第36話 麹のこと

 仕事帰りに、国産の大豆と瀬戸内の藻塩と麹を購入しました。これらの材料でできるものといえば……味噌になります。味噌の仕込み初めは、寒い冬が良いみたい。年始ということもあり、区切りが良い仕込みのタイミングになります。過去にも味噌は何度も作ったことがありました。手前味噌はとても美味しい。それでも、作り始めるとなると幾つかの精神的なハードルがありました。


 まず、流通が発展した現代においては、わざわざ作らなくてもスーパーに行けばコーナーに美味しい味噌が並んでいます。北は仙台の味噌から南は鹿児島の麦みそまで、様々な種類の味噌が選び放題。値段もそれなりにこなれていて、わざわざ作る必要を感じません。


 次に、料理のように直ぐに使えません。味噌は仕込んでからが長い。熟成させる必要がありました。冬に仕込んで暑い夏を経験させると、それなりに美味しい味噌に仕上がります。でも、味噌の熟成はもっと長い方が良い。正月に仕込んだ味噌を、来年の正月くらいに使い始めるのがちょうど良かったりします。


 そんな味噌づくりを始めたのは、ポッドキャスト「RADIOただいま発酵中」を聞き始めたからです。それまでは「食べ物ラジオ」だったのですが、最新回まで聞いてしまいました。ポッドキャストでラジオを聞く習慣が身に着いたので、耳が寂しい。新しい情報のシャワーが必要でした。そうした中で選んだのが、またしても食い物関係です。


 「食べ物ラジオは」は、和食の調理人が和食を中心とした食全般をターゲットにして歴史や文化を語ってくれました。それに対して「RADIOただいま発酵中」は、発酵デザイナーという聞いた事もない肩書を持つ小倉ヒラクさんが、発酵に絞ってその歴史やサイエンスを語ってくれます。かなり面白い。で、味噌づくりを始めてしまったのです。


 昔は冷蔵技術がありませんから、味噌を始めとする発酵食品の最大の長所はその保存性でした。腐りやすい食材を微生物の力を使って長持ちさせるのです。ついでに、うま味成分であるアミノ酸が生み出され、美味しくなるという副次効果まで期待できました。


 長期保存の方法には大きく3種類あります。代表的なものが塩漬けです。浸透圧の働きで、細菌は細胞膜を分解されてしまい活動が出来なくなるのです。これによって、食材の長期保存が可能になりました。乳酸菌をはじめとする発酵のメカニズムは、ペーハー値を酸性に寄せることです。このことにより雑菌の活動が抑制されます。逆に燻製は、アルカリに寄せる効果がありました。この、塩、発酵、燻製が古代からの代表的な保存技術になります。


 発酵文化は、日本の食の歴史を支えていきました。代表的な発酵食品を羅列してみましょう。味噌、醤油、みりん、酢、これらは調味料になります。糠漬け、納豆、かつお節、クサヤ、塩辛、ヨーグルト、チーズ、パン、これらは食品になります。日本酒、ビール、ワイン、焼酎、ウィスキー、甘酒、プーアール茶、これらは飲み物になります。


 多いですね。現代では、発酵食品が存在しない食の世界は考えられません。これら発酵食品を生み出しているのは微生物の働きによるものです。微生物にも様々な種類がありますが、そのメカニズムは代謝になります。人間が食事をしてうんこをするように、微生物も食事をして排泄をするのです。その過程で生きるためのエネルギーを取り込んでいるのですが、この排泄行為が実は複雑な分子構造であるたんぱく質や糖分を分解していくのです。例えば、ビール酵母は、糖分を分解して二酸化炭素とアルコールを排出します。これら発酵食品の源流をたどっていくと、醤(ひしお)にたどり着きます。


 醤の文化は中国で生まれました。僕が勉強している飛鳥時代には、この文化がもう伝わっていたようです。醤には様々な種類があります。現代でも残っているのが、豆を使った味噌と醤油になります。他にも、魚なら魚醤や塩辛がありますし、滋賀の鮒ずしや伊豆のクサヤなんかも醤の仲間になります。これら魚を使った醤は寿司の原型だったりします。元々の醤は原料に肉が使われていました。でも、日本においては食肉文化そのものが仏教の影響で禁忌でした。だから肉を使った醤文化は残っていないようです。


 発酵を促す微生物の中には、日本にしか存在しないものがいます。名前をアスペルギルス・オリゼと言います。日本では、この菌のことを国歌ならぬ「国菌」と認定していて、これが「麹」です。カビの一種になります。麹のメカニズムは少し複雑なのですが、ザックリと説明すると、たんぱく質をアミノ酸に分解したり、でんぷんを糖に分解したり、更には脂質をも分解するのです。単体のカビなのに、様々な分解が出来る頑張りやさんです。


