周回遅れの地球の上で
秋谷りんこ
一月 1
買ったばかりのナースシューズが床をきゅっと鳴らす。夜勤の見回りは、患者を起こさないように気を配らなければならないのに、新しいナースシューズは失敗だった。懐中電灯を細く照らしながら、足音に気を付けて廊下を歩く。冬の夜勤は寒い。ナースステーションと病室は暖房が効いているが、廊下は冷える。白衣の上に羽織ったカーディアンの前をぎゅっとあわせる。
大部屋は、部屋のドアが解放されているから見回りがしやすい。その点、個室はドアが閉められていることが多いから、開閉の音で患者を起こさないように気を付けなければならない。白いドアについた銀色の取っ手にそっと手をかける。ひんやりと冷たい。スライド式のドアを静かに開けて個室に入る。ベッドに仰向けで眠っている患者を起こさないように気を付けながら、腹部あたりの布団に懐中電灯の光を当てる。呼吸の確認だ。十秒数える。
……おかしい。腹部が動いていない。
ベッドに横になっているのは、中年の女性の患者。痩せた体に薄緑色の病衣を着ている。顔色は暗くてわからない。私は患者の顔を覗き、鼻と口元を覆うように手をかざす。手に当たるはずの呼気が感じられない。自分の鼓動が激しくなる。それを落ち着かせながら、右手の指で患者の頸部をそっと抑える。
……脈がない。
焦ってはいけない。私はまず一瞬だけ頭を真っ白にした。
一瞬の「無」から戻り冷静になった私は、患者の枕元に設置されているナースコールを押し、患者の掛布団をはがし、枕をはずし、患者の顎を上に向け気道を確保する。物音など気にせずナースシューズを脱いでベッド上へあがると、ナースコールの返事があった。
「はい、どうされました」
ナースステーションにいる先輩からだ。
「アレストです。Drコールと救急カートをお願いします」
アレストとは、心肺停止を指す医療用語だ。冷静に告げられたはずだ。その声に先輩は言った。
「DNRよ」
私は、静かなその言葉にビクッとして、そこに先輩がいるわけでもないのに、ナースコールのコードが繋がっている壁を見つめた。静かだけれど、はっきりとした意志のある先輩の声。心臓マッサージのために、患者の横で膝立ちになり胸の上に重ねた私の手は、一時停止ボタンを押されたように、固まった。
DNR──Do not resuscitate.
心肺蘇生はしない、という意味だ。私は記憶を探る。この病棟に入院しているどの患者が、その家族が、どんな最期を選択しているのか、私は覚えていたはずだ。心肺蘇生をしないならば、ナチュラルにこのままお見送りをするだけだ。そうじゃなければ、医者が来るまで、心臓マッサージをしてアンビューバッグで肺に空気を送り、医者が来れば、必要であれば気管挿管を行って、必要であれば人工呼吸器に乗せて、やることは山ほどある。この患者は、この人は、DNRじゃなかったはずだ。いや、どっちだっただろう。DNRなら、何も手出しはできない。でも、DNRじゃなかったら、一刻の猶予もない。
そのとき、突然患者の目が開いた。
「DNRって何ですか?」
首をぐりんと私のほうへ向けて、患者が喋った。私は、ひっと驚き飛びのいた。女性の患者は、体を起こし、目を見開いて私を見つめる。白目は薄く濁り、黒目は瞳孔が開いて真っ黒だ。長い髪が乾燥して広がっている。
私は、患者の足元に座って、今しがた自分でアレストを確認した患者を見つめる。患者の顔色は灰色に近い薄い青で、血の気がなかった。人は死ぬとこんな色になる。初めて見たときからずっと変わらぬ驚きと恐怖を持って、患者を見つめる。死者には、侵してはならない尊厳がある。
「ねえ、DNRって何ですか? 私を助けてくれないってことですか?」
繰り返し訴えてくる患者に私は何も言えないまま、患者を見つめた。誰の顔に似ているのだろうか。あの人だったか。それとも、あの人だったか。女性の顔が、今まで見たたくさんの患者の顔と重なる。患者の顔が、さまざまな人の顔に変化していく。グラデーションのように次々と、順番に入れ替わり現れる、あの人やあの人。
「助けて下さいよ。DNRなんて言わないで、助けて下さいよ!」
患者が体を起こして私に迫ってくる。何も出来ぬまま動けない私の肩を力強くつかむ患者の手は、カーディガン越しにでもわかるほど、冷たかった。
「わあ」
大きな声をあげて目を覚ます。今日に限ってこんな夢を見なくてもいいのに、と嘆く一月二日の朝七時。汗をかいた背中が冷えている。
「……今年の初夢」
思わずぼやく。夢の中で患者につかまれた感触が、肩に生々しく残っている。看護師を辞めて半年。病院の仕事の夢は何度も見ているけれど、こんなに目覚めの悪いものは久しぶりだ。
