第41話 ②歴史は繰り返す

 「歴史は繰り返す」という有名なフレーズがあります。何となく意味は分かるし、何だか含蓄のある深みを感じます。世界的な情勢について話が弾んだタイミングでこのフレーズを使うと、それだけで何だか物凄く分かったような人を演出できて良いかもしれません。ところで、このフレーズはローマの哲学者が最初に使ったとされるのですが、その文献が見当たりません。どちらかというとドイツの哲学者カール・マルクスが使ったことで有名になります。フランスでルイ・ナポレオン(ナポレオン三世)がクーデターで帝位についた折に、敵国であるドイツのマルクスが呟きました。


「歴史は繰り返す。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として」(意訳)


 ナポレオンの登場で過去にはエライ目にあったけれど、同じナポレオンでも小粒なルイの登場は笑える……そんな意味かと思います。マルクスは、ルイ・ナポレオンのことを完全になめていました。このように見ると、「歴史は繰り返す」というフレーズになんだか深みを感じません。ところで、歴史は繰り返すのでしょうか? というか歴史の何が繰り返すのでしょうか? 僕なりに考察してみたいと思います。


 最近、今の中国経済と日本のバブル経済を比較するような記事を読みました。「歴史は繰り返すのか?」的な内容だったと思います。日本のバブル経済の崩壊は1990年代に起きました。そうした経済の崩壊は過去でも何度でも繰り返されてきました。有名なところでは、1987年10月19日月曜日に起こったニューヨーク株式市場の大暴落――ブラックマンデーや、古いところでは1637年にオランダで起きたチューリップ・バブルなんかがあります。僕は中央卸売市場という限られた世界で相場を見ていますが、相場は高騰した後に崩壊するパターンを何度も繰り返しています。僕なりの見解ですが、相場は波のようなものだと感じています。相場は上がったり下がったりするものなのです。そのような変動相場に根差した市場経済に対して、「歴史は繰り返す」というフレーズを使うのはちょっと違うような気がします。


 歴史というのは、本来は人類の営みを時系列に従って記録した書物のことをさします。それが転じて、時代が変動する姿そのものを歴史と呼ぶようになりました。歴史とは、人間が作り出すものです。その人間は、同じ失敗を繰り返しがちな生き物だと思いませんか? 仮に、何度も同じ失敗をしている友人がいたとしたら、きっとあなたは注意するでしょう。


「同じことを繰り返すなよ。馬鹿な奴だな」


 人間の真価が問われるのは、失敗をした時です。失敗を繰り返さないように原因を突き止めて成長できる方は素晴らしい方です。過去の偉人の多くは、そのような気質を持っていたのではないでしょうか。対して失敗を繰り返してしまう方は、その原因になったものが見えていないか、そもそも原因を他者に転嫁して自分を顧みない場合が多いのではないでしょうか。


 例えば、僕は若い頃にパチンコに狂ったことがあります。ギャンブルというのは運のゲームなので確率が重要になります。一度大勝ちをしたからといって、次も勝つとは限りません。何も考えないで投資を続けると、確率に従って負けていくのは自明の理なのです。その事が分からなくて、大勝ちした時の記憶にすがったまま「次こそは!」と考えもなく突っ込んでいました。これでは勝てない。パチンコの必勝法もあるにはありますが、総じて利益に対するコストが大きい。勝てる確率を見つけたとしても膨大に時間を消費するか、違法行為を行い警察のお世話になるのが関の山かと思います。今はパチンコをしていません。素直に仕事をしています。人間は、成長すれば同じ失敗をしなくなります。ところが、歴史の場合は同じ論法が通じません。なぜなら世代を跨ぐからです。その事を少し説明してみたいと思います。


 一般的には「歴史は繰り返す」というフレーズは、悲惨な歴史に対して使われる場合が多いように思います。第二次世界大戦は、1945年8月15日の玉音放送による日本の降伏宣言によって終結しました。それ以来、局地的な戦争はあったにせよ世界を巻き込むような戦争は起こっていません。ところが、ロシアによるウクライナへの侵攻では、核をチラつかせるなど世界的に緊張感が高まりました。戦争は3年目を迎えており、今だ終結の兆しが見えておりません。仮に、第三次世界大戦が勃発したとしたら、「歴史は繰り返す」というフレーズの出番なのでしょうが、それはあってはいけないことです。それを食い止める努力が求められています。


