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先輩は、彼女の担当医に相談した。部屋から出ることのリスクは承知の上で、病院のロビーまで行けないか。ロビーまで行ければ、ガラス越しにだけれど愛犬に会うことができる。触ることはできないけれど、一目会えるだけで気持ちは違うのではないか。医者は、家族に相談すると言った。家族の協力がないと犬を病院まで連れてきてもらえないし、患者の願いを叶えることは、すなわち、彼女の予後が良くないことを暗に伝えてしまうことにもなる。家族は「退院したら会えるから」と患者に伝えて、いつまでも希望を持たせてあげたい、と思うケースももちろんあるだろう。患者の無茶な望みが叶えられるとき、それは、余生が短いと示すことになりうる。
医者は家族に連絡をし、面談をすると言った。それを待つしかなさそうだ。私は、どうかその面談が終わって、どんな結果であれ結論が出るまで、彼女の命がもちますように、と願うより何もできなかった。
翌日、さっそく家族との面談を終えた医者は「明日の午後の面会時間に、犬を病院の駐車場まで連れてくるそうだ。車椅子使用で、酸素ボンベ使用、一階ロビーまでの十五分の外出を許可する」と指示を出した。私は、ほっとするような、やりきれなくて心細いような気持ちがした。彼女は、最後の願いと言っていた。それを叶えられたら、彼女は、死を受け入れるのだろうか。
カルテを見ると、医者は家族への丁寧なインフォームドコンセントを詳細に記録していた。リスクとして、車椅子の移動が体力を奪うこと、肺への転移があるため呼吸機能が低下する可能性があること、一階は外来患者の往来も多いため、免疫力の落ちている彼女が何かしらの感染症をもらってしまう可能性があること、感染症に罹患した場合、最悪亡くなることも考えられること。その他、多くのリスクが家族に伝えられていた。その上で、医者として、患者が愛犬に会いたい、という願いは、患者の生きる意欲を前向きにする可能性もあり、患者のQOL(人生の質、充実)の向上を考えると、可能な限り叶えられる形で協力したい、と書いてあった。家族は、了承していた。
「明日、午後の面会のときにワンちゃん連れてきてくれるそうですよ。直接は会えないけど、ガラス越しには会えます。一緒に一階のロビーまで行きましょう」
私の発言に、患者は目を見開いて驚き、そして喜んだ。
「本当ですか! わあ嬉しい」
彼女は、床頭台に飾っている写真立てを手にとり、ぎゅっと抱きしめた。
「明日の午後まで、元気でいなきゃ。元気に面会しなきゃ、コロちゃんが心配するから」
そう言って、彼女は少し頬を上気させ、目を潤ませた。食欲がない、とここ数日あまり食べられなかった食事も「コロちゃんに元気な姿を見せたい」と八割ほど食べ、私をはじめほかの看護師からも「無理しないでね」となだめられていた。それでも、愛犬に会えるという喜びは、確かに彼女の希望であった。
翌日になり、午前中に清拭を行う予定であったが、私は迷っていた。患者の清潔を保つことは、感染症の予防の観点からも、心地良さの観点からも重要である。しかし、今日は午後の面会時間に、一階まで行くという大きなイベントがある。休息を優先させたい気持ちもあった。患者に聞いてみると「万全な体調で面会したいから、清拭は今日じゃなくていいです」と言った。
一階まで行くことが、どれほど自分にとって負担があることなのか、よくわかっているのだと思った。自分の病状を正確に把握している。その言葉通り、午前中の彼女は大人しかった。
面会時間になり、車椅子の準備をする。壁の配管から吸入している酸素をボンベに切り替え、車椅子へ移乗する。久しぶりに車椅子に乗った彼女は一時的に血圧が低下したが、足の下にクッションを入れて少し挙上させることで血圧も安定したため、予定通り一階まで行くことにした。
「なんか、恋人に会うみたいにドキドキします」
車椅子の彼女は、ベッドの上で見るより一層小さく見えて、それでも表情は明るく、楽しそうであった。人生の終盤にさしかかって、思い残すことがこれで一つでも減らせたらいい、と思った。二十代の若さで闘病し、余命がわずかであることを察している彼女の、思い残すことなんて、私なんかには計り知れない。それでも、一つでも減らすことができたら、一瞬でも笑顔でいる時間が増えるなら、私は看護の意味はあるのではないかと思った。結局、看護は一瞬一瞬の完結なのだ。長期的に見ると、人は必ず死ぬわけで、死なないことを目標にしてしまうと、看護をする意味を見失ってしまう。でも、いつか死ぬとしても、関わったその一瞬だけでも患者が安らぐ時間を持てるのだとしたら、それで一瞬の看護は完結するのではないか。
「あ、あそこにいますね」
