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駅伝が始まって少しすると、玄関チャイムが鳴った。
「おお、こりゃ今年もゆっくり駅伝どころじゃないな、残念残念」
父が全然残念そうじゃない口調で言いながら立ち上がる。よっこらせ、と言いながらも、軽やかな足取り。
「じーじ、あけましておめでとうございます!」
甥っ子の大きな声がする。姉の家族が帰省してきたのだ。大晦日から元日までは義兄の実家で過ごすと言っていたから、昨日の夜、横浜に帰ってきたのだろう。
「ただいまー」
「あけましておめでとうございます」
姉の
「お母さん、これ、向こうのお義母さんから」
そう言って、姉が次々とテーブルに品を並べていく。お菓子や餅や野菜などだ。その手を止めずに私を見て「冴綾、久しぶり」と言う。
「久しぶり」
「埼玉めっちゃ田舎。なんにもないの」
義兄の実家は埼玉県だ。鼻に皺を寄せながら、義兄に聞こえないようにそっと私に耳打ちする姉。私たち姉妹は、仲が良い。
「そんなことないでしょ」
私は思わず笑ってしまう。
「なーんにもない。田舎ってヤダわー」
夫の実家に泊まりに行けば、良好な関係であっても気苦労はあるのだろう。自分の実家で、愚痴の一つでもこぼしたくなるのは仕方ない。
「冴綾も、これもらってくれない?」
そう言って姉が取り出したのは、一枚ずつ真空パックにされた大量の五平餅だった。
「あ、五平餅」
「好きでしょ?」
「うん、好き」
五平餅は長野県や愛知県が有名らしいが、義兄の実家の近くでもよく売っているらしい。義兄の実家が埼玉県のどのあたりなのか知らないが、長野県と隣接している地域なのかもしれない。平たい俵型で、甘い味噌ダレをつけて食べると美味しい。
はあ、と声をあげながら姉は大きく伸びをして「お母さん、紅茶淹れて~」と言った。
「はいはい。直人さんも紅茶でいいですか?」
「はい、すみません」
義兄は穏やかでおとなしい人だ。
「
母は、玄関でまだ「じーじ」と遊んでいる孫に声をかける。バタバタと走る音が聞こえ、五歳になる甥っ子がゴールテープを切るような勢いでリビングに入ってくる。去年会った時より、ずっと背が伸びているように見える。マフラーを巻きつけられて着膨れたた甥っ子。
「修ちゃん、オレンジジュース飲む!」
叫びながら、何か剣のようなものを振り回している。
「修ちゃん、久しぶり。でかくなったね」
「あ! さーやちゃんだ。あけましておめでとうございます」
走り回っていたくせに、新年の挨拶のところだけ気を付けをしてお行儀よく頭を下げるから、かわいくて笑ってしまう。
「あけましておめでとうございます」
私も頭を下げる。
「さーやちゃん! お年玉!」
「はいはい」
私は鞄の中からポチ袋を出して、甥っ子に渡す。修はそれを丁寧に両手で受け取り「ママー! お年玉もらった!」と姉に駆け寄った。
「もらったんじゃなくて、自分でねだったんでしょ。お礼言ったの?」
「さーやちゃん、ありがとう!」
「はい、どういたしまして」
私は、もともと子供好きということもあるが、自分の身内は特にかわいいものだな、と頬が緩むのを感じる。
「すみません、ありがとうございます」
義兄が私に言うから、「いえいえ」と笑って返す。
「ふどうみょうおう! ひっさつ! えんまぎり!」
修は着膨れていたコートやマフラーを脱いで、また走り出す。大きな声を出して剣のようなものを振りかざし、じーじを斬りつけている。五歳児は忙しない。
「うわ~やられた~」
父は倒れるふりをする。
ふどうみょうおう、とは不動明王のことだろうか、と思っていると姉が「好きなアニメのセリフなの、あれ。必殺技なのよ」と説明してくれる。
「向こうのお義父さんが、修が欲しがっていた、好きなアニメのオモチャの剣を買ってくれてね。それで今はご機嫌」
大して広くない実家のリビングを走り回りながら剣を振り回し「ふどうみょうおう!」と、おそらく意味はわかっていないだろう言葉を大きな声で叫び、修は元気いっぱいだ。両親はすっかり、じーじとばーばの顔になり、遊びに付き合っている。よく「孫は目に入れても痛くないほどかわいい」などと聞くけれど、両親を見ているとその言葉が、言い得て妙だと納得する。そして、先に結婚してくれて、子供も産んでくれた姉に感謝する。この小さな怪獣を、私は育てられる気がしない。穏やかな顔で子供を眺めている姉と、確実に幸せ太りしている義兄を見て、結婚って、きっと良いものなのだろうな、と思った。
ここ数年で一番賑やかでのんびりしたお正月を終えて、三日の午後、実家を出る。紙袋に、お節料理の残りや親戚たちが実家に贈ってきたお年賀を分けてもらったものや五平餅や母が焼いたクッキーや……大量に詰められているものを抱える。実家からの帰りは両手にいっぱいの荷物になる。こんなに一人で食べられるわけもないのに、断らないほうが親孝行である気がして、母が持たせてくれるものは断れない。
