天使の翼

「先生! 大変です」

「おい三浦君、こっちも大変だ」


 え? と三浦が心山むねやまの視線の先を見ると、おばけえびが大量にぷかぷか浮かんでいた。


「太郎に二郎、三郎に吾郎、ジョージとメアリーもみんな……そんな私を置いてかないでくれ」

「せんせい、えびもいいんですけど、桜崎さんですよ」

「え、と誰だっけ」

「もう、もっとヒトにも興味持ってくださいよ。桜崎さん、治療をもうやめるって。理由は教えてくれませんでした」


 心山むねやまは小さく頷くと、へえ、了解。とだけ返した。


「先生! 一緒に新しい世界を見に行こうって言ったんじゃないんですか?」

「いや、それは言ったけど……」

「じゃあなんで簡単に諦めるんですか」


 死んだおばけえびを網で救いながら心山むねやまは答えた。


「いや、だから最初にも言ったけど、これは自分でやらなきゃ意味がないの。やめたいといった時点でもう終わり、もう解決は無理、さよなら〜」


 そう言ってからおばけえびの亡骸を涙を浮かべながら見つめていた。

 チャリンと自動ドアが動く音がした。


「すみません、心山むねやま先生は」

「あ、達川さん。ちょうど桜崎さんの話をしてたんですよ。どうしたんですか? 急に」

「それが……」


 達川は申し訳なさそうに口を開いた。


「数日は頑張ってたんですよ、思うところはあってもなんかしがみついている感じで。でもある時何か悟ったように『やっぱやめる』って」

「どうしてですか?」

「なんか、私はこれでいく、とかなんとか。変わってはいけないとか、そんなことを言ってました。なんとかなりませんか、先生」


 三浦は心山むねやまの肩を揺らした。


「あっ、こら揺らすな! 達川の死骸が落ちたじゃないか」

「達川……って私のことですか?」

「いえいえ、違います。何言ってるんですか、あなたは生きてるでしょ? 達川ってこのおばけえびのことです。このひょうきんな顔立ちが昔の広島カープにいた達川を思い出すんですよね、もう死にましたが」


 そういうと悲しそうな表情をした。


「先生、諦めるんですね。じゃあいいです、私、とっておきの柿の種見つけたのに。せっかくそれを先生にあげようと思ってたのに」

「ん? なんだそれ」

「高級老舗、銀座あけぼのの柿の種に、GODIVAのチョコレートの一番純度の高いチョコだけを丁寧に塗りつけた、最高級柿の種なんですけど……もう先生には関係ないですね」

「いや、ちょっと待て。それは興味あるな……」

「じゃあ桜崎さんを説得してください、説得できたらあげます」


 心山むねやまは三浦を睨んで、しばらく顎を震わせた。


「はいはい、やればいいんでしょ。ただね、強制はしないよ、正しいことをいうだけね」

「はい、それでいいです」


 達川が桜崎に連絡をし、そのままスマホを心山むねやまに渡した。


「もしもし? 桜崎さん。こんにちは。どうですか? 調子は?」

『先生、あれから色々考えたんだけど、やっぱり私は今の考えを変えるのはおかしいと思うわ』

「変えるというと?」

『部下が上司を馬鹿にしていいなんておかしいし、認めてもらえなくてもいい、なんて自分、考えられないのよ。この自分のおかげで今があるわけだし』

「いやいや、桜崎さん。言っておきますけど、いくらこんなおまじないを繰り返しても、あなたの性格は直りませんよ。あなたが幼い頃に培われた性格は墓場まで持っていってもらいます。この言葉『〜してもいい』というおまじないは何もあなたの性格を変えようというわけではありません、例えるなら……天使の翼です」

『天使の翼?』

「そう、あなたの持っている上司を尊重する気持ち。認められるためにきちんと仕事をする姿勢、責任持って行うふるまい。どれをとっても素晴らしい考え、行動です。あなたはそのおかげで今の素晴らしい地位と信頼を得ることができました。これはこれでいいんです、これを私は天使の翼と呼んでいます。

 ところがある日問題が起きました。あなたは大切な指輪を自動販売機の隙間の奥に落としてしまいました。それをどうしても取りにいかなければなりません。するとどうなると思いますか?」

『狭いから……なんか難しいそうね』

「そう、今まできらきらしてて、誇りに思っていた天使の翼が、自動販売機の隙間に入るとき邪魔になるんです。それでも入ろうとすると、みしみしと翼の付け根が痛み、引っ張られ、苦しいんです。でも指輪は取りにいかなければならない。あなたならどうしますか?」

『まあそれでも頑張るしかないわよね』

「普通ならそう考えます。しかしこうしてはどうでしょう、その時だけ翼を『折り畳む』そうすればあなたはスムーズに指輪を取りに行くことができる」

『そんな簡単に折り畳める翼だったのね』

「簡単ではありません、ある程度訓練は必要です。何せ、あなたの翼はあなたを今まで、そしてこれからも素敵な世界へ導いてくれる素敵なあなたの一部なのです。それを畳むなんて耐え難い苦痛を伴うはずです、一時期でもその瞬間はあなたは自分をみすぼらしく感じるでしょう、不安に感じるでしょう、でも安心してください。翼は決して無くなりません、無くしたくても無くせません。折り畳んだ翼は、時間が経つと勝手にまた広がります。なぜなら翼はあなたそのものですから」

『それがどういう関係があるの?』

「ここでいう翼とは、あなたのこだわりだったりポリシーのことです。先輩を敬う、人を認める、一生懸命責任感を持って仕事をする、こういった考えです。でもそれが時に仇となるシチュエーションに出会うこともあります。そんな時に一時的にそのアクセルを踏む足の力を緩めてあげるんです。そうすることで、解決することもあります」

『それは私のポリシーを否定しろと?』

「いいえ、そうではありません。少しだけ緩めるんです。今のあなたはオーバーヒートしているんです。オーバーヒートしているかしていないか、その判断は簡単です。あなたがアクセルを踏むか踏まないか、自分で選択ができるかどうかです。かっとなったあなたはアクセルを踏むしかない状況です。しかし訓練を積めば、アクセルも踏めるし、時に踏まないこともできる、選択肢が増えるわけです」

『なんか……でも怖い』

「わかります、今まで正しいと思ってやってきたことの逆をするのはとても怖い。全てを失ってしまうかもしれない、そう思うかもしれません。でも安心してください、たかだが言葉を唱えるだけであなたが変わるはずがありません、ぜひ騙されたと思ってやってみてください」


 桜崎は黙っているようだった。しばしの沈黙の後、ちょっと考えさせて、と言い残して、電話は切れた。


 三浦が心山むねやまの顔を覗き込んだ。

「先生! どうだった?」


 達川も涙目で、伺う。


「まあ、やるだけはやったってとこかな。あーー!」


 心山むねやまが三浦の足を思いっきりどけた。


「お前、達川の死骸踏むなよ! うわー、ぐちゃぐちゃになってゴミと区別つかなくなっちゃったじゃんかよー、かわいそう……」


 生きた達川はその場に立ち、一つ唾をごクリと飲み込んだ。

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