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荷物を一通り片付けて、ソファにどんと座ると、大きなため息が出た。何年も焦がれていた平和で賑やかなお正月は、確かに楽しかった。甥っ子はかわいいし、両親や姉とゆっくり会えるのは嬉しかった。家族というのは、安心もするし、充足感も与えてくれる。でも、帰宅して一人になってみて、この静かな空間をどれほど欲していたか今実感している。私には、賑やかすぎたのかもしれない。特に子供の持つパワーはなかなか圧倒的で、一晩一緒に過ごすには強すぎたのだ。人間の持つエネルギーに中てられた、といった感じか。
少し休んでから、財布とエコバックを持ってコンビニへ行こうと立ち上がる。家を出る前に、一回洗面所に寄って髪を梳かした。伸ばしっぱなしの髪は肩よりもう二十センチほど伸びている。もともとクセのない髪質で、黒いストレートは放置していても邪魔にならない程度には落ち着いている。鏡の中の、昔は童顔だと言われていた顔。看護師をしていた頃、いつからか同僚に「藤田さん、寝不足?」「顔色悪いけど、大丈夫?」などと言われることが増えて、自分でも鏡を見るたび「老けたな」と思うようになった。二十代も後半だからだろう、と思っていたが、看護師を辞めてから、少しずつ顔色と老化が回復している気がする。年齢というより、別の原因で老けて見えていたのかもしれない、と最近は思う。そうだとしても、別に美人というわけではない。特にこれと言った特徴のない、平凡な顔。美人でもなければ、特別不細工というわけでもない。平均より少し下、中の下。
中の下の分際で、どうしてコンビニに行くだけなのに鏡などじっと見ているのだ、と自分であきれながら、向かいのコンビニにいる店員(さきほど外を掃除していた男性)のことを思い出す。実は、その店員がちょっとだけ格好いいのだ。私はそんな理由だけで、ここに引っ越してきて良かった、と少し思っている。おそらく少し年上で、名札には「浜田」と書いてある。そのまま「はまだ」さんと読むのだろうと思っているのだけれど、今のところそれ以上の情報は何もない。
最初に見たのは、引っ越してすぐのときだったはずなのだけれど、格好いい店員がいるなんて、全く気付いていなかった。顔を合わせていても、見ていなかったのだ。見ているようで、見ていない。風景と同じで、ただ網膜に映して、情報として脳で解読していただけ。人を人として、ちゃんと認識していなかった。誰の顔も同じように見えていた。それが、二カ月ほど前、つまり引っ越して四カ月ほどして、初めてその店員の顔を認識できたのだ。
十月末だったと思う。休日で、特にすることもなく、家で映画を観ていた。クリストファー・ノーラン監督の新作が配信されていて、とてもおもしろかった。看護師を辞める一年ほど前から、映画も小説も楽しめなくなっていたが、この頃からようやく、また観られるようになったのだ。観終って、そういえば集中して観られたしちゃんと楽しめるようになったな、と漠然と思って、時計を見たら十五時を過ぎた頃だった。小腹が減っていると思って、コンビニへ行った。ペットボトルの緑茶を持ってレジへ行って、「あと、あんまんください」と言ったとき、店員と目があった。
「はい。あんまん一つ」
コンビニ店員にしてはあまり愛想のない、そっけない口調であった。背が高くて、切れ長の目が凛々しくて、塩顔。トングであんまんを挟み、紙に包む手つきが丁寧だと思った。
「袋いりますか?」
「あ、はい。お願いします」
エコバックを持っていたのに、所作を見ていたくて、とっさに有料ビニール袋を買ってしまった。素敵な人だ、と思った。名札を見ると「浜田」とあった。
何に疲れているのかもわからないほど疲労していた私にとって、男性を素敵だと思えたことは新しい発見だった。こんな気持ちになれる余裕が、少しだけ出てきた。そんな風に思える出来事だった。以降、コンビニに立ち寄ると、浜田さんを探してしまうのだ。
別に、どうにかなろうと思っているわけではない。私のような、可もなく不可もない女は、どうにかなろうと思ってすぐにどうにかなれるものでもない。ちょっと格好いい男性店員のいるコンビニで、その人がレジ打ちをしてくれて、「ありがとうございました。またお越しください」と言ってくれる渋めの声を聞くだけで、ほんの少しだけ心が潤う。好みの芸能人を見て、格好いいなーと思う感覚に似ている。一方的な微量のときめき。砂漠に数滴の雨を吸わせるようなもので、あっという間に干上がるとしても、その瞬間だけは確かに微量潤う、というだけのことだ。
