好き

 子どもの試験勉強に付き合う流れで、自分の子ども時代の話になりました。


 範囲は公民の日本国憲法のあたりです。

 80年近く昔に作られた文章ですが、久しぶりに読むとなかなかいい文章だなーなどと不謹慎なことを思いつつ、一条ずつバックボーンを説明したり、最近話題になっているあれこれにフックして、ぼくなりに面白おかしく説明しました。


 子どもも関心を持って聞いてくれて、だいたいの穴埋め問題は答えられるようになりました。

 やはり社会科というのは、言葉や年号を暗記するのではなく、ストーリーとして全体の流れを把握するのが理解の早道のようです。


 それがなぜ自分の子ども時代の話になったのかというと、第13条の幸福追求権の説明の流れでです。

 つまり、子どもたちにいつも言っているぼくの基本的な思想である「人に迷惑さえかけなければ、どんな生き方をしようと自由」という考え方は、憲法で保証されているのだよ、という話になったわけです。


 でも、考えてみれば、ぼくはぼくの好きなものをなかなか理解してもらえなかったように思います。


 ▽


 それも無理のない話で、ぼくの好きなものはちょっとズレているというか、あまり一般的ではありませんでした。

 年の離れた姉の影響が一番強かったと思います。

 あとは同居してたお偉い先生がたや、なぜか家にあった大量の画集や百科事典(読破しようとして数冊目で断念しました)など、趣味が歪むのに十分な環境だったように思います。


 友達はというと、みんな流行りのアニメとかプロレスとかに夢中だったのですが、わが家にはなんとテレビがありませんでした。

 いえ、テレビという機械じたいはあったのですが、強面ハンサムな祖父が時代劇を視る専用で、あとは客間にある来客用のテレビしかなく、自由にテレビを見ることができなかったのです。

 もちろんゲームなんてできませんし、学校の話題についていけなくてかなり寂しい思いをしました。


 さらに流行りのアニメやプロレスを友だちの家で見せてもらっても、楽しみ方のお作法が分からず、正直「よくわからん……」となってしまいます。


 そんなわけで完全に流行に乗り遅れたぼくは、自分の好きなものにどっぷりとハマっていくことになります。


 ふんだ。

 ぼくはぼくの好きなものがあるから寂しくなんてないもんね。


 ……などと強がっていましたが、本当にただの強がりです。

 本当はものすごく寂しかったのです。

 好きなものをだれかと共有したかったのです。

 本音では、自分が好きなものを同じように好きになってくれる人にとことん飢えていました。


 だからぼくは、仲の良い友人たちに自分の好きなものを紹介して好きになってもらおうとしました。


 ですが、それが大きな間違いであることを思い知ることになります。


 ▽


「……気持ちわる」


 と、自分の好きなものを友人に一蹴されました。

 小学5〜6年生の頃だったと思います。


 ガーンとショックを受けました。

 なにせ、ぼくはぼくの好きなものが素晴らしいものであることを確信していたわけです。

 ちょっと(かなり)流行りからはかけ離れているものの、その良さに触れればたちまち夢中になってくれるだろうと思い込んでいたぼくは、「気持ち悪い」という一言に酷く傷つきました。


 ……ぼくの趣味は気持ち悪かったのか……。


 あのときのショックというか、なんとも言えない悲しさは未だに忘れられません。

 いえ、傷はとっくに癒えているのです。

 ですが、子ども時代の自分なんて他人みたいなものですので、少年カイエの気持ちを思うと「なんて可愛そうな子どもなのだろう」と感じるわけです。

 泣いている子ども時代のぼくを撫でてやりたい気分になるわけです。


 じゃあどうしたのかと言うと、ぼくはぼくの好きなものを秘匿するようになりました。

 たとえ孤独でも、好きなものを気持ち悪いと言われるのはどうしても嫌だったのです。

 だから、ぼくはコソコソと自分の趣味を隠して、ひっそりと自分だけで楽しむ癖が付きました。


 ▽


 ちなみに11〜2歳ごろのぼくが心から愛していたのは、骨董と絵画、そしてアンティーク・ドールでした。

 他にも戦前のレコードとか、白黒写真とか、いろいろありましたが、友達に「気持ち悪い」と言われたのが、まさにそのアンティーク・ドールでした。


 当時のぼくが好きだったのは、1800年代から1900年代初頭のビスク・ドール、つまり誰もがイメージする「アンティーク・ドール」そのものです。

 特にブリュ・ドールに馬鹿みたいにハマりまして、自転車を一時間くらい漕いで何度も専門店に足を運びました。

 お店の人も、まさか12歳くらいの男子が人形会いたさに通ってくるとは想像もしていなかったらしく、なんだか変に歓迎されまして、やたらお茶やらお菓子やらを出してもらったのを覚えています。


 次に骨董ですが、これはもうどう考えても小学生がハマるのはちょっとレアケースだと思うので(さすがにこれについては自覚もありました)割愛しまして、あとは絵画でしょうか。


