第44話 ⑤幸せとは

 これまでに、僕なりの解釈ではありますが宗教的なものが誕生する経緯について考察してきました。これまでに述べてきた宗教観を端的に説明してみます。


 ――心が動かされるほどに価値が高い対象に対して、尊敬する人々が集まるコミュニティー。


 この説明は、一般的な宗教観と大きな違いがあると思います。日本的な宗教観を振り返ってみると、初詣では神社にお賽銭を奉納してお願いごとをします。お願いの内容は、商売繁盛であったり受験合格であったり、色々とあると思いますが、全部ひっくるめて「幸せ」になれるようにお願いします。おみくじを引くのも、風水的な方角を気にするのも、占いで運勢を見ようとするのも、自分が幸せになれるのかどうかの運気を確認したいからです。幸福になるために、より確率の高い手段を模索する行為と解釈することが出来ます。ところで、運って何ですか? 得体のしれない「運」という概念を普通に使っていますが、その実態について具体的に説明が出来る方はおられますか。


 人が死ぬとお葬式をします。寺からお坊さんがやってきて亡くなった人のために読経をしますが、これは成仏する為に必要な行為とされています。また他にも、成仏の為の風習として本名とは別に戒名を死者に与えます。戒名には松竹梅みたいなランクがあって、100万円、50万円、10万円とそれぞれに価格があるのですが、成仏ってお金で買うんですか? ていうか、そもそも「成仏」って何ですか? 


 運にしても成仏にしても、この世界は分からないことだらけです。僕たち人類は、太古の昔からこの世界の理を知りたいと欲してきました。世界は不思議に満ち溢れています。毎日欠かさず太陽が昇ること、夜空に数えきれないほどの星々が輝いていること、春夏秋冬――季節が移り変わり生滅流転のサイクルが存在していること、子供が誕生して大人に成りそして死んでいくこと。そのような事象を説明しようとして神話が形成され、原始的なアミニズム信仰が誕生します。近代において科学が発達していくと、より高い解像度でこの世界を理解することが出来るようになりました。しかし、古代に比べて多くの理が解明されたにもかかわらず、世界が平和になったのかというと、その点に関しては疑問を感じます。なぜなら、知識を得て大きな力を手に入れたことにより、より複雑でより大きな問題を抱えることになったからです。


 太古の昔から、人類は不幸を根絶するために戦ってきました。一万年前に西アジアから東地中海の周辺、現在ではシリアやトルコがある地域で、最初の農耕文化が始まったとされます。それまでの狩猟採取時代の生き方から比べると、この技術革新は格段に食料事情を改善させました。麦からパンやビールといった文化的な食物も誕生していきます。この農業による産業革命は、人類から飢えという問題を根絶したかに見えましたが、そうではありません。収穫される農作物以上に人口が増大し、国家が形成され、食料を囲い込むための戦争が始まったからです。


 18世紀の後半になると、イギリスで工業による産業革命が始まりました。この頃の世界人口はおよそ10億人。それまでの文化的水準であれば、10億人は世界人口の限界であったと思われます。ところが、産業革命以後に様々な技術革新がなされていきました。19世紀に氷を作る技術が生み出されます。このことにより、食料を冷やして保存することが可能になりました。20世紀にはドイツにおいてアンモニアを合成する技術が確立され、化学肥料が誕生します。この技術の影響は大きく、農業による生産性が飛躍的に増大しました。もう一つ見逃せないのが原子力発電になります。稼働させるために問題は残されていますが、無尽蔵ともいえるエネルギーを人類は手にすることが出来ました。そうした様々な技術革新が合わさった結果、2023年に世界人口は80億人を超えたのです。昨今、SDGsが叫ばれていますが持続可能な社会を脅かしているの直接の原因は、この世界人口のとんでもない増加になります。