患者の急変の夢はよく見る。看護師をしていた中でも、印象深い場面ではあったし、恐怖心も残っているのだと思う。新人の頃、初めて患者の急変に対応したとき、動揺して何をしていいかわからなかった。医者や先輩看護師たちがてきぱきと動く怒涛の空間で、私だけが棒立ちのまま、邪魔にならないように離れた場所から見ていることしかできなかった。医療機器のアラーム音と、医者の指示の声、看護師がバイタルサインを告げる声、薬品を準備するダブルチェックの声、忙しなく動き回る人々と、真ん中に横たわる動かない患者……カオスだ、と思った。普段ならできることが、できなかった。初めて患者の急変に遭遇して、パニックになったのだ。
一分一秒を争う医療現場で、医療者のパニックは、文字通り命取りだ。しかし、恐怖心や焦りは必ず出てしまう。そのため、パニックで頭が真っ白になる前に、私は自発的に一瞬だけ自分から頭を真っ白にすることにした。パニックにならないための、自己防衛手段だ。みんないろんなやり方を持っているのだろうと思うけれど、私の場合は、一瞬の「無」だった。頭を一瞬だけ「無」にする。そしてすぐに切り替える。そうすることで冷静に行動できるようになったのだ。
夢の中でまでそんなことを忠実に実行している自分がおかしかった。染みついた習慣は抜けないものだ。冷えた体で自分を嗤ってみるけれど、まだ動悸がしている。前髪をかきあげて額をこすり、目をこすり、意識を現実に連れてくる。ここは、懐かしい実家の、自分の部屋の、眠り慣れたベッドだ。
寝汗で濡れた肌着を着替えて階段を下りると、父はダイニングテーブルで新聞を広げており、母はキッチンに立っていた。
「あら、さあちゃん、早いわね」
母が振り向いて微笑む。母は、私の
「おお、さあ坊。おはよう」
父が新聞から顔をあげる。父に至っては、さあ坊だ。「坊」は一般的に男児に用いられる呼称ではないのか、と思うのだけれど、すっかり慣れてしまった。
「おはよう。なんか、目覚めちゃった」
さあちゃん、さあ坊、と呼び、私をかわいがる両親に、嫌な夢で目が覚めたとは言えなかった。きっとこの両親は、二十七歳にもなった娘の悪夢ごときでも、心配するに決まっているから。
「お正月休みなんて珍しいんだから、ゆっくり寝ていれば良かったのに」
そう言いながら母は、私の好きな紅茶を準備してお湯を沸かしている。母は昔から手際がよく、まめで働き者だ。いつも着ている臙脂色の毛糸のセーターと、紺色のエプロンが私を安心させる。
「あれじゃないか、普段は時間が不規則だから、寝坊したくても目が覚めてしまうものなんじゃないか、きっとそうだ」
父は自分の仮説に自分で納得して、新聞を畳み、「なあ」と母に湯呑を差し出すことでお茶のおかわりを催促した。母は「はい」とだけ言って湯呑を受け取り、急須にお湯を注ぐ。父の紺色のスウェット姿も、懐かしくて安心する。
「まあね、そうかもね」
私は、ダイニングテーブルの椅子に座り、母の淹れてくれた紅茶を受け取る。実家に住んでいた頃から使っている猫のキャラクターのマグカップ。たっぷり注がれたアールグレイのミルクティ。花のような軽やかな香りに気持ちがほぐれる。
「何食べる? パン? お餅もあるわよ」
「んーと、パン。で、ママレード」
看護師をしていた四年半は、まともに朝食を食べたことがなかった。いつの間にか朝食を食べるようになっている娘を、母はどう思っているのだろうか。そもそも、私が朝食を食べていなかったこと自体、母は知らないか。看護師時代は全然実家に来られていなかったし、辞めて半年経つけれど、私は、看護師を辞めたことを、まだ両親に言っていない。
「箱根駅伝、何時から?」
父は新聞のテレビ欄を見て、「八時スタートだな」と言って、母から湯呑を受け取り、日本茶を啜った。
「やっぱり今年も青学が強いのかね」
父は駅伝やマラソンの観戦が好きだ。
「うーん、そうだな。駒沢も頑張ってほしいところだがな」
こんなにのんびりしたお正月は久しぶりだ。緊急入院の対応をしていて、患者の容態が安定して、ほっと一息ついて時計を見たら年が明けていて「あら、あけましておめでとう」なんて同僚と顔を見合あわせて笑うこともあった。
嫌なことばかりではなかったはずだ。人の役に立つ仕事であることは確かだし、患者が元気になって退院すれば嬉しかった。でも、どういうことなのか、いつからか私は、どうしても、看護師を辞めたくて仕方なくなってしまったのだ。母の焼いてくれた食パンにママレードを乗せてかじる。香ばしさと、甘味と酸味がちょうど良い。母の作ったママレードは子供の頃から大好きだ。
久しぶりに娘はお正月休みがとれた、と思っている両親と、私はこのあと駅伝を見てゆっくり過ごすのだろう。ずっと焦がれていた時間ではあったが、果たして駅伝を必死に頑張っている学生やその指導者たちを、今の私が素直に応援できるかどうか、自分でもわからなかった。だからといって今更、何かできるわけでもない。好物のママレードでパンを好きなだけ食べて、好物のアールグレイミルクティを飲んで、私の今年のお正月は、今までのそれとは違う、というだけのことだ。それが良いのか悪いのかも、私にはわからない。
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