 当時のぼくは、1900年代初頭あたりのモダン・アート・ムーブメントに甚く感動しまして、この世にこれほど良いものは二つとないと考えていました。

 これも元は姉の影響ですが、いつの間にか姉の百倍くらいは深くハマりました。

 熱狂的に好きな画家もできまして、ぼくは単純に「これを見れば誰だって夢中になるに違いない」などと勘違いしていました。


 やはり賛同者はあまりいませんでした。


 ただ、こちらに関してはかろうじて理解者もできました。

「意味はわからんが、お前がそれをどれほど好きなのかはわかる。こういうのが面白いと思えたら楽しいのになと思う」と言ってくれる友人です。


 その友人とは、一緒に音楽を演っていたセラヴィ君(拙作「ブラックアウト・シティ」にも登場する彼です)なのですが、一緒に芸術宣言を考えたり、著名な作品をテーマに一緒に作曲したり演奏したりして、すごく楽しかったのを覚えています。


 ですが、別の親友に「気持ち悪い」と言われたアンティーク・ドールに関しては、人に知られてはならないものとして、しばらくは秘匿し続けました。


 ▽


 しかし、中学2年生くらいになると周りから変人扱いされることに慣れてきます。


 意味もなく自分を貫き通して悪目立ちしていたもの手伝い、終いには好きなものを好きと言えないことにバカバカしさを覚えるようになりました。



 なんでぼくの「好き」に対して、誰かにあーだこーだ言われにゃならんのだ!

 何を好きになろうと文句を言われる筋合いはないわい!



 そう思ったぼくは、とうとう人目を気にするのをやめ、好き放題し始めます。


 ▽


 その集大成が、新しい部活「芸術部」の立ち上げです。

 生徒会の末端に所属していたので(推薦したやつと票を入れたやつらは、どっちも頭がおかしいと思います)校則については熟知しておりまして、クラブの立ち上げは思ったより容易であることを知っていたのです。


 ぼくはもともと美術部にいたのですが、顧問の先生の指示(≒命令)で公募用のポスターばかり書き続けることに辟易して大喧嘩をした結果、部員の大半を引き抜いて新たな部を設立しました。

 部活の途中に他の部員たちに向かって「美術系の高校を目指すわけでもないのに、お前らなんで興味もないポスターばっか描かされてんだよ、馬鹿じゃねぇの?!」と啖呵を切ったのを覚えています。


「好きなものを好きだと言えるような部にしよう」というのがスローガンでして、描きたくもない交通安全ポスターや非行防止ポスターのかわりに、自分が描きたいものだけを描いたり、文章を書いたり、あるいは写真を取ったりと、好き放題しました。

 学校から「このテーマで文章を書け」「こんなテーマで写真を撮れ」などと言われることに嫌気が差していた文芸部員や写真部員も合流しまして、まあまあ大きなクラブとなりました。


 もちろん先生がたにはめっぽう嫌われまして、だれも顧問になってくれなかったのですが(顧問がつかないと部活として認められないのです)、恐るべきことに校長先生が半分顧問みたいなことをしてくれまして、文化祭ではシュルレアリスム展の模倣みたいな展示を行いました。


 展示の際にアンケートを取りました。

 そのうちの一つの感想がものすごく強く記憶に残っています。

 そこにはたった一言こう書いてありました。


「気持ち悪い」


 してやったり、とぼくは何かを成し遂げたような清々しい気持ちになりました。


 ▽


 さて、そんなアホな少年も、信じがたいことに時間さえ経てばちゃんと大人になります。

 そしてインターネットが普及するにつれ、ぼくの趣味がさほど特殊ではないことを知りました。

 人数は少ないものの、どれも熱狂的なファンのいるジャンルでした。


 といっても、そういった界隈に顔を出したりはせず、相変わらず独りで自分の世界を楽しむのが常ではありましたが、少なくとも「好きなものを好きだと言えない」という暗黒時代は終わりを告げました。


 そうした少年時代が影響しているのでしょう。

 だからぼくは誰かの「好き」を決して軽くは見ません。

 ぼくに合う・合わないはあれど、それがどんなに特殊なものであっても、あるいは人によっては眉をひそめるようなものであっても、だれかの「好き」は聖域であり、同時に「好きじゃない」も侵すことのできない絶対的な領域だと考えています。


 ぼくは子どもたちに「自分が好きだと思ったら、誰に何を言われても堂々と好きでいなさい」と常々言っています。


 父親が、母親が、学校の先生が、友達が、世間が何を言おうと、自分の「好き」を大事にしなさい。


 もし誰かに「えー、そんなのが好きなの?」と馬鹿にされても、「じゃあ好きでいるのをやめようかな……」などと考えるのはやめなさい。


 これはぼくの教育方針のわりと軸に近いところにある哲学です。


 ぼくは好きなものは何が何でも好きだし、好きじゃないのに好きなふりをしたりも絶対にしません。


 もちろん、人の目を気にすることも大切なことですので、もしも気持ち悪がられるような趣味なら「そっと一人で楽しむ」くらいの分別は欲しいところではあります。


 ですが、誰かの、あるいは何かの意見で自分の「好き」を見失うようなことがあったなら、そんな不幸はないと思うのです。


 ▽


 ちょっといつもの「ちよろず」とは違ったテイストの話になってしまいましたが、子どもと憲法の話をするにつれ、「人の好きなものを貶さないこと」「自分の好きなものに誠実であること」について熱く語る事になりまして、ちょっと文章化しておこうかなと思った次第です。

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