死生観

 一見重いテーマに見えますが、実はそうでもないお話です。

 いつもと変わりない、ごく明るい気分で書いておりますので、どうぞご安心を。

 

 ▽


 人間、じぶんではずっと若いつもりでいても、気づかないうちに歳を取っているものです。

 気づけばぼくも、青年というにはちょっと無理のある歳になりました。

 別に若ぶりたいわけではないので別にかまいはしません。むしろ、老いていくことに喜びを見出すタイプです。

 

 ただ、年齢を重ねてきますと、当然ですが青年時代と比べて相対的に、周りに病気をしたり死ぬ人も増えてきます。

 むかし世話になった大人の人たち、親戚のおじさんおばさん、そして両親や姉妹も、やはり昔どおりというわけにはいかないようです。

 

 すでに何度か登場した、スポーツ万能で超マッチョだった親父も鬼籍に入りまして、まぁ古今東西「死なずに済んだ人」など一人たりとも存在しないので、これも世界の流れの一つとして仕方のないことなのだろうと考えています。

 

 さて、ぼくはといえば、いまのところたいへん元気です。

 ひ弱ではありますが、家族からは「地味に健康」とか言われます。

 けっして健康マニアとかではありませんが、早寝早起きとウォーキングだけは欠かしません。

 体だけでなく、精神的にもおそらく健康な部類に入るんじゃないかと思っています。

 裕福ではありませんが、人に恵まれた幸せな人生を生きています。

 

 だからまだ、自分がいつか死ぬことについて考える必要はないのかもしれませんが、それでも例えば1時間後に隕石かなにかが頭に直撃して跡形もなくなる可能性もゼロではありません。

 

 実際はたぶんまだまだ先のことになるでしょうが、人の生きること、そしてその終りについてもまた、考えたりします。

 

 ▽

 

 先日、とても世話になっている大好きな義母が入院しまして、おそらくもう元の状態に回復するのは不可能だろうと診断されました。

 

 青天の霹靂です。

 もうすこし長生きしてくれるだろうと思っていたので、ぼくもそれなりにショックを受けまして、プライベートのほとんどをなげうって、できるだけのサポートをしようと奮闘しています。

 

 ただ、こういうことを言うと「カイエは冷たいやつだ」とか言われそうでちょっと怖いのですが、じつは死そのものについて、ぼくはあまり悲しく感じないのです。


 ただただ「寂しい」と思うだけで――どうやらぼくは死を忌むべきものだとは感じていないようです。

 

 ▽

 

 それも、おそらく両親の教育、そしてぼくの理想の女性の一角、母方の祖母の影響が大きいと思います。

 

 祖母はとても信心深い人でした。

 本当に沢山の、色んな話をしてくれました。

 ただ、一般的にイメージする「信心深い老人」とは一線を画しておりまして――どちらかというと「恋する乙女のように神様のことを愛した人」というのがピッタリきます。

 

 だから、たとえば教会だかお寺さんだかに足繁く通ったり、お墓に日参するようなタイプではなく、ただ静かに自室で聖書やらインドの聖典とかを読んで「ああ、自分はなんて幸せなのだろう」と噛みしめるような、そんな人でした。

「死んだら神様とデートするのよ」なんて恥ずかしいセリフがごく自然と飛び出すような、亡くなる直前まで少女のような人でした。


 だからぼくは、自分の死についてほとんど恐怖というものを感じません。

 同時に、普段は人と死生観について口にすることはまずありません。

「変なやつだ」とか「冷たい人だ」と思われるのは気分の良いことではありませんし、それに場合によっては人に嫌な思いをさせてしまうかもしれないからです。

 

 親父が亡くなったときもただ「もう叱ってもらえないのか」という事実が無性に寂しく感じはしたものの――死そのものについては「お疲れさま、いってらっしゃい」くらいの感じでした。

 

 よくドライだとか言われますが、決してそんなことはありません。

 あまり共感してもらえませんが、ただ死生観がちょっと異なるだけで、こう見えて割と愛情は深い方なんですよ。ええ。

 

 ▽

 

 さて、長々と語りましたがここからが本題です。

 

 親父は数年の闘病生活を経て、最後は静かに息を引き取ったのですが、家族や知人、とくに母と姉妹からそれはもう手厚く介護されていました。

「甲斐甲斐しい」なんて言葉が陳腐に感じるほど、みんな「この人のためなら何でもする」といった勢いです。

 ぼくも毎週、なぜか上の娘も一緒に、車で片道1時間以上かけて父の顔を見に行きました。

 人気者だったので、お見舞客も途切れることがありません。

 もうなんというか、愛情を溢れんばかりに注がれていました。


 更に言うと、だれも暗い顔一つしないのです。

 いつも明るくて、なんならいつも笑い声が絶えませんでした。

 

 親父が息を引き取り、そんな日々も終わりを告げまして、次はお葬式です。

「面倒くさいのは嫌」ということで家族葬、それも本当に身内だけのそれこそ子と孫だけで行うことにしたのですが、「最後に一目でも」と言って顔を出す人が引きも切らず、結局ふつうか、むしろちょっと大規模くらいのお葬式になってしまいました。

