「僕も逃げてきました」

 田丸さんは、呟くように言った。

「でも、田丸さんこそ、いつでも誰かのために行動なさいますよね」

 私なんかより、田丸さんのほうが、ずっと人に優しい。

「ヤサのお母さんが怪我をしたときも、真帆のときも、いつも力を貸してくださいました。いつも人のために行動できる優しい人なんだと思います」

 なぜか田丸さんは、少し恥ずかしそうに笑った。

「僕はそんなにできた人間ではありませんよ」

「いえ、そうは思えません」

「そんなことないんですよ」

「そんなこと、なくないです」

 田丸さんは、決まり悪そうに頬のあたりに手をやってから「うーん」と言った。

「うーん。いつか言うつもりではあったけど……今……か」

 ぶつぶつと独り言のように呟く。

「何ですか?」

「んー、もしかして気付いていませんか?」

「何がです?」

「僕が行動しているのは、藤田さんが困っているときだけですよ」

「え?」

「ほかの方のために何かしようと奮闘することは、ほとんどありませんよ。藤田さんの役に立てるかもしれない、と思うときだけです」

 少し笑いながら、話す田丸さん。

「ええ? それは、どういう……」

「僕は逃げながら生きてきましたが、逃げた場所が間違っていなかったと確信しているんですよ。だって、藤田さんに出会えましたから」

 顔が上気するように熱くなるのを感じた。涙がすっと止まった。田丸さんは、この期に及んで、爽やかに微笑んでいる。

「ご自分ではわかりませんかね。藤田さんが、どれほどまわりを救っているか。ヤサのお母様や岡野さんだけではありません。僕は、藤田さんが工場に就職してくれてから、それまで以上に働くのが楽しくなりました。僕だけじゃありません。藤田さんが就職してくれるまでは、岡野さんと椎名さんは、それほど親しく話していなかったのですよ。でも、間に藤田さんを挟むと、不思議とあの二人も自然と会話するようになりました。板木さんも、そのことをとても喜んでいました。たぶん無意識なのでしょうけれど、人と人との関係性の潤滑剤のような役割をしている人だな、と思って見ていました。いつも人のことを優先して考える少し控えめなところも、相手を思いやるところも、それでいてご自分の中に正義という信念を持っているところも、僕は尊敬しています」

 頬がぼわっと熱くなる。

「褒めすぎですよ。私はそんな人間じゃありません」

 藤田さん、と名前を呼んで、田丸さんは私を正面から見つめた。微かに吹いた風が、田丸さんの前髪を揺らす。静かな公園。夏の、ノスタルジックでセンチメンタルな夜。

「僕は、藤田さんのことが好きです」

 一瞬、湿度が数パーセント低下した。

「僕とお付き合いしていただけませんか? 藤田さんと一緒なら、どこへ逃げても怖くありません」

 突然のことで、驚きのほうが勝っていた。目の前の、お人好しが服を着たような菩薩は、ただの菩薩じゃなかった。鼓動が激しくて、どうしていいかわからない。突然の告白に動揺している私とは裏腹に、落ち着き払っている田丸さん。私のほうが混乱している。

「少し……考えさせてください」

「ええ、もちろんです」

 人の生き死にを目の当たりにすることが辛くなって、私は逃げてきた。逃げた先で、田丸さんに出会って、私は田丸さんのことをどう思っているのだろう。思えば、いつもそばにいてくれた。缶コーヒーを包んでいる大きな手に、触れたい?

 じっと田丸さんの手元を見ていると「ん?」と首をかしげながら、「手が何か?」と言われるから、「いえ、何でも……」と言って目をそらす。さっきまであんなに悲しくてどうしようもない気持ちを消したいと思っていたのに、田丸さんに話したことで、その気持ちは落ち着いていた。いつもそうだ。田丸さんには、なだめられてばかりだ。田丸さんと一緒にいると、落ち着く。ベンチに、少し間隔を開けて座っている田丸さんの、長い腕。あの腕で、今肩を抱かれたら私は嬉しいかもしれない。これは、恋愛感情なんだろうか。

「じゃ、今日は帰りましょうか」

 何事もなかったように立ち上がる、落ち着いている田丸さん。

「あ、はい」

 私も立ち上がって、膝に抱えていたリュックを背負った。とりあえず、週末の間は返事を保留にして考えられる、と思った。次に田丸さんに会うのは、月曜日だ。月曜日? なんだか遠く感じる。あと三日も田丸さんに会えないのか。

「藤田さん、僕のことすごく良い人みたいに言いましたよね」

「え、はい。だって、そう思います」

「じゃ、ちょっとだけ、悪いこともしますね」

 悪いこと? と思った瞬間、田丸さんがすっと近付いてきて、私を抱きしめた。

「た、田丸さん……」

 少し汗をかいたTシャツの胸に顔をうずめ、私は背の高い田丸さんに抱きしめられている。温かい。ちょっと甘いような、優しい田丸さんの匂い。

 ほんの数秒で、田丸さんは私から離れた。

「突然、すみません。でも、僕だってそんなに良い人じゃないって、わかりました?」

 珍しく少しふざけたような口調にドキドキしていた。まともに顔を見られない。どういうことだ。こんなことをする人じゃないと思っていた。でも、でも。私は自分の中に沸き起こる感情を、渦巻いてせり上がってくる気持ちの高揚を、止める必要はなかった。

 私は、田丸さんのTシャツを小さくつまむ。

「あの……」

「はい」

「もう一回……してください」

「え?」

「その、もう一回……」

 そう言って半歩近付くと、田丸さんはさっきよりも強く私を引き寄せて、抱きしめた。嬉しかった。私はこうされたかったんだと、やっとわかった。田丸さんが真帆のことを好きなんじゃないか、とあんなに気になっていたのは、こういうことだったんだ、と初めて気が付いた。自分の気持ちにも気付かないなんて、本当に私は鈍感だな、と思う。疲れているときも、人を好きになっているときも、いつだって自分の本当の気持ちに気付かない。でも、今気付かせてもらった。田丸さんが、珍しくちょっと悪いことをして、気付かせてくれた。田丸さんの腕の中で胸に顔を押し当てて、今までにない心地良さと、気持ちの良さを感じていた。

「告白の返事はどうなりますか?」

 田丸さんの声が耳のすぐ上から降ってくる。柔らかくて優しくて、それでいて今までにない緊張も含んでいた。私は、田丸さんの背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。

「私も田丸さんのことが好きみたいです」

 田丸さんはゆっくり息を吐いた。

「そうですか……良かった……。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 抱き合っておいて敬語で挨拶をするのは、ちぐはぐでおかしかった。でも、黒い暗い夜にたくさん泣いたこと、そして抱きしめられたときの安心と高揚が渦巻くような不思議な気持ちは、きっとずっと忘れないと思った。


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