第42話 ③宗教的なもの

 以前、「推し活」について僕なりの解釈で考察を試みました。推し活とは、アイドル(偶像)を応援する活動のことを指します。その活動は、オリジナルグッズの購入からコミュニティーの成立、果てはお祭りとしてのフェスの開催まで段階的に大きく展開されていきます。最終的には「推しを感じる」ことが至高とされ「推し」が存在していることに感謝するようになる……とネットの記事では紹介されています。その様子が宗教に近いと感じました。ここで広辞苑から、宗教について参照してみます。


「宗教」――神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され禁忌された神聖な ものに関する信仰・行事。 また、それらの連関的体系。


 一般的に宗教は、神を崇拝する信仰形態と考えて間違いはないようです。その神が推し活の場合では、アイドルに変わります。宗教にしろ推し活にしろ、その対象は何でも良いわけではありません。尊ばれる必要があります。尊ばれるとはどのようなことなのでしょうか。ここでカントの哲学を参照したいと思います。


 カントは、18世紀のドイツの哲学者になります。人間が求める最高の価値として「真・善・美」を提示しました。真とは真理のことです。啓蒙思想の影響から様々な学問がアップデートされた18世紀では、ニュートンの万有引力の法則のように、何かしらの真理を人間が発見していく行為は、神に近づくまた神を讃嘆する行為と等しいものでした。また、そうした真理をもとに善行を強い意志でもって行うことが人間がとるべき最上の行為で、その姿が美しいとしました。簡単に述べましたが、これがカントの価値理論「真・善・美」になります。


 「真・善・美」は人を感動させる価値の分類でもあります。自分の想像を超えた何かしらの素晴らしいものに出会った時、人は畏敬の念を抱きます。幾つかの例を挙げてみましょう。天に向かって切り立つ大きな山を見上げた時、黎明の赫赫と登りゆく太陽を見つめた時、これまでに解き現されなかった何かしらの真理を発見した時、命をかけて誰かを救おうとする英雄に出会った時、傷ついた心を献身的にケアしてくれる真心に触れた時、見たこともないような美しい姿に見惚れてしまった時、人は感動に打ち震えて首を垂れます。感じてしまった自分の心に抗うことは出来ません。信仰心の芽生えとは、そのような純粋な心根だと考えます。


 「神」という概念は、そうした「真・善・美」を兼ね備えた創造神的なイメージが強いのですが、そればかりではありません。日本では、八百万の神と称されるように身の回りの様々なものに神の存在を見出そうとしました。それは、空気や足元の雑草など、当たり前すぎて存在すら忘れてしまいそうな対象にまで目を向けて、価値を汲み取ろうとする行為です。そうした繊細さは、日本人ならではの感性なのかもしれません。


 漢字の「美」の成り立ちについてご紹介します。二本目の僕の長編小説「本読みクラブー怪人二十面相が好きだった僕らの時代ー」の中で取り上げたことがあります。「美」という漢字は、「羊」と「大」という二つの漢字が合成して出来ています。色々な謂れがあるのですが、有名なところでは羊がデカいことが美しいと、そのままに解釈されています。ところで、なぜ羊なのでしょうか。漢字学者の白川静氏によれば、羊は神への捧げものだったそうです。その捧げものである羊が丸々と太っていることが、神への捧げものとして最上、つまり美しいと考えられました。また、他の解釈として「大」は大きいではなく「足」の形を表しており、切り取られていない完全な姿であることが美しいとの解釈もあります。どちらにせよ、美しいという概念は神への供養が関係しているのです。


 古代の日本において、供養はとても重要でした。そもそも国の政治は供養により成り立っていたのです。大王を支える各地の豪族は様々な貢物を捧げました。米に始まり、塩、魚、あわび、鹿、雉といった様々な食材が大王に献上されます。そうした供物は神に捧げられました。なかでも米は特殊で、強飯という蒸したご飯と餅が作られ、さらに酒が醸されます。捧げられた供物は、直会という宴会で大王同席のもとで一緒に食されます。これを神人共食と言います。神と一緒に食事をすることで強い契りを確認するのですが、象徴的なのがお酒です。最初に大王が、盃に注がれた酒を飲みます。その使われた盃を使って、皆が順番に酒を飲んでいきました。そのような風習は、神前式の三々九度やヤクザの兄弟盃で見られます。供養するという清い心根に対して、神の血脈である大王は皆に酒を振舞うことで応えるのです。


 18世紀の詩人、アンドレ・シェニエをご存じでしょうか。人間の自由と平等を勝ち取った歴史としてフランス革命は有名です。しかし、革命がなされたからといって平和になったわけではありません。その後に、ジャコバン派のロベスピエールによる恐怖政治が始まりました。革命反対派や穏健派は次々と拘束され、ルイ16世と同じように断頭台に送られていきます。そうした政治姿勢を批判したアンドレ・シェニエもまた断頭台に送られました。恐怖政治が終わる三日前のことになります。彼の生きざまに感動した後世の人々は、アンドレ・シェニエの生きざまをオペラにしました。断頭台に送られるアンドレ・シェニエが歌います。