 まさか葬式当日にコンビニやスーパーを走り回って飲み物やらサンドイッチやらを買い集める羽目になるとは思いませんでした。

 

 全部終わりまして、さすがにもうみんなへとへとになっていたのですが、その日の夜、姉に「手伝ってほしいことがある」と言われて、ぼくはフラフラになりながら一人で実家に向かいました。


 みんなで「お疲れさま」と言い合って――ぼくはてっきり打ち上げでもするのかと思っていました。


 違いました。

 とんでもなく違いました。

 

 母、姉、妹の女性三人に言われました。


「今から、要らなくなったものを全部処分する。具体的にはお父さんの痕跡を消す」

「……は?!」


 いきなり未曾有の大掃除が始まりました。

 親父の着ていた服やカバン類はもちろん、親父しか使っていなかったいろんな道具、闘病の励みにするために飾っていた諸々、リハビリ用のグッズから病院からもらった表彰状に至るまで、全部「今日捨てる」と宣言されました。

 

 なんと、とのことでした。

 

 なんでも、生前に親父とも話しあって「死んだあとにメソメソ思い出して切なくなるようなことは止そう」と取り決めたそうです。

 

 知らんがな。


 ぼくにしたら晴天の霹靂です。

 葬式の余韻なんてものは一瞬で吹き飛びました。

 

「……うそやろ……」


 思わずつぶやきましたが、姉にサッと親父愛用のリクライニング座椅子を手渡されました。


「誰も使わないから分解して、分別して処分!」

「……はい」

「カイエ! 高いところにある洋服箪笥を下ろすの手伝って!」

「え、これ結婚式のとき着てた燕尾服なんじゃ」

「処分!」

「えー」

「お兄ちゃん、これゴミセンターに持っていって!」

「……なんかまだ使えそうなものが沢山あるんだけど」

「デザインがパパっぽいからいらない。ゴー!」

「……わん」


 ものすごい勢いで、あっという間に親父の生きてきた痕跡が消されていきます。

 

 ……よくドライだのなんだの言われるぼくですが。

 このときばかりは「コエー!」と声にならない悲鳴を上げました。

 

 ▽

 

 その甲斐もあって、実家はまるで女性の一人暮らしの様相です。

 ずっとやってみたかったのでしょう、フリフリの少女趣味の部屋まで作り、とてもではないが最近まで親父がいたとは思えない空間です。

 

 断っておきますと、みんな親父のことは大好きなのです。

 たまに会うと親父の話も出ます。

 しんみりしたものではなく、楽しい思い出話やちょっとした文句や笑い話といった感じで――「悲しくないのか」「ちょっと冷たいんじゃ」と言われることもありますが、そんなことはありません。

 ただ、死生観がちょっと人と異なるだけで……。


 つまり、ぼくも周りからこんなふうに思われているのだなぁ、と思った次第です。

 

 ▽

 

 話は現代に戻りまして、義母が入院してからこっち、ほとんど休まる暇もない状態です。

 子どもたち(つまり義母にとっては孫たち)も、さすがにいつもどおりというわけにはいかないようで、どうしても少し不安定になります。なにせ、子どもたちにしたら一番甘えまくってきた相手ですので、ショックは大きいでしょう。

 

 だから、ちょっとしたことで兄弟喧嘩になったり、気落ちしたかと思うと躁状態になったり、体調を崩したり、いきなり父親(ぼく)の髪をツインテールにし始めたり(なにすんじゃ)と、ちょっといつもと違う様子です。

 

 髪型をいじられるくらいなら「痛い!(二重の意味)」と叫ぶだけで済むのですが、さすがに喧嘩は困ります。

 

 それでも、ぼくの遺伝子を半分受け継ぎ、かつ哲学を共有している関係で死生観も近い子どもたちです。

 普通ならもっと落ち込んだり、泣いたりしそうなものですし、だからまだ平静を保てている、と言えなくもありません。

 

 あと、義母の実の娘たるぼくの奥さんも、いつもどおりに見えても、やはりちょっと気落ちして見えます。

 本人に自覚症状がないのが一番厄介なので、子どもたちとぼくでそれとなくサポートしている次第です。

 日々奮闘していますが、なにせぼくには威厳というものが皆無なので、今ひとつ効果がなく、いろいろ大変ではあります。

 

 それでもまぁ、こうした痛みも時間が薬となって、そのうちに「そんな事があったね」とたまに思い出す程度のことになっていくのでしょう。

 

 ▽

 

 そんないろいろもあり先日、子どもたちと死生観についてしっかりと話し合いました。

 みんなの意見も聞き、概ねお互いの同意と共感を得られたので、いつかぼくが動かなくなった日には、この世界からぼくのいた痕跡は跡形もなく消え去ることでしょう。

 

 なんかちょっといいな、と思いました。

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