 昨晩から水に浸しておいた大豆を、二時間半も煮込みました。小一時間かけてすり鉢で潰します。麹と塩を混ぜ込んで、ポリの漬物樽に納めました。その作業をしながら、同時進行で、二つの発酵食品を仕込みます。玉ねぎ塩麹と甘酒です。玉ねぎ塩麹は、コンソメの代わりになるくらいに旨味成分が生成されるそうです。かなり期待しています。それと甘酒ですが、少しトラブりました。


 甘酒を作るためには、麹とお粥があれば良いのですが、問題は温度管理になります。レシピでは、炊飯器の蓋を開けたまま保温状態にすると簡単とありました。ただ、60度を超えてしまうと麹が死んでしまいます。暫く味噌作りに集中していたのですが、ふと炊飯器に指してある温度計を見ると70度になっていました。


 ――ゲッ!


 慌てて内釜ごと引き抜きました。我が家には、メーカーが違う炊飯器がもう一台あるのでそちらに移し替えます。注意して見ていましたが、55度くらいで安定しました。しかし、一度は70度まで温度が上昇したので、多くの麹が死んでしまったのではないかと心配です。経過を観察していますが、トロトロに溶け始めているし、ほんのりと甘くなっていました。9時間を超えると米の固形物がなくなりドロッドロになります。


 温かい甘酒を飲んでみました。かなり甘いです。喉が痛いくらいに甘い。正確に測っていませんが、糖度は20度を軽く超えていると思われます。林檎の甘いもので15度くらい。葡萄の甘いもので18度から20度くらいになるのですが、甘酒は果実の甘さを軽く超えています。当時としては、貴重な甘味料だったでしょう。


 甘酒は、江戸時代に庶民でも手軽に作れる飲み物として流行ったそうです。夜に仕込んだら次の日に飲めるので「一夜酒」と呼ばれていました。現代では寒い冬に甘酒で温まるイメージが強いですが、当時は夏に飲んでいたのです。夏だから、常温の放置でも甘く発酵することが出来ました。俳句にも夏の季語として甘酒が登場します。甘酒が夏の風物詩だったとは、現代から比較すると意外ですね。


 甘酒の記述は日本書紀に現れているので、古墳時代や飛鳥時代にも飲まれていたことになります。ただ、庶民が口に出きるようなものではなかったと思われます。日本の酒は、麹を使って糖分を生成し、更にその糖分を酵母の力でアルコール発酵させます。世界的にもかなり複雑な工程を経てお酒が出来ているのです。これらの仕事を、部民と呼ばれる現代でいうところの公務員のような人々が酒造りに関わっていました。だから、麹の取り扱いも組織的に管理されていたと考えます。


 ところで、人類の進化に調理が関わっていたとの考察があります。肉食動物や草食動物は、食べたものを消化させるために多くの時間を必要としています。消化する為に寝なければいけません。じっと動かないのです。その間、体中のエネルギーを腸に集中させて体に必要なエネルギーを取り込みます。ところが、火を使い始めた人類は肉にしろ穀物にしろ食べやすく調理しました。そうすることで、消化するための時間やエネルギーを節約することが出来たのです。その節約することによって生まれた余暇が、人類の進化に大きく寄与しました。


 この調理は火だけに限りません。発酵は、更に大きな効果がありました。発酵の仕組みは、酵素による物質の分解です。この働きは腸の中でも同じで、腸内の微生物が酵素を使って食べられた食物を分解しているのです。つまり、発酵は「外部消化作用」と見ることが出来ます。予め消化された食物を口にするということは、胃や腸の負担が少なく、且つスピーディーにエネルギーを取り込むことが出来ました。


 発酵の歴史は、かなり古い。人間が意識的に取り組み始めたのは、ヨーグルトなら5000年前、ビールなら8000年前とされます。そもそもビールは薬として飲まれていました。現代でいうところの、健康飲料的な扱いです。活力の元として重宝されていたのでしょう。そのイメージになぞっていくと、甘酒も同じです。多くのミネラルを含んでおり、とても甘い。夏バテ解消のエネルギー元として、江戸時代では親しまれていたようです。


 最近の僕は、新しい小説の取り組みと並行してジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」を読んでいます。その為に、飛鳥時代に直接関係する勉強から遠ざかっています。とはいっても、飛鳥時代を理解するためには必要な勉強です。ただその影響で、この「歴史転換ヤマト」の更新はお休みが続くと思います。もし、楽しみにされている方がいるのでしたら、ごめんなさい。

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