 20世紀の偉大な科学者であるアインシュタインは、相対性理論を導き出しました。この物理学的理論をもとに原子爆弾が開発されます。戦争を終結させるという名目で広島と長崎に原爆が投下され多くの人々が一瞬にして亡くなりましたが、この事実に生みの親でもあるアインシュタインは憂いました。現代においても世界は核の脅威にさらされております。アインシュタインは述べました。


 ――すべての宗教、芸術、科学は、同じ一つの木の枝である。


 宗教も芸術も科学もこの世界を認識するための行為になります。この世界を知ることによって、人類は問題を解決してきました。古代においては、宗教がその役割を担ってきたのです。現代においては、科学技術だけでなく、資本主義思想、社会主義思想、政治経済、貨幣制度、法律、教育システム、水や電気・ガスといったインフラ設備、配送システム、世界を繋ぐインターネットシステムetc、様々な思想や機構それに技術を駆使して、この地球社会を存続させようとしています。していますが……何かが足りない。そんな気がしませんか?


 SDGsは素晴らしい試みです。しかし、このままでは結果が伴わないスローガンになってしまいそうです。ロシアとウクライナの衝突……戦争は悲惨だということを誰しもが歴史で勉強してきたはずなのに、3年目に突入してしまいました。世界は手をこまねいて見ているだけです。解決に向けて努力することは大切ですが、何をどのようにすれば解決できるのか全く分からない。過去においても現代においても、問題の解決はいつも対処療法でした。問題の部分だけを切り取るか、それ以上の物量で問題を覆ってしまうのです。一時的には問題が解決したように見えても、新たな問題が浮上したり、そもそも問題の根源が残ったまま。これでは歴史は繰り返すばかりです。僕たちは、根本的な問題を見落としているのではないでしょうか。ここで問いかけたいのです。


 ――幸せとは何ですか?


 一般的に、人が「幸せ」を感じる時とは「比較の差」を感じた時になります。30万円の給料が40万円になった。想い続けていたあの人と恋仲になれた。欲しかったエルメスのカバンを手に入れた。長く患っていた病気が新薬によって治った。棚ぼたで100万円を拾った……例を挙げだしたら切りがないのですが、パターンとしては「欲しかったものが手に入った」状態のとき、人は幸福を感じるようです。


 過去の多くの宗教や、現代の様々な科学もこの「相対的な幸せ」に応えようとしてきました。食料が少ないと人々が飢餓で苦しみます。だから、より多くの食料を生産するために農業が発展してきました。貨幣制度が世界中に広まると、お金の力を理解するようになります。お金があれば何でも買える。人々は、より多くのお金を求める様になりました。敵国が攻めてくる戦争では、それ以上の兵士や武器を用意するようになります。一時的には戦争に勝利することが出来るでしょうが、戦争が無くなることはありません。中国を初めて統一した秦の始皇帝は、不老不死をの妙薬を探し求めたそうです。現代の科学で人間が老いていくメカニズムが解明され、将来的には不死の研究も視野に入った……みたいな記事を読んだことがあります。もしかすると、将来的に人間は不死を手に入れるかもしれません。しかし、不死を手に入れたことで新たな問題に直面する……と僕は思うのです。


 僕は、人類のこれまでの努力を否定したいわけではありません。ただ、繰り返される負の連鎖から逃れられないことは理解する必要があると思うのです。では、いったいどうすれば良いのでしょうか。多分、これは多くの方が感じている疑問だと思います。実は根本的な問題とは、僕たちが「幸せ」と定義しているこの「概念」に問題がありました。先程、少し紹介しましたが、僕たちが幸せだと感じている物の正体は「比較の差」になります。これは、幸せでも何でもありません。ただの変化量なのです。この宇宙の全ての万物は変化を繰り返しています。変化しないものはありません。この真理のことを、お釈迦さんは「諸行無常」と言いました。


