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「藤田さーん、藤田さーん、ああ、いた」
遠くから声が聞こえて、私はふっと我に返った。公園のベンチに座ったまま、私はぼーっとしていた。夏の公園は相変わらず感傷的で、湿度が高く、それでも気温は少し下がり、風が私の体を通り抜けて去って行った。
「ワンちゃん、見つかりましたよ!」
それは、田丸さんの声だった。
「コロちゃん、見つかったんですか?」
「コロちゃん? マメちゃんですよ」
そう言いながら近付いてくる田丸さんが、驚いた顔をしている。
「藤田さん? どうしたんですか、マメちゃん、無事でしたよ。もう飼い主さんと一緒に家に戻りました」
私は、泣いていた。過去に気持ちが飛んで行っても、今まで泣いたことはなかった。でも、今は流れ出る涙を止められずにいた。マメちゃんは無事だったけれど、コロちゃんは寂しいままだ、と思った。家に帰ったら遊んでくれると思っていたのに、いくら待っても彼女は帰って来ない。もう一生会えないと、いつ理解したのだろう。まだ理解できず、彼女と遊ぶ日を待ちわびているのだろうか。プールは好きなのに海の波は怖がって吠えていたコロちゃん。ガラス越しにじっと手を当てていた彼女。コロちゃんに会えて、彼女の寂しさは少しは減ったのだろうか。私は、彼女の生きる時間に、少しは力になれたのだろうか。
「どうしたんですか」
田丸さんがベンチの隣に座る。私は、田丸さんが困惑するほど泣いていた。
私は、自分のこういう状態を理解できずにいた。日常生活は問題なく送れて、楽しい時間もあって、働けていて、友人もいて、それなのに、どうしてこんな風に、どうしようもなく悲しくなるときがあるのだろう。これが、毎日だったら、どこか悪いんだと思える。抑うつ状態なのか、とか、不安神経症かな、とか、思える。何でも診断をつけたがるのは看護師の悪い癖だ、と思いつつ、でも診断がつけばすっきりするところはある。でも、仕事にも支障がなく、近所付き合いもできて、楽しい時間も過ごせる。ヤサの家でホームパーティをしたときは、本当に楽しかった。看護師を辞めてから、初めてあんなに笑ったかもしれない。今日だって田丸さんと一緒に美味しくラーメンを食べてきたのだ。それでも、過去の記憶に引っ張られて意識が飛んでいってしまうとき、私は自分が自分じゃないみたいに、心が悲しくて仕方ないのだ。どうしたら、こういう時間を過ごさずに済むのだろう。せっかく、逃げてきたというのに。どうしていつまでも、過去は私を連れ戻しにくる。
隣に座る田丸さんは、しばらく黙ったまま、泣いている私を眺めていた。少しすると、自動販売機でコーヒーとミルクティを買って、ミルクティを私にくれた。それはよく冷えていて、そういえば喉が渇いている、と思った。私は「ありがとうございます」と言って、ミルクティを開けて、一口飲んだ。冷たい甘い液体が喉を通って胸に落ちていく。夏の風に吹かれて空っぽになった体に、甘い液体が染み込んでいく。
「藤田さんは、何を思い出して、ぼーっとしてしまうんですか?」
田丸さんは静かに話し出した。
「え?」
「今も、そうだったのでしょう? 前も言っていました。昔のことを思い出してぼーっとしてしまう、と。そういうとき、過去に記憶を持っていかれる、と言っていました。それで泣いていたのでしょう?」
私は……
「私は、看護師をしていたときのことを思い出しています」
人に話すのは初めてだ。
「前にも少し話しましたが、私は四年半看護師をしていました。働いていると、いろんな患者さんに出会います。いろんな状況の、いろんな病状の、いろんな人に出会います。どんなに手を尽くしても、亡くなる方は亡くなります。人は必ず死ぬんです。わかっていたことでしたが、日々目の当たりにすることに、耐えられなくなりました」
話しながらまた涙が出てくる。
「そのことを思い出して、気持ちが悲しくなってしまうのです」
するすると止めどなく流れる涙を拭いながら、そうか、私は泣きたかったんだ、と思った。思い出して、過去に連れ戻されるたび、私は泣きたかったんだ。