店に入ると、いつものコンビニのテーマソングではなく、お琴で弾いている「さくらさくら」が流れていて、まだお正月三が日であることを実感する。何気なく確認するが、浜田さんはレジにいなかった。雑誌コーナーをちらっと見てから、サンドイッチのある角を曲がった途端、棚で見えていなかったコーナーの品出しをしている浜田さんがいて、「おっ」と声を出しそうになる。しゃがんで、細身の長身を屈めて商品棚を整理している。長い腕を伸ばし納豆を並べ、きれいな手で卵のパックを重ねる。繊細な卵のパックを優しく持っている様子を、つい立ち止まって見てしまう。人間の手は、握るか、そっと摘まむか、のどちらかの動きしかできないようになっている、と聞いたことがある。浜田さんは、卵のパックをおそらくそっと摘まんでいる。指で摘まむようなことではなく、手の平全体でそっと優しく丁寧に運んでいる。決してぞんざいに扱ったりしない。
私が立ち止まっていることに気付いた浜田さんは、少しだけ振り向いて「失礼しました」と言って、立ち上がった。私がそのエリアの商品を取りたがっていると思ったらしい。
「あ、すいません」
私は作業の邪魔をしてしまったことを恥じながら、買うつもりのなかった豆腐を一丁、カゴに入れた。
レジは浜田さんではなかった。年配の女性の店員で、にこやかで声が大きい。
「ありがとうございました~」という元気な声に見送られてコンビニを出る。一度振り向くが、浜田さんはもう見えなかった。
四日になり、仕事が始まる。
看護師を辞めてから、一カ月は何もしなかった。寝て、とにかく寝て、ときどき嫌な夢を見て声をあげて起きて、また寝た。寝ても寝ても眠れるのが不思議だったけれど、気持ちも体も、眠りを欲していた。一カ月、十分すぎるほど眠ると、少しずつ食欲が戻って来た。看護師を辞める直前は、まわりから心配されるほど痩せていた。半年に一度は胃腸炎になり、夜勤明けに外来の処置室の端で点滴をしてもらってから帰る、なんてこともあった。それが特別なこととは思っていなかったし、まわりからも異常だとは思われていなかった。退職してからは、胃腸炎の症状はない。自炊を始めて、朝食も食べるようになった。体重はすぐには増えなかったが、確実に食べる量は増えていた。そして、三カ月が過ぎた頃、アルバイトを探し始めた。なるべく人と会わなくて済む職場。人との関わりの少ない職場を探した。人と会うことを億劫に感じていたのだ。そして見つけたのが、携帯電話の部品の検品だった。
職場の工場までは歩いて十五分ほどだ。仕事中は作業着があるから、通勤は適当な服で大丈夫だ。最初は、それこそ部屋着と区別のつかないような服で通勤していた。別に誰にも何も言われない。更衣室で作業着に着替えてしまうから、どんな服でも関係ない。二カ月前、コンビニで浜田さんを見つけてからは、さすがに少しまともな服を着ていくようになった。それなりに普通の服装。それでも、別におしゃれではない。
工場につくと、門の前に門松が飾られていた。
更衣室は寒い。みんなさっさと着替えて工場内に向かって行くから、暖房を入れていないのだろう。私も手早く作業着に着替えていく。
「冴綾ちゃん、おはよう。あけましておめでとう」
背後から声がして、作業ズボンを履きながら振り返ると同じ作業場の同僚、
「おはよう。あけましておめでとう」
「ごめん、そんな恰好のとき声かけて」
そう言いながら真帆が笑う。私はズボンを履きかけだったから、後ろから見たらパンツが丸見えだったのだろう。白衣を着なくなって、透ける心配をしなくて良くなった今でも習慣で買ってしまう地味な色のパンツ。
「ああ、こっちこそ。お見苦しいものを失礼」
冗談を言いながら作業ズボンを履く。真帆は、私が働き始めたときにはすでにこの工場で働いていて、年下だが、検品の仕方など教えてもらったので、仕事上では先輩だ。年齢層の幅の広い職場の中、同じ二十代で独身で、話すことも多く自然と仲良くなった。工場の仕事以外にもアルバイトを掛け持ちしていて、一緒に暮らしている彼氏がいるらしい。前に彼氏の話になったとき「貢がせてもらってます」と弱弱しく笑ったところを見ると、「夜の仕事をしているそうよ」といった噂好きの人の言葉も、存外外れてはいないのだろう。でも、本人が幸せなら、まわりがとやかく言うことではないと私は思っている。
「冴綾ちゃん、帰省したの?」
「したした。あ、そうだ。五平餅もらってくれない?」
「五平餅? なんだっけそれ」
「なんか、すりつぶしたお米を平らにしたやつ。レンジであっためて味噌ダレつけて食べるの」
「なにそれ、超美味しそうじゃん」
「美味しいんだよ、私好きなんだけど、食べきれないくらいもらってきたから」
「ありがとう」
そう言いながら、真帆はざっくりとしたセーターを脱いで、長袖のヒートテックの下の豊かな胸を揺らして着替えた。私は、痩せ形で背も低い貧相な自分の体を見下ろし、顔立ちも体つきも、神様は不公平だな、と思う。
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