不気味な歯

@togotakano

第1話

「不気味な歯」 


 私はあの時から歩けなくなってしまった。しばらく口もきいていない。年金と補助金で何とか命をつないでいる。不眠症を患ってしまってから、不規則な生活によって食事の時間が狂いだし、あっという間に太っていき、ついには歩けなくなってしまった。そんな訳で私は朝も昼も夜もこの私の前にある、大きな窓の前に椅子を置いて座っている。元々はベッドで一日中横になっていたが、ある時ヘルパーの男が「こんないい景色が窓から見えるのだから」と私が退屈しないように気を使ったのか、ここに私を座らせたのだ。ただ座ってみたはいいものの、座っている間、さらに一回り体が大きくなってしまった挙句、本格的にこの椅子の上で余生を消化することが決まってしまった。一度おむつを取り替えるのだって1時間も格闘しなきゃならない。本当にみっともない話だ。


 足が動かなくとも、意外にも苦労はしていない。外に出歩かずとも、ヘルパーにお使いを頼んだら大抵のものは手に入れてくれる。


 こんな私だって、昔はかなり男前だった。常に2,3人の女がいた。若いうちだけじゃない。それは中年になっても変わらなかった。この醜い姿になる前は、見た目のダンディーさとプロポーションを保つために毎朝走っていたものだ。


 私がまだ今よりも三十程若かった年の冬、例に漏れず明け方のこの町を走っていた。その頃の私は、若い頃よりも健康を意識するようになってしまったようだ。これがしがない中年の男の日課であった。走っている間は田舎で薄暗い、今となっては退屈なこの町が、丘の上の美しい街であると実感できたのもまた事実である。


 その日も普段通り明け方のランニングコースを走っていた。その頃には最初に走り始めてから十年は経過していたと思う。女癖から分かるように飽き性の私には珍しく、走ることは習慣になっていたのだ。今でもその頃走っていて目についたものなんかはすべて鮮明に頭の中に記憶している。世代遅れの自販機、変わらない信号、白い屋根の家にこの町に似合わない柳の木。



その日の朝だって今みたいに頭の中で目につくものを復唱することで呼吸を整えていた。世代遅れの自販機、変わらない信号、白い屋根の家にこの町に似合わない柳の木。


――――黒いセダン。ん?なんだ、なんだ。こいつは初めて見た。


こんな田舎道の端っこに、しかも明け方に車を置いておくなんて珍しい。誰か乗っているのか?居眠り?それとも待ち合わせか?過去十年の間で初めて見る。普段見慣れた景色の中、普段見慣れていないものがあると人は少々不気味に感じてしまうだろう。私も例外ではない。ただ私自身の毎朝の習慣を変えるわけにもいかない。いや、正直な話、この時の私は好奇心というか怖いもの見たさもあったと思う。とにかくその時はそう考えながらそいつに少しずつ近づいて、真横を駆け抜けようだなんて考えていた。


私は宣言通りその黒いセダンの真横を駆け抜けた。駆け抜けながら目を横にやる。


人が、いや、何かが乗っていた。目を見開いてこっちを見ていた。


今思えばその目は私の二倍くらいあったはずだ。目蓋なんてばからしいほど大きく目を見開いていた。冷静じゃなかった当時でもその異常さにはすぐに気づいていたと思う。そしてその大きな目玉は微動だにせず、私の走るスピードに合わせて首ごと私を追いかけていた。間違いない。目が合った瞬間から目を離すことができなかったのだから、ずっと見ていたのだから、間違いない。


“何なのだ、私は今何をみた。私はいったい何を見たというのだ。”


心なしか私は走る速さを上げた。あまりの奇妙さに私は走ることだけに集中することができない。この汗は体温が上がって私の額を流れているものでは無い。その何かが確実に私に汗をかかせている。


 そのまま何も考えられなかった私は車のバンパーに対して垂直にかかる橋を渡る。いつものコースだからだ。というより今それ以外の逃げ道なんて考えられない。

橋を渡っているとき、人間の防衛本能からなのかその異常な奴が何かしてこないか気がかりで、つい奴に目をやってしまった。


 奴は車の真横に直立していた。背丈なんかはその辺の普通の子供と変わらないくせして頭がやけにでかく、おかしいくらい大きな目をしていた。そして通り過ぎた時と変わらず、奴の視線は首ごと私を追いかけて視線を一切そらさない。

私が悲鳴ともうめき声とも言えない声を出しながら走るスピードをあげた時、奴のそれまで気づかなかったくらい小さかった口の口角を一気に上げ、不自然に白い歯をこちらに見せてきたかと思うと上半身は起立の姿勢のまま、ひざの関節だけを曲げて走り出した。不格好な走り方からは想像もつかないほど速く、私を追いかけだした。今度は首ごとではない。体ごとだ。

 この時の私は恐怖のあまり、一歩一歩踏み出すたびに悲鳴を上げていたはずだ。しかしそれが間違えであったことをしばらく逃げくるってから気づいた。息が切れて声が出せなくなったころ、とうとう走れずに止まってしまった。しかし奴を見ると、こちらを見て様子をうかがっているが、私を追いかけてきはしなかった。安堵してしまったからだろうか。私は「もう、いったい何なんだ。」とボソッと口に出してしまった。すると奴は瞬く間に口角を上げて不気味な歯を見せた。奴が再び私を追いかけ回している最中にようやく理解した。奴は私の声に反応していた。

 理解したころにはもう我が家の玄関が目に入っていたもので慌てて飛び込んだと同時に施錠して、その夜は事なきを得た。また外に出たら今度こそ奴に捕まる。というよりもう奴を見たくない。何日も家に籠り、もう何も起こらないとわかっていても私はベッドルームで布団にくるまるしかできなかった。

 

 私はあの日から走ることなんかやめってしまって、今の見てくれで分かるようにブクブクと太って、まもなくして歩くことも不自由な体になってしまった。今ではこの醜い姿になってしまったことをとても後悔している。女を引っ掛けられなくなったからではない。あんな恐怖体験をしたのだ。女なんかのために走らない。じゃあなぜ私が走ることをやめて後悔しているか。それは歩けなくなってしまったからだ。


 歩けないことの不便さは家事ができないことや買い物ができないことではない。では何が一体不便だというかって?


ほら、私の正面にある窓を見てみろ。大きな頭に大きな目玉をつけて、こちらの様子をうかがっているだろ。もうわかっただろう。私が口なんかきいてしまったら、きっとその不自然な白い歯を見せてくるに違いない。口がきけない理由もそうゆうことだ。


―――君も家に帰ったら部屋の窓を開けて確認してみるといい。黒いセダンがないかどうか。なぜかって?私の目の前の大きな窓からその黒いセダンはもう見えないからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

不気味な歯 @togotakano

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