優れた人格の持ち主を指す言葉。辞書にそう書かれていたから知っている。だが、優れているとはなんだ。自分なりに解釈をして、優れた人格とは正義感のある人だと思って行動してる。しかし、この前の一件からそれも疑問に感じるようになった。
「あ、遅刻してしまう」
もうすぐで授業が始まる。いつもはプロテジアが迎えに来てくれていたが、それもなくなった。
ぬるくなった茶を一気に飲んで部屋を飛び出た。
一回の授業を終え、小休憩をはさむ。凝った体を伸ばした。先生は淡々と次の準備をしている。分からない男だ。ヤツが一番よく分からない。
「アレク」
ビクッと彼は肩を震わせる。
「何でしょう?」
不安げな表情でこちらを見た。
「そんな顔するな」
フルートは苦笑した。
「この前の事なんだが......大変だったな。心からお悔やみ申し上げる」
ゆっくりと目を伏せる。
アレクは驚いた様子で両手を振った。
「そんな! とんでもないです! 殿下がそう言ってくれるだけでありがたいです。父さんもきっと喜んでます」
まただ。『僕』を見ないで『殿下』である肩書という嘘の自分。皆そっちを見る。こいつもだ。一度も『僕』を見てくれた人はいない。今まで気にならなかったはずなに、ボラ村からそれが気になって仕方がない。
「殿下?」
「え? あぁ、なんでもない。そうだといいな」
「絶対喜んでます!」
少しの間があって続ける。
「心配してくださってありがとうございます。僕はもう大丈夫です」
社交辞令で言っていることくらい分かったが、少し意地悪をしたくなった。
「そんなすぐ立ち直れるか?」
アレクは苦笑を浮かべた。
「完全に吹っ切れたわけじゃないですけど。でも、元気ですよ。つい最近、先生と話したんです。それで前向きになれたというか......また頑張ろうって思ったんです」
「ほう。どんな激励をもらったのか気になるな。ぜひ僕にも聞かせてくれ」
「それは......内緒です。恥ずかしいから」
彼はモジモジした様子で顔をそらした。
「ケッ、あいつのどこがいいんだか」
近くを通ったイグニールが不機嫌な表情で言う。
「貧乏人には優しいってか。そりゃよかったな」
「おい、イグニール」
「オメェも思ってんだろ。なんで俺たちが下等民なんかと同じ学級なんだ。ってな」
「違う」
「いいや違わないね。俺と同じ目をしてる。自分は他の奴とは違う。何かを満たしたくてたまらないんだろ?」
「お前なんかと一緒にするな!」
クッっと拳を握り締めた。
「あの! 二人とも喧嘩は辞めて下さい」
「あ?」
イグニールがギロッとアレクを睨んだ。
「オメェさぁ。今、俺とフルートで話してんの。分かる? 田舎の貧乏人が口を挟んでんじゃねぇ。あいつと何話したか知らねぇけど調子に乗んなよ」
気だるそうに彼は言う。苦しい顔をしてアレクはうつむく。しばしの間があって喉を鳴らして顔上げた。
「僕は貧乏人です。でも、二人と同じ学級でもあります。家とか生まれた場所は関係ありません」
声が震えている。目が少し潤んでいた。
「んだとテメェ! さっきのが聞こえなかったのか」
イグニールはアレクの胸ぐらを勢いよく掴んだ。
「お前たち何をしている」
クラトスが割って入る。
チッとイグニールは舌打ちをしてアレクを突き放す。ドカドカと大きい足音を鳴らして席へ乱暴に座った。クラトスも二人を一べつして教壇へ戻る。
「大丈夫か?」
今にも泣き出しそうな彼に声をかけた。
「はい。すみません。出しゃばったことを言ってしまって」
いや、とフルートは首を横に振った。
「だが、何故そうと分かっていながらあんなことを言ったんだ?」
「今までの僕だったら怖気づいて何も言えなかったと思うんです。でも、先生に、お前たちは家なんか関係ない。皆同じ学級で立場は一緒って教えてもらったんです」
「ほう」
「修道院に来たのも誰かの言いなりになりたくて来たんじゃんない。村のために来たんだって思うとこのままじゃいけないと思って」
「それで言ったと」
はい、と彼は頷いた。
「それは立派だな。おっと、もう始まるか」
アレクの方にポン肩を置いて席へ着いた。
俺はなんのために——国民と近い距離で触れ合う。そういう名目でここへ来たが、本当の理由は何なのだろうか。彼の様に何かを意志を持ってきたのではなく、ただ言いなりになって自分は来ただけ。殿下という鎧を取った『僕』は何が残るのだろうか。
「何かを満たしてたまらない......か」
その言葉が自分の胸を突くような感覚がした。でも、何を満たしたい? 何が欲しい? 自分に問いても分からない。漠然として曖昧なモヤが自分の中でまた大きくなった。
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