 仏教では、人間の苦しみを四苦――「生老病死」と表現しました。個々に説明はしませんが、変化することに苦しむ様子を表現しています。経済的にお金が無くなること、恋人と別れてしまうこと、段々と老いていくこと、病気になり苦しくなること、やがて死んでしまうこと。しかし、こうした変化は避けられません。なのに、変化を押しとどめようと僕たちは必死に努力します。占いや運を信じるのは、そうした変化の流れを何とかして理解したいからです。神社や神様にお祈りをするのも、その変化を何とかして好転させたいからです。産業革命により食糧自給量を増やすのも、若さを保とうと美容整形にお金を投じるのも、不老不死の研究に勤しむのも、全ては変化に抗おうとする行為になります。変化に抗おうとして、人間はかえって苦しんでいるのです。


 なぜこのような「相対的な幸せ」という概念が生まれたのでしょうか。僕なりの解釈になりますが、「神」を尊敬する宗教的な行為が農耕文化と結びつき、国家を運営し始めたことが発端だと考えています。この段階で「神」は人々から崇拝されている存在から、人々を統治する存在という新たな「概念」が付加されました。具体的には神様の子供である王様が国のトップに君臨します。王様の仕事は、国民に「食料」を与え国家を存続させることになります。その対価として、王様は人々に仕事を要求しました。人類の歴史とは、この古代に構築されたヒエラルキー構造の模倣の変遷と考えます。現代においても同じことが繰り返されています。


 国を治める王様と国民の関係は、会社でいうところの雇用者・被雇用者の関係と同じです。この関係性の中から「対価」という概念が生まれました。人々は、仕事量に比例した対価を求めるようになります。神様にお祈りするという行為は、神に対価を求める行為なのです。そうした個人の利益を追求する人々の欲求が、功徳や奇跡それに人々に救いを与える「神」を生み出してしまったと考えます。ここで宗教という概念の、二つの側面を比較します。


 ①神=理想像――神を尊敬し、神を支えようとする。また、理想である神に自らも近づこうとする。

 ②神=雇用者――神を尊敬し、神の奇跡を信じる。神からの施しを期待する。


 僕が考える宗教の二つの概念ではありますが、これは固有の宗教組織を指すものではありません。宗教に従属する信者のスタンスの違いになります。同じ宗教組織に属していたとしても、信仰の捉え方は違います。ただ、歴史的に見ても、神を雇用者として敬う人が圧倒的に多かったと思います。また聖職者も人々にそのように説いてきました。その方が、国を統治するうえでは都合が良かったからです。


 この様な世界観の中、紀元前600年ごろにインドで釈迦が誕生しました。釈迦の最大の功績は、この「相対的な幸福」を否定したことです。自分を取り巻く変化量に一喜一憂しているのは、自分の心だと気がつきました。同じ花を見ても、何も感じない人もいれば、美しさに心を奪われる方もいます。もしかすると、はちみつの甘さを想像する人もいたでしょう。


 ――僕たちを取り巻く環境の変化に対して、どのような心持でいられるのか?


 これが、仏教の出発点になります。自分を取り巻く環境を変えるのでなく、自分の心を変える。その向かう所のゴールを「悟り」と表現しました。仏教が考える精神世界は摩訶不思議なものではなく、現代の心理学が研究している深層心理の世界を2000年以上も前から研究しています。ここでは割愛しますが、とてもダイナミックで面白い学問でもあります。


 高度に文明化された現代は、「相対的な幸せ」に固執するあまり、人間ですら数字に置き換えて計算してきました。経営学は、従業員の数、生産性、人件費といった人間の頭数を計算して合理性を追求しました。戦争は、その最たるものです。恐怖によって人間を支配して、より多くの兵力を死地に向かわせました。そうした表面的な数字からは、決して人間の本質は見えません。僕たちの中にある、人間性や道徳観また愛情といった心を見つめる必要があるのではないでしょうか。SDGsの運動の最後のピースは、世界を良くしていこうという真心の連帯だと思います。そうした真心を世界に広げていくことが出来るのなら、現代においても宗教の価値があると思うのです。

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