私は、外来の待合室を突っ切って、病院の駐車場に面しているガラス窓のところを指した。患者の母親と、抱かれている柴犬が見える。
「ああ! コロちゃん!」
彼女の逸る気持ちが伝わって、私も車椅子を押すスピードが速くなる。私は、ガラスとの距離が一番近くなるよう、窓に横づけするように車椅子を停め、母親に頭を下げて挨拶をする。ガラス越し、対面を果たした彼女とコロちゃん。ガラスで匂いが遮断されていたからか、最初コロちゃんは気付いておらず、母親が、「コロ、ここ、ほら」と何度もガラスの反対側にいる患者を指していた。患者も「コロちゃん、コロちゃん」と名前を呼ぶ。そして、コロちゃんが彼女を見つけた瞬間、母親が抱っこしているのも大変なほどに、コロちゃんは全身で喜びを表現した。その暴れ方は、漁師の腕の中で暴れる水揚げされたばかりの鮮魚のようで、患者は「釣りたてのカツオじゃないんだから」と言って笑った。地面に降ろされたコロちゃんは、耳をへたっと後ろにさげ、甘えた顔をしていた。しっぽは飛んでいきそうなほどブンブン振っており、全身から患者に会えた喜びが溢れていた。ガラスに前足をつけて二足で立ち上がったり、ガラスを舐めたり、地面に寝ころびお腹を見せたり、体をくねらせたり、ぐるぐる回ったり、とにかく落ち着きなく動き回り、患者への愛情を表現した。彼女はというと、「コロちゃん、コロちゃん、かわいいね、いいこだね」と言いながら、本当にコロちゃんを撫でているかのように、ガラスを撫でた。
面会は十五分以内で、と言われていた。その時間を存分に使って、ガラス越しにスキンシップがとれたらと願った。患者本人も家族も、時間制限のことは知っている。そんなことを知らないのは、コロちゃんだけだ。仰向けになってお腹を見せ、地面にゴロゴロと体をくねらせ、患者に甘えて見せるコロちゃん。私自身、コロちゃんの見せる無邪気さに、救われるような、寂しいような気がしていた。
どんな状況でも、体感とは別に、実際に刻まれる時間は平等である。そして、私はその尊い時間に終止符を打つ役割だ。
「そろそろ行きましょうか」
私は、静かに患者に告げる。患者は、一瞬下唇を軽く噛んでから「はい」と言った。
「コロちゃん、またね! 家に帰ったら一緒に遊ぼうね!」
患者は、まだ一緒にい足りないと訴えるような愛犬を諭すように言い、ガラスにじっと手をあてた。コロちゃんは、その手のところに「お手」をするように何度も前足をあわせる。
「コロちゃん、ばいばい」
患者は小さく呟くと、「藤田さん、ありがとうございました」と私を見上げた。
「戻りましょうか」
私は、母親に「戻りますね」と伝え頭を下げた。母親は、コロちゃんのリードを握りしめて涙を浮かべているように見えた。患者の状況を理解していないコロちゃんだけが、まだまだ遊びたい、とはしゃいでいた。
患者は何度も振り向き、母親とコロちゃんに手を振った。外来を通りすぎ、病棟へ向かうエレベーターに乗る。
「コロちゃん、かわいいですね」
私は声をかける。
「でしょ? 本当にかわいいんです」
彼女の声は震えていた。
「本当にかわいいんです。いっつもああやって暴れるみたいに遊ぶんです。結構体力使うんですよ。散歩も長く歩きたがるし、走るの速いし、夏はビニールプールを出して一緒に水遊びをしました」
彼女の頬を涙が伝う。持参していたハンドタオルで顔を拭きながら、彼女はコロちゃんとの思い出を話す。
「コロちゃんも連れて、家族で旅行に行ったときがあったんですけど、海の近くの旅館で、みんなで砂浜に行ったんですよ。波打ち際を歩いていて、コロちゃん喜んで海に入るかと思ったら、波が怖かったのかビビっちゃって、波に向かって吠えるんです。かわいかったなあ」
ぽろぽろ泣きながら、彼女は少し呼吸を乱した。
「ご気分大丈夫ですか?」
私は、カニュレの位置を確認しながら、さりげなく患者の口唇の色を見る。
「はい。大丈夫です」
少し話すのを止め、彼女は酸素の投与がされている鼻から意識的に呼吸をする。
「今日は、コロちゃんに会えて本当に良かったです。藤田さん、ありがとうございました。許可してくれた先生にも、ありがとうって言わなきゃ」
そう言って、患者は病棟へ戻った。ベッドに戻ってからの彼女は、さすがに疲労しており、私の勤務が終わる時間まで眠っていた。バイタルサインは安定している。ほっとしながら、夜勤へ申し送りをした。翌日記録を見ると、夕飯の時間まで眠っていたらしい。
その一か月後、彼女は息を引き取った。意識があるうちは、写真を抱きしめ「コロちゃん」と呟いていた。意識が混濁してからは、家族がコロちゃんの写真を彼女の枕元に置いた。苦しそうでない、静謐な最期だった。私は、ガラス越しに暴れながら彼女との対面を喜んでいたコロちゃんの姿を思い出していた。
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