4 おれ、やったんだよな?
それこそ本業ならではの、気迫のこもった恫喝で、國木はふたりを呼び止めようとした。むりだった。本山も田辺も、すでに重いガラス扉を押し開けるのももどかしく、わずかなすきまに身体をねじこむようにしてエレベータホールに入っていた。
しかたなく國木もふたりを追った。
なかに入ると、エレベータホールのわきの階段に、田辺の後ろ姿が駆けこむのが見えた。気が気じゃなかった。リクエストされたとおり、リボルバーのすべての薬室にはすでに実弾をこめてある。安全装置をかけてはいても、そんなの、ちょっとモデルガンを触った経験があればすぐに解除できる。そのあとは、それこそかつて小学生が休み時間にふりまわしていたおもちゃと同じに、ただ持って、かまえて、引き金を引くだけでいい。
さいしょの踊り場で田辺をつかまえたときには(くだらないヒーロー映画の悪役にでもなったつもりか、リュックからゴム製のピエロのマスクなんか引っぱり出して、走りながらかぶろうとしていた)、本山のほうは階段のさいごの数段をジャンプして、すでに下のレストラン街のフロアに降りていた。背中をかがめ、不自然な走りかたなのは、紙袋のなかに片手を突っこんで新聞紙の包装を破り取ろうとしているからだった。後ろから見ても、田辺と同じようなゴムのマスクをかぶっているのがわかった。
本業じゃなくても直感しただろう、本山はほんとうに使うつもりだと。脅しじゃなく。
レストラン街の通路は入り組んでいて(昭和の懐かしい商店街をイメージしたとかいう、いい感じに煤けた内装も、このあたりでもっとも古い創業五十年のショッピングセンターがやると自虐ギャグにしか思えない)、どの店も入り口のまえにメニューを出し、順番待ちのためのいすを並べていた。ランチタイムにはまだはやいので客の姿はなかった。スタッフはたくさんいた。どれも店のガラス窓越しに、厨房のなかで忙しく立ち働いているのが見えるだけだった。ありがたいことにしかめ面のピエロが、片手に老舗和菓子屋の紙袋、もうかたほうの手にはリュックをつかんで猛スピードで走っているのを(その後ろ、もうすこしで手が届きそうなところを息を切らせて追っている、いかにもな柄シャツに角刈りの男のことも)、気づいたようすはなかった。
國木は叫んだ。
「おいっ!」
しかめ面のピエロはふりかえろうともしなかった。
さらに足をはやめながら、わきに新聞紙の切れ端を投げ捨てた(國木がそれを踏みつけて、あやうく足を滑らせてしまうところだった)。その先の突きあたりで、若い父親が――敵が(いったいなにに対する、どんな敵なのかはともかくとして)――右に折れた。頭上には〈🚹|🚺〉の標識が出ていた。思ったとおり、あたりまえの場所で、あたりまえの用事をかたづけようとしているだけだった。追われているなんて思ってもいなかった。國木のいまの怒鳴り声だって、自分に関係があるなんて思ってもいないからふりかえりもしなかった。
しかめ面のピエロの本山も迷うことなく突きあたりを右に入った。そのすぐそばの床に、和菓子屋の紙袋が横倒しになって落ちていた。特別な贈答品が入っていた手提げだった。國木もあとを追って右に曲がった。
その先は、狭く、まっすぐで、まず〈🚹〉、つぎに〈🚺〉のドアがあった。國木が角を曲がったとき、ピエロはすでに片手で〈🚹〉のドアを押し開き、もういっぽうの手をなかに突き入れていた。國木はなにも考えずそこに体当たりした。
一発めにはまにあわなかった。銃声が狭い通路いっぱいに反響した。その残響が消えきらないうちに、つぎのがふたたび通路に響いた。二発めは國木が本山の肩をつかんで背後の壁に叩きつけたから、見当ちがいの、たぶん天井あたりに命中した。國木は本山を床に引き倒すとトイレのドアをふりかえった。ダンパーの動作で勝手に閉まりかけていて、わずかなすきまからなかが見えた。狭いトイレだった。國木も――三十年とか四十年まえ、ここをいつもの遊び場にしていたころ――何度も使ったことがある。当時はタイル張りで、入ってすぐに手洗い場、その先の右側に壁掛け型の小便器が三つ並んでいて(いちばん奥のが子ども用で、低い位置に取りつけられている)、個室は左側にふたつあった。換気扇がやかましい音をたてて回転しているわりに、夏ともなると湿気とにおいで息が詰まりそうだった。いま……つかのま見えた範囲だと、壁はしゃれたグリーンのクロス張りになっていて、小便器はスマートなストール型、空調の音はまったく気にならなかった。
その突きあたりの淡いグリーンの壁に、まるでだれかがケチャップを瓶ごと叩きつけでもしたみたいに赤いしぶきが盛大に飛び散っているのが見えた。まるで屠殺場だった。國木は本業だから、これまでにもこんな現場に立ちあってしまったことがないわけじゃない。そのなかでもここは抜きん出ていた。ひどいありさまだった。
若い父親は――それにしても、ほんとうに、どうしてこいつが敵なんだ?――小便器のまえの床に横向きに倒れていた。酔っ払いがふて寝しているように見えないこともなかった。ほんとうに酔っぱらってふて寝しているだけだったらどんなにいいだろうと思わずにいられなかった。時間をかけてたしかめるつもりはなかった。あんなに大量のケチャップ……と、そのほかの白っぽい小さなかけらがゆっくりと壁を垂れ落ちているとなれば、ただのふて寝じゃないのはまちがいなかった。
子ども、と國木は考えた、あの子はまだ小さかった、と。
やっと田辺が追いついた。つらそうに腰をさすっているのは、踊り場で追いついたとき、國木が足払いをかけて転ばしてやったからだった。ゴム製のマスクは通気が悪いんだろう、はずして片手で握っていて、乱れた髪の下の地肌は汗でてかっていた。
平然と訊いた。「やったのか?」
しかめ面の本山ピエロが(國木に首もとを押さえつけられたまま、くぐもった声で)答えた。「やった。やったと思う。おれ、やったんだよな?」
田辺がトイレのドアを開けてなかをたしかめようとするのを、腕をつかんで引き戻さなければならなかった。なにがなにやらぜんぜんわからないのはともかく、本業だから、いつまでもこんなところにいちゃいけないことだけはわかっていた。
まずいことになった。
【つづく】
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