看護師の仕事を辞めて、まず引っ越しをした。多少の貯金はしてあったが、看護師の給料は、ほかの仕事と比較して高額なほうである。その給料が入らなくなるわけだし、辞めたときはすぐにアルバイトを始めるつもりもなかったから、とりあえず家賃の安いところに引っ越して、何もしないでいたかった。
生活に必要な最低限の荷物だけまとめて、一人分の引っ越しはパックで五万円しなかった。探せば、安くてきれいなアパートもけっこうあった。駅から徒歩十八分という立地の微妙さが値段に現れたのか、今のアパートは築五年のワンルームで家賃五万三千円。横浜市内と考えたら安いだろう。
大荷物で十八分歩くのはきついから、駅からタクシーを使ってアパート前で停めてもらう。タクシーを降りると、北風がびゅっと吹いて前髪を揺らした。
アパートは、全部で六部屋。一階の右端だけ空き部屋で、あとは埋まっている。私は二階の真ん中。ちらっと向かいのコンビニを見ると、寒空の下、店員の男性が店の外を掃除していた。あとで何か買いに行こう、と密かに思う。
たくさんの荷物を抱えていると、アパートの二階の廊下から、隣に住むヤサが声をかけてきた。爽やかな若い男性だ。
「さーや、こんにちは」
「あ、ヤサ。あけましておめでとうございます」
「おー、あけましておめでとございます」
ヤサはきれいな白い歯を見せて笑う。日本の冬は寒いだろう、と思うのだけれど、ヤサは薄手のセーター一枚であった。
半年前、引っ越しの挨拶に行ったとき、東南アジア系の外国人男性が出てきたときは正直驚いた。褐色の肌、爽やかな笑顔、引き締まってほどよく筋肉のついた腕が白いTシャツから伸びていた。外国人であるだけで驚いている自分に、無自覚の差別を感じた。どこの国の出身であろうと、驚くことなどないはずなのに。調べてみると、在日中長期在留外国人は257万人。たったの1.9%だというから、驚くのも仕方ないのかもしれない。対して、例えばアメリカでは、14.3%。スイスに至っては28%らしい。そんな環境でヤサは生きている。
あれは、真夏の、晴れた暑い日だった。私はヤサに日本語が通じるのか不安に思いながら挨拶をした。
「隣に引っ越してきた藤田ふじたです」
「フジタ? なまえ?」
「はい。ふじた、です」
「みょーじ?」
「名字……はい」
「おー、カンボジアじん、みょーじ、もってない。したのなまえは?」
そこで私は、彼がカンボジア人であると知った。そして、カンボジアには名字がない、ということを初めて知った。
「名前? えっと、冴綾。さあや、です」
「おー、さーや! よろしくです。わたし、ヤサ。カンボジアじん。ヤサとさーや。なまえ、にてます」
「そうですね。よろしくお願いします」
親近感を持たせるような陽気さがあった。
「わたし、ぎのーじっしゅーせーです」
技能実習生か。
「そうですか」
「はい。まいにち、のーぎょー」
のーぎょーと言いながら、屈んで何か作業をするジェスチャーをする。農業の技能実習のために日本に来ているらしい。
「大変ですね、頑張ってください」
「はい。がんばってます」
にこやかな青年に、頑張れも何もない、と内心思った。この青年は、十分頑張っているじゃないか。お前なんかに頑張れなんて言われたくないよ。そんな自嘲めいた心の声を無視して、菓子折りを渡し、挨拶を済ませたのだった。
それから半年、年越しも国には帰らず、アパートでのんびり過ごしていたらしいヤサ。
「さーや、にもつ、すごいね」
そう言って速足に階段を下りてきてくれた。
「そうなの、実家に帰っていたの」
「おとうさん、おかあさん、げんき?」
「うん。元気だったよ、ありがとう」
「よかた」
私のたくさんの荷物を半分以上持ってくれたヤサは、軽々と階段を登っていく。ヤサは国にいるであろう家族に会いたくならないのだろうか、と当たり前の疑問が浮かぶが、技能実習生が途中で帰国すると、日本に戻ってきたくなくなる場合が多く、帰国しにくい環境なのかもしれないと思い、口には出さずにいた。家族と離れて、国を離れて、心細くないはずがないのだ。そんなことをわざわざ言わせるのは、デリカシーがないように思えた。
筋肉質なヤサの背中が大きい。慣れない異国で農業に励み、国に仕送りをしていると言っていた。年下なのに、ずっと大人に見える。
「ヤサ、どうもありがとう。荷物ここでいいよ」
私は玄関前で荷物を降ろしてもらう。
「はい」
「ヤサ、五平餅って食べたことある?」
「ごへーもち? おモチならしってます」
「お餅とは違うの。たくさんあるんだ。食べない?」
「おー、ありがとです。うれしい」
私は、姉にもらった五平餅を二つ、ヤサに渡した。
「レンジで温めて、このタレをつけて食べてね」
「ありがと」
「いえ、どういたしまして」
一人で食べるには多すぎたのだ。ヤサに喜んでもらえるなら良かった。それでもまだ多すぎるには変わりない荷物を持って、私は部屋に帰った。
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