第45話 ⑥アダムとイブの原罪とは

 前回、「幸せ」について考察させていただきました。僕たちが普段から「幸せ」と感じているものの正体は、自身を取り巻く環境の変化量になります。その変化に対して、「幸せ」を感じている本体は自分の心でした。このことから「幸せ」を感じるという現象は、「環境」と「自分の心」という二つの概念が関係しあっていることが理解できると思います。環境の変化に対して「自我」が抑圧されている時は不幸を感じ、変化をバネにして「自我」を高めていくと幸せになれる。そうした心の不思議について体系化したものが仏教になります。


 聖徳太子の物語を書くときこの「幸せ」に関する認識の違いが、一つ目のテーマになります。蘇我氏と物部氏が衝突した丁未の乱を舞台にして表現したいと考えています。まだ漠然としていて具体的な物語はイメージ出来ていませんが、今回、神道的な世界観と仏教的な世界観を比較したことで、頭の中を整理することが出来ました。


 ところで、宗教的なものの成立を僕なりに考えながら、気になったことがありました。それが表題にもある通り「原罪」になります。「原罪」はキリスト教が考える概念ですが、具体的に何が「原罪」なのでしょうか。キリスト教は大きく三つの会派があり、それぞれカトリック、プロテスタント、ギリシャ正教会があります。wikiを読む限りですが、この「原罪」の解釈は会派によって違うようです。一般的な解釈では、「罪とは神に対する不従順」だそうですが、今一つピンときません。カトリック的な解釈をここで参照してみます。


「人間は悪の誘惑を受け、神の信頼を裏切り、自らの自由を不正に行使して、神の命令に従わなかった。人間は神の命令に従わないことで、自らの良さを貶める結果となった。…人類の一体性により、全ての人はアダムの罪を引き継ぐことになったが、それと同じようにすべての人間はイエスの義をも受けつぐことができた。どちらにせよ、原罪も神秘であり、人間はそれを完全に理解することはできない。」

――キリスト教カテキズム


 困りました。聖書を分かりやすく解説したカテキズムの最後の〆文句が、「人間はそれを完全に理解することはできない」なのです。キリスト教においても、「原罪」の取り扱いはとても難しいようです。原罪が登場するのは旧約聖書のなかの「アダムとイブ」の物語で、蛇に唆されたイブが「善悪の知識の実」である林檎を食べてしまいます。更には、イブはアダムにも食べることを勧めました。林檎を食べた二人は、急に眼が開け自分たちが裸であることを恥じてしまいます。主なる神は、約束を破った二人をエデンの園から追放しました。これが原罪の起源になります。


 とても有名な話ですが、知識を得たことで楽園から追放される……これらは何を意味しているのでしょうか。表面的には、神という支配者に追放されるアダムとイブという構図になります。カトリックにおいては、これが神の信頼を裏切った罪とされました。ここで、示唆的なのが「善悪の知識の実」の存在なのです。これをどのように読み取ったら良いのでしょうか。これまでに、古代の人類が様々な概念を獲得していった「認知革命」の話を紹介してきました。この林檎の存在を「認知革命」と置き換えてみると、話の筋が通ってくると思うのです。


 石器を振り回し、狩猟採取で生活していた大昔の人類に対して、僕たちはどこか野蛮で低俗なイメージを抱いていないでしょうか。高度な技術としては土器くらいしかなく、食べ物は狩猟採取に頼っていました。石でできた斧を振り回し、裸足で獲物を追いかける。着るものといえば、動物の皮を剥いだ毛皮くらい。さぞ生活は大変だったろう……。


 ところが、農耕が始まる前の石器時代は意外に幸せだったという考察があります。2万年前に氷河期の底を打つと地球は段々と温かくなっていきました。青森県にある「三内丸山遺跡」はおよそ6000年前くらいの縄文時代の遺跡ですが、現代よりも2度から3度も温暖だったそうです。北に位置する青森県で栗が食べられていたことが分かっていますし、他にも様々な果実を一年中食べていました。


 サピエンス全史を著したハラリも、狩猟採取時代の人類の方が幸せであっただろうと推察しています。食べたいときに食べる、寝たいときに寝る、遊びたいときに遊ぶ。人々は心の思うままに生きていました。対して、農耕文化の始まりは、人間に我慢を強いるようになります。秋に農作物を収穫する為に、春夏に労働しました。努力に対する対価は直ぐには得られません。ハラリはこの状態を「人類が農作物の奴隷になった」と表現しました。


 動物のように思うままに生きている状態はとても自然であり、この世界と一体になっていると見ることが出来ます。エデンの園とは、農耕文化が始まる前の狩猟採取の時代だったのではないでしょうか。そうすると林檎を食べるという行為は、人間が高度に概念を獲得していったメタファーになります。賢くなった人類は相対的な幸せを求めて、自然界を切り開き人間の為の王国を作り上げました。旧約聖書は、そうした人間の欲に駆られた行為を戒めたと考えることも出来ます。


 「原罪」とは一面的には「自然界というエデンの園から、人類が独立していった事実」……と見ることが出来ます。しかしもう少し深く考察すると、前回にご紹介した「相対的な幸せ」に固執していることこそが「原罪」……と考えることが出来ます。


 このキリスト教的な「原罪」を仏教に照らし合わせると、貪瞋痴(とんじんち)という三毒に該当すると思いました。端的に説明します。

 ・「貪」――欲に駆られて貪ること

 ・「瞋」――思いどおりにならなくて怒ること

 ・「痴」――無知で正しく物事を見ることが出来ないこと


 この三毒は、相対的な幸せに固執する時に陥りがちな心のあり方になります。この心の状態では、幸せになれないどころか他者を攻撃することもあります。仏教にしても聖書にしても、言わんとしている方向性は似通っているところがあると思いました。


 これまでに、宗教的なものを理解する為に、6回に渡って僕の考えを紹介してきました。あくまでも、僕の見解になります。賛否両論、色々とあるでしょう。もし機会があるのなら、色々と話しあってみたい。新たな気付きを得られそうです。次回は、「正義」の概念についてまとめてみようかな……と考えています。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る