 ところで、戦争に対する人々の捉え方で少し気になることがあります。戦争がいけないことは誰もが理解しつつも、どこかブラウン管の向こう側の話……みたいな他人事感が漂っていませんか。これは、僕を含めての感想になります。僕の一つ上の世代ですが、ベトナム戦争では反戦運動が盛んだったと聞いています。日本では学生運動が盛り上がり、アメリカの音楽シーンでは反戦をテーマにした歌が歌われました。サイモン&ガーファンクルの「Scarborough Fair 」や、ジョン・レノンの「ハッピークリスマス(戦争は終わった)」や、ボブ・ディラン「風に吹かれて」などは有名で、1967年のウッドストック・フェスティバルはそうした反戦運動の集大成として歴史に残りました。


 なぜ反戦運動が盛んだったかというと、イデオロギーやポリシーの前に戦争の被害者が健在であったという事実が大きいと考えます。つまり、戦争の悲惨さを知っていたから、強く反対できた。ところが、それ以降の世代は戦争を歴史としては知っているけれども体験したことがない。この差はとても大きいと考えます。情報は世代を超えて引き継ぐことが出来ます。しかし、戦争の苦しさといった感情は次の世代に引き継ぐことが出来ません。何故なら、感情は個人の中で完結していて、他者と共有できないからです。体験した事のない戦争の悲惨さを理解したければ、想像するしかないのです。


 ジョン・レノンが「イマジン」を歌いあげましたが、それは他者の痛みを感じようとする前向きなイマジンがなければ、絶対に平和は訪れないからです。戦争は目を背けることも出来るし、真っすぐに見つめることも出来ます。しかし、見つめるためには強い意思が必要になります。戦争の危険性が増大するのは、その悲惨さを感じようとしない人々が増えることと比例しているのではないでしょうか。


 感情は、人間の行動に直接影響します。この感情が世代間で受け継ぐことが出来ないことは、「歴史は繰り返す」ことの大きな要因になっていると考えます。何もしなければ、人類というのは延々と歴史を繰り返していきます。人類にとって好ましい出来事であれば良いのですが、戦争や災害、痛ましい事故など人類にとって不利益な歴史は繰り返したくありません。では、どうすれば悲惨な歴史を繰り返さないで済むのでしょうか? 人類に取れる手段はあるのでしょうか?


 古代においては、宗教がその役目を負っていました。具体的には戒律を定め、コミュニティーの人々に強要したのです。少し時代が進むと、律令制度として国が管理しました。近代では、国から強要される法律から、社会契約としての法律へと、法律に対するアプローチが変容していきます。国家間の問題に関しては、国連という組織を立ち上げて国連憲章を唱えました。歴史的背景や導入の経緯はそれぞれ違いますが、それらはルールであり違反者には罰則が科せられます。ルールは、同じ過ちを繰り返さないための人類の知恵だったわけです。


 そうしたルールが、個人においても国家間においても平和な社会を築くために必要だということは理解できます。しかも、コンピューターにおけるOSのように、人類の歴史に深く根差してきました。ただ、そうしたルールの強制力には温度差があります。これは僕の感覚の話になりますが、法律よりも宗教的な戒律の方が人間に対する影響力が強いようです。宗教は、古代において強い影響力を持っていましたが、現代でも新興宗教が雨後のタケノコのように誕生しました。また、世界三大宗教は、2000年以上の歴史がありながら、いまだに影響力を持っています。宗教って何ですか? 「歴史は繰り返す」というフレーズについて、ここまで僕の考察を述べてきたわけですが、ここで歴史を宗教に置き換えてみます。


 ――宗教は繰り返す。


 過去においても現代においても、人類は宗教的なものを求めてきたと考えます。以前、「推し活」について、考察したことがありました。最後まで書き上げてから、「推し活」に原始宗教の胎動を感じたのです。無宗教を謳った人であっても、無意識に宗教的な何かを求めているのではないでしょうか。また、科学は現代版の宗教と考えても良いように僕は考えています。漠然としたこの「宗教」という概念。次回は、僕なりに宗教を考えてみたいと思います。

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