――ある晴れた五月の日のように――


 風が優しく吹き抜け

 太陽の光がなでるように

 大空へと消えて行く

 晴れわたる五月の日のように

 韻律の口づけと

 詩行の愛撫と共に

 私は人生の頂上へと

 登っていく


 全ての人類の運命のために

 廻り続ける星は

 私を今、死の時へと

 近づける

 そしておそらく私の最後の詩行が完成する前に

 処刑人が我が人生の終わりを告げるだろう


 詩よ、最後の女神たれ!

 お前の詩人にふたたび

 輝く霊感と

 絶えぬ炎をもたらし給え

 私はお前が生き生きと心からほとばしる限り

 韻律に乗せ死にゆく男の凍てつく魂を捧げよう


 詳細は述べませんが、己の正義を信じたアンドレ・シェニエは、自分の死を目の前にして詩の女神に自らの命を捧げることを宣言しました。これは究極の供養になります。自分自身を供養するという行為は、日本にも悲しい歴史として存在しました。太平洋戦争で行われた神風特攻隊のことです。この行為の是非は横に置いておいて、日本人は神風特攻隊から何かしらの尊いものを感じると思います。それは、自分の身を捧げるという行為に美しさを感じるからです。「推し活」も含めて宗教的なものには、このような捧げるという行為が顕著です。この供養するという行為こそが、もっとも宗教的な行為だと僕は考えています。ところが、現代の宗教にはそのようなイメージがありません。ここで、よく見られる宗教的なキャッチフレーズを紹介します。


 ・100万円の壺を購入したら幸せになれる。

 ・ラッキーカラーは、青。

 ・このパワースポットで二人でお参りすると永遠の愛が約束される。

 ・この蛇の皮には金運がある。お金がガッポガッポ!


 これまで宗教的な行為として供養する行為について考察してきました。ところが、これらの文言からは、供養は全く感じられません。どちらかというと、信じることによる効果を強調しています。一般的に理解されている宗教観を一言で述べてみます。


 ――信じる者は救われる。


 多くの人々が信仰する理由は、救われたいからです。病気を治したい。大学受験を勝ち取りたい。良い人に巡り合いたい。商売繁盛して欲しい。死んだら極楽浄土や天国に行きたい。だから、供養します。お金を払います。神様、宜しくお願いいたします……なのです。スーパーでお買い物をする感覚とあまり違いがありません。現代の多くの宗教は、いや殆どの宗教は本質が忘れ去られていると考えます。信者の煩悩に応えることが出来るか出来ないかに、宗教の価値が問われているのです。そのように変質してしまったのです。


 ――宗教の本質が「供養」なら、信仰する意味があるのか?


 そのような疑問が湧くと思います。信仰することによって何かしらの対価を求めているのであれば、信仰する必要はないと思います。「推し活」の活動について思い出してみてください。彼らは対価ではなく、応援する行為自体に幸せを感じています。宗教というのは「生き方」、つまり「哲学」だと僕は考えます。


 ではなぜ、宗教は変質してしまったのでしょうか。それは、国家的権力が権威としての宗教を必要としたからです。歴史的に宗教は、国家運営のOSとして機能してきました。宗教的な神は、人々に施しを与えるものとして再解釈されていくのです。古代インドでは、アーリア人の侵入によりバラモン教が広がりました。バラモン教で特徴的なのがカースト制度になります。人間社会に階層を設けることで、効率的な国家運営を可能にしました。そうした世界観の中、ゴータマ・シッダールタが釈迦国で誕生します。世界三大宗教の一つ、仏教を説き始めました。


 多くの宗教が神様を祀る中で、仏教だけが特殊です。人間の幸せを神に求めません。人間的成長の必要性を説きました。また、多くの宗教が神秘性を大切にします。聖書がラテン語で書かれていたのは、一部の聖職者しか読むことが出来ないことに意味があったからです。これにより神秘性を高めました。対して、仏教の経典は、様々な言語に翻訳されていきます。釈迦自身が、その事を奨励しました。哲学として、多くの人に理解されることが必要だったからです。


 ところが、そうした仏教も時代の変化と共に変質していきました。神秘性が尊ばれ、自分自身の成長よりも、お布施をすることを強要するようになっていきます。葬式や戒名料にお金がかかるのはその名残です。葬式では経文が読経されますが、何を言っているのかチンプンカンプンです。本来は、葬式で読経されることが経文の役割ではありません。経文の意味を理解することが大切なのです。宗教に限りませんが、形式ばかりが重要視される昨今だからこそ、本質を理解することはとても大切だと思います。

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