「それで、看護師を辞めました。逃げたのです」
田丸さんは、私の横顔を見ているようだった。私は、前を見ているから、目は合わない。
「笑顔でまた明日、と言った人が翌日にはもういない。毎日良くなりますように、と願って関わっていた人にもう会えない。目の前で急変した患者を助けられない。そんなことが続いて、辛くなって辞めました。逃げました。今も、逃げています」
田丸さんは少しの間、黙った。沈黙はどこへも行かず、そっと私たちの間に落ちただけだった。
「僕にその辛さはわかりません。わかるなんて、言えません」
そんなの当たり前だと思った。看護師同士だって、いちいち話題にしない。患者の死をあなたは悲しみましたか? そんな話になることはない。悲しいに決まっているから。でも、それをわざわざ言語化して共有できるほど、時間的、精神的余裕は、ない。
「でも、それは逃げたことになるのでしょうか」
「なりますよ。私が辞めても、患者は亡くなるし、最期を看取る看護師はいるんです。私がやるはずだった代わりに、患者の死を目の当たりにしている看護師がいるんです」
「世の中の看護師さんは、多忙な業務以外にも、そんな葛藤を持って働いてらっしゃるんですね」
「でも、ほかの人たちはちゃんと向き合って、受け止めて、自分の中で消化しながら働いています。使命感を持って、やっている人が多いんです。でも、私にはそれができなかった」
風が止まって、空気が公園に淀んでいるように思えた。夏の空気は密度が濃くて、すっかり日が暮れた空はいつもより黒い。湿気を含んだ喪服みたいな黒。お葬式みたいな黒。人が死んでいくときの、遺された人の気持ちみたいな黒。星の見えない狭い空に、自分の記憶を全て溶かして、忘れてしまえたらいいのに。
「看護師さんは、大変なお仕事だと思います。でも、辞めてからも、藤田さんは、いつも誰かのために行動していますね」
「そんなことありません」
「いいえ、そうです」
「では、性分なのでしょう。もともと人の役に立てている自分を認めることで、自分の存在価値を見出すような人間ですから」
「では、逃げてきて良かったですね」
「え」
ここで初めて田丸さんの顔を見た。いつも通りの、菩薩のような顔。
「ご自分でも言っていたじゃないですか。自分を守るためなら、逃げることも大事だよって」
「そうですね。でも、逃げたっきりです。私が辞めても、患者さんが亡くなることに変わりはないし、そこで働いている看護師はちゃんと向き合っているんです。私は逃げたまま」
「でも、正しく逃げたと思いますよ」
逃げることに正しいも間違いもあるのだろうか。
「患者さんと一緒に過ごす時間を、どうでもいいものと思わなかったから、お辛くなったのですよね。それは、ご自分の仕事と、命というものと、しっかり向き合って考えた結果、導き出された答えです。その答えが、看護師を辞める、ということだったなら、それは正しい逃げです」
「でも、逃げは逃げです」
逃げは逃げ。負けは負け。私には、続けられなかった。それは事実だ。
「では、どうして、辛いことから逃げちゃいけないのですか?」
「え?」
「どうしようもないほど辛いことから、逃げちゃいけない理由は何ですか?」
逃げることは悪いことだと思っていた。私は、怖くて、辛くて、負けて、逃げてきた。でも、どうして逃げちゃいけないのだろう。考えたこともなかった。ほかの人には大丈夫でも私にとっては乗り越えられないこと、そんな壁があって苦しいとき、逃げちゃいけない、と思い込んでいるのはどうしてだろう。サバンナでライオンに出くわしたインパラは、走って逃げるだろう。必死で逃げるインパラに「逃げちゃだめだ」なんて言う人はいない。人間だけなんだ。逃げないで立ち向かえ、なんて言うのは。心が壊れそうなほど苦しいとき、それでも逃げないで立ち向かわなければならない、と思うのはなぜだろう。
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